第二章:日は昇り、日は落ちて 1/5
第一章が終わっても最初はのんびりです。
日は昇ったばかりですからね~(笑)
登校日がやってきた。新しい制服に袖を通した宰は、学生カバンを持って一階に下りた。ふすまを開ければ、座布団にあぐらをかいて新聞を読む源次郎の姿がある。何かに見入っている様子だったので、ちょっと気になった宰は横からそろりと覗いてみた。
「……ふむ。リアル招き猫か」
「リアルすぎて逆に怖いんだけど。目つきが生々しいし、夜中とかに一人で歩いていそう」
ちょっとげんなりしてしまえば、「早いな」と源次郎が宰を見てくる。宰もおはようと挨拶を返して、台所で朝食を作っている京香にも声をかけた。その京香からは、いつものように心の温まるような笑顔を向けられた。席に座った宰は欠伸をしてから背伸びをする。まだ手伝うことはなさそうで、カバンを脇に置くと、朝の爽やかな空気にひとまず気持ちを和ませてみた。
「制服、なかなか似合っているではないか」
すると、源次郎に思いがけない言葉をかけられた。宰は少しだけ気恥ずかしくなった。
「そ、そうかな? てか制服って、大抵みんなに合うように作られているものだと思うよ」
今の宰は、濃紺のブレザーに赤いストライプネクタイを締めた格好をしている。校章ワッペンの精巧さと多少の装飾を除けばごく普通の格好なのにと、素直でないことを言ってしまう。
「そうなのか? まあ、俺は着たことねえからわからんけど」
「……ねえ、源じい。まさかと思うけど、自分もまだ着られるとか思ってないよね?」
今のは何だか怪しいセリフだったのでそう尋ねてしまうと、源次郎は新聞に目を戻した。
「別に着る必要はねえからなぁ。今は」
「今は?」
それって、いつかはあるってこと? 相変わらずの妙な調子には脱力するしかなかった。
何気なくテレビを見れば、天気予報をやっている。若い女の人がテレビの外にいる宰たちに話しかけてくるように、今日は一日晴れるものの、夜には風が強くなることを説明している。
宰は制服のポケットからダークブルーのスマホを取り出した。先日、源次郎に買ってもらったものだ。使い始めて日は浅かったが、解約する前に似たタイプのスマホを使っていたこともあってか、特別操作には困らなかった。適当に開いたネットニュースを流し読みしていく。
ちなみに、源次郎も宰と同じ機種のスマホを買ったのだが、自分から買いたいと言っておきながら、未だに使っているところを見たことがなかった。なぜスマホを買ったのか謎である。
「今日から学校ですね」
京香がお盆を持ってきたのでスマホをしまい、ご飯と味噌汁をよそいに台所に行った。
「はい。入学式も昨日で終わったみたいですし、ようやくです」
「そういえば、今年の一年には特別可愛い女子がいるらしいぞ」
ふおーと変な声を上げた源次郎が、待ちきれなかったのか、おかずをつまみ食いした。
「なんか今の、変態発言に聞こえたよ。あと、その情報ってどこでゲットしたわけ?」
「どこでもいいではないか……。うまいぞ、京香!」
「ありがとうございます」
「さりげなくごまかしたでしょ、今」
三人一緒に手を合わせて、早速朝ご飯を食べ始める。幸せな味わいが今日も口の中に広がっていく。……と、ここで思いついたことがあった宰は、先程しまったスマホを取り出した。
「源じい、京香さん。ちょっといい?」
「あ?」
源次郎が顔を上げたところで二人を撮影する。シャッター音は最小に設定していたが、この距離なので彼らにも聞こえたようだ。京香は目を丸くし、源次郎は不思議そうな顔になった。
「……それさ、昨日もやったよな。一体なんなんだ?」
「記念撮影だよ。ちょっと撮りたくなったんだ」
いい感じの写真が撮れたので一人満足する。
「ならば、京香の飯を撮るのだ。それこそ、永遠に残しておかねばならんだろーが」
