第二章:日は昇り、日は落ちて 2/5
「あっ」
思わず声が出てしまったが、それは宰の自意識過剰だったようだ。少女は宰を一瞥することなく横を通りすぎると、そのまま教室を出て行ってしまった。……最初から最後まで完全無視。相当怒っているらしい。重苦しすぎる罪悪感に、宰はガクリと肩を落とした。
「転校生!」
するとクラスメイトが集まってきた。突然だったので、宰は本気で飛び上がってしまった。
「なっ!? なんですかナンデスカなんですかナンデスカっ!?」
「おまえが、あの篠原宰だな! 俺、山田! どーぞよろしくぅっ」
「ど、どうも……篠原宰です……」
背の低い丸刈りの男子に友好的に肩を叩かれ、宰はとりあえず会釈する。それにしても、また広報紙か。すごい効果である。と、山田の隣にいた爽やかそうな男子が宰の前に出てきた。
「俺は津嶋。一昨日からクラス委員になった。んで、こっちが梶山」
「おっす!」
「ど、どうも。篠原宰です……」
さらに今度は、津嶋の隣にいた梶山の横から、快活そうな女の子が身を乗り出してきた。
「また前島くん、忘れられたー。ツッシー、ひどいんじゃない?」
「むっちゃ申し訳ない。んで、そっちが無口な前島。テレパシーで話してやってくれ」
「てれっ!? ……し、篠原宰、です?」
宰の後ろにひっそりと佇んでいた男子にコンタクトを取ってみるが、その反応はない。
「で、私が日野灯。こっちがあいちゃん、うたちゃん、ほののん、ななちゃん」
「はじめまして! 合田博美だよ!」
「宇田川紗織です!」
「私は木下穂乃香っ」
「松浦七星ですっ。広報紙見たよ。よろしく、篠原くんっ」
「よ、よろ――」
「そしてE組の愉快な男どもでェエエエエッす! 激しくよろしく、篠原くゥウウウウん!」
「へえっ!? ちょっ、なんで怒って――すみませんごめんなさい反省しますから、ちょっとだけ待ってくださぁああああいっ!」
なにか気に障ったらしい山田が突然奇声を上げ、顔を歪ませたE組男子とともに宰に雪崩れこんでくる。……なるほど、日本一元気すぎる町の住人なだけあって、彼らのパワーはとんでもない。宰が全く追いつけない。まだ自己紹介レベルなのに、大波みたいに押し寄せてくる。
ごめんなさぁぁーーいっ、ともみくちゃにされた宰の悲鳴が教室内に情けなく響き渡った。
「――ナギ! また号令の時、立たなかったでしょ!」
そんな時、教室の前から女の子の可憐な声が飛んできた。
血の涙を流すような真っ黒な衝動に駆られていた男子たちがその方向を向いて固まり、床に転がされ、山田に胸倉を掴み上げられていた宰もまた、ガタガタ震えながら同じように見た。
今までニューハーフティーチャーと話していたらしいその女の子は、怒ったように唇を尖らせると、自分の机に書類を置いた。パタパタと音をたてながら走ってきて、ナギと呼んだ相手の机を両手で叩く。急に顔をしかめた倭の机だ。彼女はそんな倭にグッと顔を近づけさせた。
「次はちゃんとするって言ったのに、またやらなかったのね! あと、足も下ろす!」
「ちっ……。うるせー女だな。号令なんざ、どーでもいいだろーが」
倭が忌々しそうに窓の外を睨むが、女の子はその言葉を許さなかった。
「よくない! 号令がかかったら、ちゃんと席を立って、先生にお辞儀しなきゃいけないんだよ! あと、足も下ろすの!」
「うっせーな! つか、いちいち席立って頭下げなきゃなんねーとか、意味わかんねーっつーのっ。命に関わるわけでもねーしっ、やったって無意味だしっ。そもそも、こういうのは『形骸化』っつーんだ。だから、別にやんなくたっていいんだよっ」
「ダメ! それでもしっかりやるの! あと、足も下ろすのー!」
「うっせーんだよ! 俺はな、号令っつー社会の悪癖に立ち向かってるんだ。全体主義っつーコエー思想に立ち向かってるんだ。つーことで俺は正しいことをしているのであって、号令のときは席を立たなくてもいいことになる! 以上っ、証明終了っ、エー・イー・ディー!」
「意味わかんないよ! あと、足も下ろすのぉー!」