「それも写ってるから大丈夫だよ。撮らないわけないじゃんか、絶品の朝ご飯なのに」
真顔をしている源次郎にそのように返しながら味噌汁をすする。優しい甘さに頬が緩んだ。
それから宰は刀条家を出た。早めに出たのは、桜瀧通りをのんびりと歩いてみたかったからだ。今日も店々は営業するようで、それぞれの前で掃除をしている人の姿を何人か見かけた。
最近知ったことだが、彼らは桜瀧通りの裏にある平屋や、みどり道方面にある古民家に住んでいる人々のようだ。そのため、その朝はとても早く、既に開店している店も何軒かあった。
花祭りの時にお世話になったおばさんとたまたま再会したのもそんな時であった。彼女は古民家に住んでいる人らしい。時間があるからと談笑し、近くで店を営む人とも挨拶をかわし、彼女たちに見送られながら、宰はその場を後にした。しかしこの時の宰は、刀条家を出た時とは打って変わって、強い緊張に支配され、すっかり顔色を失ってしまっていた。彼女たちの何気なく言った「挨拶をしっかりねーっ」という一言に、重大なことを思い出したからである。
(そういえば僕、転校生なんだっけ。てことは、自己紹介とかしなきゃいけないわけだ……)
転校という経験自体が初めてな宰にとって、自己紹介といった挨拶をどのようにすればいいのか全くわからない。ただ自己紹介するだけにしても、それだけでは絶対ダメなような気がしてくる。おまけに何がダメなのかも具体的にわからないから、今更ながらに焦りが出てきた。
しかもその焦りは、大通りを出たところで一気に膨張することとなった。自分と同じ制服を着た生徒たちが、行列を作るように大勢歩いていたからである。その数に圧倒されたのは言うまでもない。生ぬるい汗がドッと噴き出してきて、宰はどこかに隠れたい気持ちに駆られた。
(ヤバイ……。僕、今、絶対ヤバイんだけど……)
先程から妙な緊張に蝕まれてはいたが、このせいでますます顔がこわばる。歩道橋に向かう自分の足は震えている気がするし、どこか息苦しい。この緊張が何なのか本当にわからない。
桜瀧学園に到着しても、周りを見回す余裕がなかった。宰は早足で職員用の玄関に飛びこむと、思わず深いため息をついた。そして、気づかされた。自分は今、完全にビビっていると。
少し緊張が緩んで気持ちが落ち着いてきたのだろう、宰はしょんぼりと肩を落とす。今の宰を源次郎が見たら、間違いなく腹を抱えて笑うだろう。だが、宰には全く笑えない重大問題であった。今後の学校生活に影響してくるかもしれないし、新しい生活を始めるためにも失敗はできない、許されない。胸に迫ってくるプレッシャーに、ますます焦りが肥大化していった。
前に会った事務室の若い女性に案内してもらって、職員室に入る。ホームルームまでまだ時間はあったが、ほとんどの先生方が出勤していた。無論だが、例のあの先生も既に来ていた。
「おっはよー、宰クぅン! イチゴキャンディー食べる?」
「いえ……。朝ご飯、食べてきたので大丈夫です……」
「えらーい! 朝ご飯を食べない人たちにも見習ってほしいものだわぁん!」
「そう、ですか……」
学園の七不思議(あと六つは知らない)、ニューハーフティーチャーは今日も絶好調だ。春らしさを引き出す淡い水色のロングスカートに白いブラウス、カーディガン。着ている人が筋肉ムキムキの大男でなければ、さながら春の妖精であったのに……一体何をどう間違えたのか。
「ナツ先生、今日も可愛らしいですねっ」
「やーん、ありがとーっ。実はこれ、アタシのお気に入りのお洋服なのよぅっ」
「とっても素敵です。お似合いですよ」
「いいなぁ、本当に羨ましいです。私もナツ先生みたいに可愛くなりたいなぁ」
学園の七不思議はもう一つある。ニューハーフティーチャーはどういうわけか、他の女性たちから「可愛い」「素敵」「羨ましい」と好評を博しているのだ。男性陣は青白い顔をしているのに、女性陣だけなぜだか反応が違う。今も同性とお喋りするかのごとくキャッキャッと楽しそうに盛り上がっており、目の前に立ち尽くす宰には、とにかくその現象が怪奇的に見えた。