しかも「AED」じゃなくて「QED」だ。頭に電気ショックを与えたほうがいいのではなかろうか、倭は。あまりにもバカバカしい理屈にげんなりとしていると、苛立たしげに頭をかいていた倭がいきなり宰を振り返り、「おい、ヴィッキー!」とうるさい声で呼んできた。
「なに? てか、ホントにそう呼ぶんだね、君」
「ヴィッキー?」
女の子が不思議そうに宰を見てきた。パッチリした丸い目が印象的な、美少女と呼ぶに相応しい女の子である。背は高いほうだが顔立ちは幼く、こてんと小首をかしげる様が小動物みたいで可愛かった――のだが、今は見惚れている場合ではなかった。宰はすぐさま我に返った。
「ぼ、僕もわかんないんだ。なんか、倭にそんなあだ名をつけられちゃって……」
「なんだろう。初めて聞くね。うーん、ヴィクトリアの愛称かなぁ」
ちょっとツッコみたいところがあるのだが、聞き逃しておく。女の子は下唇に人差し指を当てると、少しの間考えこんだ。そしてパッと笑顔になると、床に転がる宰に話しかけてきた。
「私、田中古都子っていうのっ。ナツ先生の前の席にいるんだよっ」
いきなり話が飛んだ。しかも、ニューハーフティーチャーのすぐ目の前だ……。
「あっ。私のことは古都子って呼んでね! 私もナギみたいにヴィッキーって呼ぶから!」
「へえっ!? そう呼ぶのっ!?」
まさかのヴィッキーに驚いてしまう。
「えっ、ダメ?」
「いや、ダメということはないんだけど……なんか僕の名前、忘れ去られそうだね……」
どこか遠くに消えていきそうな思いで呟けば、古都子がキラリと目を輝かせた。
「大丈夫! 絶対忘れないよ! だって覚えやすいもんっ。ねっ、ひのりんっ」
「そうそうっ。しかも、噂の宰くんだしねっ」
どうやら宰の名前は覚えやすいらしい。だが、さっきは漢字が難しいとも言われたのだが。
自分の名前に謎のものを感じながら、ヴィッキーと呼ぶ人がもう増えないことに安堵した。
(それにしても、ここ、可愛い女の子ばっかりいるなぁ。古都子といい、日野さんといい……。そういう土地柄なのかな? みんなして笑顔だから、すごく輝いて見えるっていうか……)
クラスの雰囲気はとてもいいようだ。ほんわかしているし、調和しているし、何よりエネルギーがある。ニューハーフティーチャーの影響だろうか。梅桜町の人が元々持っている性質だろうか。そこのところはよくわからなかったが、とてもいいものであるのには違いなかった。
「ねえねえ、ナギ。ヴィッキーってどういう意味なの?」
古都子が倭に聞いている。いつの間にか机から足を下ろしていた倭が舌打ちをついた。
「しっつけーなぁ、どうだっていいだろ。つーかおまえ、ヴィッキーって呼ぶなし」
「なんでっ」
「なんで、じゃねー! だいたいヴィッキーって名前にはなっ、おまえが知らなくてもいいようなふっかぁぁーーい意味が――」
「そのふっかーい意味ってなに?」
「だから、おまえは知らなくていいっつってるだろーがっ!」
「なんでよ! ナギのいじわる!」
(ナギ……?)
倭に向かって何度もそう連呼する古都子に、今更ながらに不思議に思った。しかも二人の雰囲気がわりと親密そうだったので、なんとなく(手を離してくれた)山田に聞いてしまった。
「ねえ、山田。あの二人って、幼なじみか何か?」
「ん? いや。違うってよ」
思いがけず首を振られる。
「でも、すごく仲がよさそうに見えるんだけど……」
「古賀は、授業をサボったり何だりしてばっかりの不良だからな。田中さんは優しいから声をかけてあげてるんだよ、きっと……。いやっ! 本っ当に素晴らしいお方だよ、田中さんは! 二年E組の女神様っ、チョー天使様! つーことで俺たちぃぃっ、拍手ぅううううっ!」
フウーーーーッ、と両手を上げて盛り上がる男子たち。彼らの大波に加わらなかった津嶋や梶山までもが、変なふうに盛り上がっている。何なのだろう、この人たちは……。感極まった顔で拍手しまくる山田たちにドン引きしながら、口喧嘩している倭と古都子をチラリと見た。
(『倭』イコール『和』……『和ぎ』だからかな?)