ちなみに、男性陣における唯一の例外といえば、「無茶」と書かれた扇子をあおぐつるぴか頭の校長である。彼は「ほっほっほっ」と微笑みながらニューハーフティーチャーを誉めて、彼女(?)を大いに喜ばせた。宰としては扇子の文字が激しく気になるところだったが、別に校長として「無茶」しているわけでもないらしく、そのメンタルの強さには呆然とさせられた。
そんなこんなで、予鈴が鳴り響く。その音が消える前に、先生方がぞろぞろと動き出した。
「さあっ! アタシたちもいよいよ出撃よぉ、宰クンっ! レッツラゴー、ゴーっ!」
「……はい」
敵を撃墜するように、ニューハーフティーチャーがパワフルにスキップしながら職員室を飛び出していく。……宰? 彼女(?)に引っ張り回されている撃墜済みのセントーキだ。
「うふふ! アタシのクラスはとっても素敵なのよぅっ。早く会わせてあげたいわぁんっ」
「……ありがとうございます」
「んもぅっ、そんなに硬くならないでよぅっ。宰クン、シャイなんだからっ。うふふふふ!」
学園の七不思議その三。今の宰はシャイに見えるらしい。歩くたびに頭がグラグラ揺れている状態だというのに、彼女(?)の特殊フィルターによれば、宰は今、内気で恥ずかしがりやな純情少年になっているそうだ。……いや、嘘だ。七不思議のお仲間入りなんぞしたくない。
廊下にはもう生徒の姿はない。ざわめく声は聞こえるものの、皆、席についているようだ。
ニューハーフティーチャーに続いて階段を上がる。一段踏みしめていくごとに体のあちこちが鈍く軋み、全身の血管が押し潰されそうになる。その圧迫感に、宰は顔をしかめてしまう。
(まずい……。こういうの、本当にどうすればいいかわからない……)
自己紹介――これを成功するかしないかで、全てが決まってしまいそうな気がしてならない。
猛烈な不安――恐怖にも似た冷たい感覚に支配されていき、宰の気持ちはさらにこわばった。
「さあ、着いたわんっ」
二年E組のプレートが下がった教室の前でニューハーフティーチャーが宰を振り返る。前回来た時はいなかったはずの生徒たちの声が、教室の中から聞こえてくる。震えを止めるべくカバンの持ち手を握りしめて、壁の向こうをジッと見つめる。当然ながら何も見えない。だが、そのことがどうしようもないくらい怖くなってしまって、両手がカタカタと音をたて始めた。
「みんなに話してくるからちょっと待っててねっ。呼んだら中に入ってきてちょうだいっ」
ニューハーフティーチャーに言われて、こくん、と頷く。
「おっはよー、みんなぁっ! 今日もいい天気ねぇ! ナツ先生、もうはりきっちゃう!」
教室の中に突撃したニューハーフティーチャーがうふふと笑い、廊下の奥にまで響かせるほどの大きな声で喋り始める。なんて大きな声だろう。筋肉パワーの一部が音に変換されて、廊下に放出されているみたいだ――なんてふざけたことを一生懸命考えていた宰はとうとう自分を誤魔化しきれなくなってきたことを悟り、張りつめた緊張を吐き出そうとして息をついた。
……あまりの具合悪さに倒れそうになっている。気持ちの余裕が本当になくなってきた。
それでも悪あがきしようとして窓の外を見やれば、ホテルやデパートが並んだ梅桃町のもう一つの姿がある。桜瀧通りが歴史的な情緒を残す町なら、そこは現代的な町である。その中でも桜瀧川は堂々と流れており、宰はふと、今朝少しだけ見た桜並木のことを思い出していた。
桜はほとんど緑色に変わってしまった。だが完全に緑色ではなく、咲いている花がちらほらと綺麗な白さを際立たせていた。……淡い白、桜の白。少女のたおやかな裸身が脳裏に蘇る。
(なんで思い出した!)
途端に、熱が噴き出してきて頭を振りまくる。どこかに乱打したい気持ちを必死に抑えて、手で額を押さえつける。せっかく忘れようとしていたのに、また思い出してしまうなんて……。
さいてい。どすけべ。このへんたい。
あの場でとっさに謝ったものの、少女はまだ怒っているだろう。目玉を剥くほどガン見した上、訳のわからないことを叫んで逃げ出したのだから。……本当に最低だ。滅べばいいのに。
宰はもう一度謝らなければならない。だが、少女の前に再び立つというのも厚かましい気がしてきた。でも、このまま謝らずにいるのもいけない気がした。かといって、もう二度と近づいてはいけない気がするし、しかし逃げ続けるわけにもいかない気が……ダメだ。堂々巡りだ。
ならば、どうすればいいのだろう。
見てしまったのだ。あんなに綺麗で柔らかな肌を……その前に思い出すんじゃない、僕っ!
「宰クぅーんっ! 入ってぇーっ!」
とうとう、呼ばれた――。時間的には短かった気がするが、長かった気もした。
緊張は一瞬にしてピークに達して、強く拳を握ってしまう。
心臓が激しく鼓動する。胸が締めつけられ、気道が狭くなったように呼吸が苦しくなる。
体がだるい。ぼんやりする。それでも、行かないわけにはいかないのである。
息を吸い、唇を噛んで歩き出す。ドアを開けると、ぎこちなく教室の中に入っていった。
――宰を出迎えたのは、とても重々しい静寂だった。さっきまで喋っていたはずの人々は誰一人として喋ろうとせず、物音一つさせなかった。静か。そんな彼らの顔を見る勇気がない宰は、どうすればいいかわからなくなり、黒板を睨む。そこには自分の名前が書かれてあった。
逃げたい。今すぐどこかに消えてしまいたい。それでも体は勝手に動く。まるで自分の体ではないみたいに両足が動いて、宰は教壇に上がっていく。体の横に突き刺さる強い視線……。
まずい、前を見なきゃ。そう思っているのに、宰は余計に自分の名前を睨みつけてしまう。
(あれ?)
だが、そこで足を止めた。何か違和感があると思ったら、「宰」の漢字が間違っていたのだ。
「……あの、先生。僕の名前、『幸せ』じゃなくて『辛い』です」
そう言うと、教卓の横に立っていたニューハーフティーチャーが両手で赤い頬を押さえた。
「あらー! アタシとしたことが、幸せすぎて間違えちゃったー! てへっ」
舌を出されて、おぞましい可愛さに鳥肌が立つ。だが、露骨な態度を見せては失礼だ。宰はありとあらゆる理性を総動員させながら黒板消しで名前を消すと、白チョークを手に持った。
――その時、気づいた。とっさに振り向き、宰の名前を書いたその人を見つめてしまった。
相手は今も変わらず笑っていた。けれどその笑顔は、今まで見てきたものとは少しだけ違って、宰を見守るような穏やかな温かさをにじませていた。その笑顔に、宰はそれを確信した。
――漢字ミスは相手のわざとだったのだ、と。
そういえば今、わりと普通の声を出せた気がする。何気なく漢字ミスを指摘したおかげか、緊張や気だるさがほとんど緩和されて、手の震えはおろか、具合の悪さまで消えてしまった。
宰はそっと頬を緩ませてしまった。屈強な見た目とは裏腹に、その人は細やかな心遣いのできる人だったのだ。一人で舞い上がっているようで、ちゃんと宰のことを見ていてくれたのだ。
(ありがとうございます)
名前を書き直し、教室にいる人々を振り返る。初めて「クラスメイト」を見ることができた。
……なんだ。とても簡単なことだったんだ。
挙動不審で、緊張しまくりだった自分がおかしい。なぜ、あんなにガチガチになっていたのだろう。気持ちが暗くなるようなことまで考え始めて、自分は一体何を恐れていたのだろう。
――未来を切り拓くのは自分だ。その舞台は、既に用意されているのだ。
気持ちがふわふわと高揚する。胸の奥が嬉しそうにドキドキする。
恐れることなんてない。もう始めの一歩は踏んでいる。後は、進めばいいのだから。
宰は思った以上に大きな声で、新たな仲間になるクラスメイトに話しかけていた。