別に気にすることではなかったけれど、とりあえずそんなふうに完結させた。
「おい、ヴィッキー!」
また呼ばれた。
「今度はなに?」
「おまえっ、非人類の話、聞いてなかったんだろ! コイツに教えてもらえよ!」
「ヒ人類? ……てかそれ、君も聞いてなかったんじゃ……」
「ヒ人類」イコール「非人類」イコール「ニューハーフティーチャー」と閃いてしまって、自分の直感のよさに果てしない疲労を感じてしまった時、古都子が慌てたように宰を見てきた。
「そうなの!? もしかしてナギに邪魔されちゃった?」
「ま、まあ……、邪魔されたというよりは、話しかけられた感じだけど……」
「ダメだよ、ヴィッキー! 我慢しちゃダメっ。ナギね、性格悪いのっ。イジワルなのっ。だから、ナギのことでもし何か困ったことがあったら、すぐに私に言うんだよっ。ナギのこと、しっかり注意してあげるんだから!」
「は、あ……。ありがとうございます……」
お礼を言いながら倭を見ると、案の定、窓に向かってベッと舌を出していた。ダメだこりゃ。
ほとほとに呆れてしまったところで、ふいに、教室の外から聞き覚えのある声が飛んできた。
「古都子ちゃーん、ちょっといいー?」
「あっ。りんりん!」
呼ばれた古都子が倭の机を離れて駆けていく。宰もその先に目を向けて、思わず声をもらしてしまった。教室の前のドアには、先日学校まで一緒に行った女の子・凜が立っていたからだ。
「どうしたの、りんりん」
古都子が、前のドアのほうにいる凜のところに駆け寄っていった。
「放課後の生徒会会議、第一会議室から視聴覚室に変更だって。ビデオを見るらしいの」
「ビデオ?」
「生徒会長がお休みだから代わりに、だって。時間はいつもどおりだから、場所だけね」
「わかった! ありがと、りんりんっ。――あっ。りんりん、りんりん! あのね、あのね! 今日、私たちのクラスに転校生が来たんだよ!」
「転校生?」
すると、古都子が嬉しそうに走って戻ってきた。無邪気な笑顔で宰の腕を掴むと、宝物でも掘り出すように山田たちの中から引っこ抜いて、凜によく見えるように自分の隣に立たせた。
「ヴィッキーだよ!」
「ちょっと待って! それはあだ名!」
かと思えば、これである。名前を間違えられてたまるかと思ったが、しかし凜は大丈夫だ。
「宰くん! E組になったんだねっ」
「え? りんりん、知ってるの?」
古都子が目を丸くさせて、宰と凜をキョロキョロ見てきた。
「うん。前に学校まで一緒に行ったんだ。桜瀧通りを歩いてたら、どんよりした顔でなにか呻いてて、観光客にしてはなんだかおかしいなーって思って声をかけたの。その時にね」
「……ハ、ハハ。肝心の地図がちょっと、ね……。ウン、オカシカッタヨネ、ボク」
今更ながらに、当時の自分が不審者すぎてダメージを受ける。凜はそんな宰に小さく笑った。
「でも、すごく楽しかったよ。そういえば宰くん、時間には間に合った?」
「ちょっと過ぎたけど、大丈夫だったよ。あの時は本当に助かった。ありがとう、沖田さん」
「ふふっ。どういたしまして」
「ねえねえ。ヴィッキーとなにがあったの?」
古都子が不思議そうな顔でそう聞くが、凜は「内緒」と悪戯っぽく笑うだけだ。
教えてくれないといじけた古都子は、ぷくっと頬を膨らませてしまった。
「私、A組なんだ。一番端っこの教室」
凜の明るい声に、宰は「A組かぁ……」と呟いた。
「残念。同じクラスになれなかったね。でも、この廊下をまっすぐ行けばすぐだから」
「大丈夫。もう迷ったりしないから」
「それに、私と同じクラスだから大丈夫!」
古都子がどや顔でそんなことを言うが、なぜそこでどや顔なのかわからない。あと、何が大丈夫なのかもわからない。凜が楽しそうに笑い出したので、宰もつられて笑ってしまったが。
やがて予鈴が鳴り響いた。凜が、その音に気づいたようにハッと顔を上げた。
「そろそろ戻らなくちゃ。じゃあね、古都子ちゃん、宰くん」
「うんっ。またねー、りんりんっ」
古都子はぶんぶんと大きく手を振って、宰は「またね」と控えめに返す。
凜は最後ににっこりと笑うと、小走りで自分の教室に戻っていった。
ふと、周囲に集まってきていた山田たちを振り返った宰はビクリと震えた。彼らは恋する乙女のようなとろけた顔をして、ドアの向こうを見つめたり、古都子を眺めたりしていたのだ。
……何これ。何か見てはいけないものを見た気がした宰は、そっと顔を戻そうとした。
「――うつごうだ」
だがその時、倭が何かを呟いた。気づいて目を向けたが、倭は半径一メートル以内にいる宰に気づかない。窓の外の爽やかな光景を見ながら、禍々しい笑みを浮かべているだけだった。
「……倭?」
「あっ! ヴィッキーヴィッキー! 一時間目が終わったら、午後の予定のこと教えてあげるねっ。移動教室はその時あるのっ」
古都子が思い出したように振り返ってきたので、宰はそちらに気を取られてしまった。
「うん。ありがとう、古都子。いろいろ気にかけてくれて」
「ううんっ! ヴィッキーが早くこのクラスになじめるように、私もいっぱいお手伝いするから! これからもたくさんよろしくねっ、ヴィッキー!」
「うん。よろしく、古都子」
心強い言葉にはにかんでしまう。古都子の笑顔につられて、周りにも笑顔が広がり始めた。
……これが、二年E組のクラスメイトなのだ……。
みんなと仲良くなれそうだと、胸の内でむくむくと期待が膨らんでいった。遠くからつい最近来た自分ですら、完璧な梅桜町の人間になれた気がして、宰はくすりと笑ってしまった。
それは明るい一年を予感させる光景だった。これほど嬉しくて、幸せな光景があるだろうか?