「篠原宰です。訳あって東京の学校から転校してきました。ここ、聞いたんですけど、日本一元気すぎる町ってモットーがあるみたいですね。そんなわけでもう既に圧倒されているんですけど、早くこちらの環境になじみたいと思っています。慣れないことが多いので、いろいろと聞くことがあるかもしれませんが、そのときはお手柔らかに、おねがい、し、ま……」
だが、声が途切れた。
窓側に見覚えのある姿がある。耳の下から細い三つ編みを前に流して、あとは後ろに流している。今は灰色に見える瞳と、凛とした表情。他のみんなとは違う、清楚な白いセーラー服姿。
その瞬間、肝が潰れたかと思った。――あの少女が、そこにいるなんて。
「へえええええーーーーっ!?」
思わず後ろに吹っ飛んだ。黒板にぶつかってものすごい音をたて、上に掛けてあった額縁が宰の上に降ってきた。顔を上げた瞬間額を直撃し、あまりの痛みに黒板の下にひっくり返る。
「キャーーッ! 宰クンがぁーーっ!」
クラスメイト以上の大きな悲鳴を上げ、ニューハーフティーチャーが宰の元に飛んでくる。ぐったりしている宰を抱き起こし、ポケットから取り出した白いものを額に貼りつけてくる。
「えいっ。冷えぴったんっ。生き返って、宰クぅぅン! 転校初日から死んじゃダメぇぇ!」
「……あの。死んでないです」
額を押さえてよろよろと立ち上がり、しかし顔を上げることができなくて足元を凝視する。
(――なんで!? なんであの子がここにいるのっ!? てかどうしてっ!? へえっ!?)
「いけなぁい! 宰クン、頭、痛い? 大丈夫? フラフラする? 保健室行く?」
「いえ……ほんとに……だいじょうぶです……」
全然大丈夫じゃない。パニックになりすぎて、逃げることも思いつかない。
頭の中がグルグル回る。目玉がグルグル回る。人生最大のピンチに見舞われている気がする!
「そーお? なら、安心だわぁん」
ニューハーフティーチャーは元のテンションに戻るけれど、この状況は全くよろしくない。
宰の肩をガシリと掴んだ彼女(?)は、一転してハイテンションな声を上げた。
「というわけだから、みんな、宰クンと仲良くしようねーっ。アタシも仲良くしちゃうよーっ!」
『フウーーーーッ!』
強い握力、割れんばかりの拍手。口笛まで飛んでくるけれど、宰は冷や汗だらだらである。
「宰クン、席は覚えてるぅ? 科捩さんのすぐ後ろだからねーっ」
「は、はい……。わかり、ますた……」
ろれつも回らない。額を押さえることで顔を隠して、宛てがわれた自分の席へ歩き出す。途中、何人かの男子生徒にグッと親指を立てられたが、それが一体何の慰めになるというのか。
自分の席が近づくと、例の少女が視界に入ってくる。
顔を隠していた宰はどうしても気になってしまって、我知らず少女を盗み見してしまった。
だが、宰の予想に反して、少女は少しも表情を変えていなかった。宰に興味はないといった態度でわずかにも目を呉れることなく、落ち着いたまま、まっすぐ黒板を見つめていた。
(あれ……? 怒ってない……?)
とはいえ、宰は目をそらしてしまう。気まずいものはやっぱり気まずかったからだ。
自分の席に辿り着いた宰はイスに座る。なんだか山を登り終えたような気分だった。
「じゃあじゃあ、今日の連絡なんだけどーっ」
ニューハーフティーチャーが黒板に何事か書き始めた。意外と綺麗な字だと思った。
(……ていうか、ものすごくどうしよう。今、あの子のすぐ後ろにいるんですけど……)
広い教室なのに、前の席とはむちゃくちゃ近い気がした。実際はそうでもないのに、少女の濡れ羽色の長い髪が目の前にあって、机に伏せただけでも触れてしまいそうな気がするのだ。
もうダメだ。致命的にダメだ。何がダメかって全てがダメだ。謝るどころか、二度と少女の前に顔を晒してはいけない気がしてきた。というか、絶対そうだ。半径ウンメートルに入ったら世界の女子の敵と見なされ、ミサイルが何百本も飛んでくる。そしてスケベは滅びるのだ。
宰は死に物狂いで思考を駆け巡らせた。
(どうする? 逃げる? 逃げるってどこに? てか、先にすることって絶対それじゃないでしょっ。じゃあ、どうする。空気になる? 僕は空気中のゴミです、みたいな感じで振る舞ってみる? ……え? ちょっと待ってよ。それが先にすべきことなのっ!? へえっ!?)
動揺しすぎて、バカなことまで考え始める。
「おい、転校生」
頭の中で大嵐に見舞われていた時だった。聞き覚えのない男の声に呼びかけられた。とっさに左隣を振り返ると、宰を呼んできたらしい背の高い男子生徒がニヤリと不敵に笑ってきた。
「えっと、君は……」
「古賀倭。名前で呼んでいいぜ」
「はあ……」
(そういえば、珍しい名前の人がいるなって思ったっけ。確か『古賀倭』……この人なのか)
握手を求められたのでとりあえずそうする。手を離した後も、倭はニヤニヤと笑っていた。
「さっきの芸は見事だったぜぇ、転校生。あんなもんは初めて見た」
「僕も初めてやりました……。もう二度とやりたくありません……」
何となく例の少女を見てしまう。だが反応はない。宰の声が聞こえていないのだろうか。
「……で、なにか?」
宰はまだ見てくる隣の倭をチラッと見た。
「つれないことを言うなぁ、転校生。おまえの友になる男だぞ」
「友?」
とてもそんな顔には見えないのだが。今も嫌な感じに笑う倭には胡散臭さを感じてしまう。
すると、倭が何かを思いついたように指を鳴らした。それが結構わざとらしい仕草だった。
「いつまでも転校生じゃダメだよな。そうだなぁ、おまえのこーとーはー……『ヴィッキー』」
「は? ヴィッキー?」
何それ? 倭に指を差された宰は、変なあだ名にちょっと目を瞬かせてしまった。
「なんでヴィッキーなの?」
「別にいいだろ。宰だと美化されそうだし、ヴィッキーのほうがフィットするし」
「美化? フィット?」
「今の一発芸を見るまでは、カッコつけのいけ好かない都会野郎だと思ってたんだ。漢字もやたらと難しいしな。で、どうやっていじめてやろうかと考えてたんだが、あのザマだ。中身を伴ってないただのマヌケだってわかったんで、友達になってやってもいいって思ったわけよ」
「……ふぅん、そうなんだー。ところで、君は僕になにか恨みでもあるのかな?」
およそ初対面の人間に言うことではないことを平然とのたまわれて、宰はジト目になってしまった。だが相手は余裕の態度だ。ニヤニヤと、機嫌よさそうに机に肘を立てただけだった。
「コラ、倭クゥン。先生の話、ちゃんと聞いてたー?」
すると早速、ニューハーフティーチャーが倭を注意した。倭は「聞いてました聞いてましたー」と適当な調子でそう言うと、宰をチラリと見て「ヴィッキーが……ね」ととても小さく呟いた。
「ちょっと待って。僕だってちゃんと聞けてなかったんだけど――」
「そーゆーわけだからぁ! みんな、早めに移動してねぇーっ。連絡は以上っ。ツッシー!」
彼女(?)の掛け声に、クラス委員長らしい男子生徒が「起立ッ」と号令をかける。ちょっと呆けていた宰は、慌ててみんなに続いて席を立った。ところが、倭は席を立たなかった。
「ちょっと。号令かかってるよ」
「そうだな」
「え? いや、そうじゃなくて――」
礼ッ、の声に合わせてみんなと頭を下げる。その隣で、倭が面倒くさそうに大欠伸をした。
途端に教室内にざわめきが戻る。宰はゆっくりと倭を振り返った。その倭は妙に機嫌のよさそうな笑みを浮かべながら、机に長い足を投げ出して、とても下手くそな鼻歌を歌い始めた。
……何だ、この男は。全くついていけない展開に、宰は渋い顔をしてしまった。
するとその時、前の席の少女が宰のことを振り返った。
・1/11、2/11を統合しました(15/2/2/月)