「――邪魔よ」
だが、そんな空気を切り裂く冷たい声音に、突然体がこわばってしまった。
表情を凍りつかせた古都子の視線に気づいて、宰は背中を振り返る。
灰色の目を薄く細めた黒髪の少女が、山田たちの群れを前に、厳しい表情で立っていた。
「どきなさい」
「ご、ごめんなさい。科捩さん」
古都子が慌てて謝るが、少女は反応しなかった。山田たちは蟻の子を散らしたように次々と自分の席に戻ってしまい、ものの数秒で少女の道は開かれた。少女は、その道を歩き始めた。
「あっ、あの!」
宰はとっさに少女のもとに駆け寄った。だが少女は、そんな宰の横を通りすぎてしまった。
何事もなかったかのように自分の席につくと、授業の準備を始めてしまう。
少女へ伸ばしかけた手と動かない両足。宰は、自分を見ようともしない少女を振り返った。
――そして、この時になってようやく理解した。
違う。この少女は怒っているのではない。
宰が数日前にしてしまったことなど、この少女にはどうでもいいことなのだ。
だから、宰を相手にしないのだ。
他のみんなと同じように、宰を相手にする必要がないのだ――と。
「はいはいっ。授業だよ、授業。ほら、そこの転校生。いつまでもボケッとしてないで」
「あっ、はい。すみません」
教室に入ってきた女性の国語教師・春日に注意されて我に返る。いったん席についたものの津嶋の号令がかかって、宰は慌しく席を立つ。それから、倭を見る。倭は机の上でぐーすか眠っており、古都子の注意はおろか、先生の注意すら聞かなさそうだなと脱力した。
再度席について、教科書やノートを引っ張り出す。初日の授業にもかかわらず白チョークが勢いよく走り出して、宰は必死に板書する羽目になる。なかなかハイスピードな先生である。
それでも少女の背中に目が行ってしまって、シャーペンを動かす右手を止めてしまった。
……不思議な、とは違っている。もっと厳粛とした、冷たくて固い空気を感じ取る。
踏みこもうとすれば拒絶されるような、進入することを躊躇わせるような。声はかけられず、声をかけさせてもらえない。周りのものと一線を引いて、少女はその向こう側に一人で立つ。
……それは驚くほど気高い姿だった。まるで、地上を捨てた月の世界の姫君のような。
この少女は誰だろうと思った。宰の目の前に座る、白いセーラー服姿の小さな少女。まっすぐ伸ばした黒い髪に、きめ細かな白い肌、ほのかに香る花のような香り……。……花……?
(……科捩……あやめ……)
そうだ。青紫色の綺麗な花。あやめの花。あやめである。
その瞬間、宰は座席表に書かれていた少女の名前を思い出した。
そして同時に、その名が少女にこの上なく相応しいものであると強く感じた。
――ああ、そうか、と思った。
少女に近寄りがたいのは、その花が神秘的で美しいからだ。清らかで凛としていて、とても強い。だから余計なものを一切近寄らせない。その花は、一人で立つことができるから……。
(あやめ……)
もはや授業など聞いていなかった。
しっとりと流れる少女の黒い髪を、宰は夢の世界に囚われたように見つめるしかなかった。
・3/11、4/11を統合しました(15/2/2/月)