第一章:とある日常に潜む影 4/8
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「とおりゃんせ」の寂しげなメロディーが遠くから流れてきたところで、古都子がパッと顔を上げた。地域運営委員としての役目を終え、源次郎たちと雑談に興じていた時のことだった。
「とおりゃんせが流れてるから、帰らなきゃ!」
「まるで、カラスの響きだね」
宰はお茶を飲みながら呟いた。
「そういや、田中の嬢ちゃんは新市街に住んでいるんだったか?」
源次郎の問いかけに、「源さん」と呼ぶようになった古都子が「はいっ」と元気に頷いた。
「なら、急いで帰ったほうがいいな。じきに暗くなるし、バスも五時半でなくなっちまう」
「バスがなくても、走って帰るから大丈夫です!」
「元気なこった。宰にもそれくらい、させてみたいもんだぜ」
「え、なんで」
思わぬセリフにちょっと青くなったところで、古都子と凜がカバンを持って立ち上がった。
「じゃあ、これで失礼します! 今日はありがとうございました、源さん!」
「おう。今日はとても楽しかったぞ。やはり、こういうのはいいな。宰もそう思うだろ?」
「うん。僕も楽しかったよ。同級生が遊びに来るって、こういう感じなんだね」
ワイワイとお喋りをしながら茶の間を出る。玄関のくぐもったガラスには柔らかな赤さがにじんでいる。古都子と凜が靴を履くのを後ろで眺めていると、源次郎が宰の肩を叩いてくる。
「宰。二人を大通りまで送っていけ」
「――あっ。大丈夫ですっ」
先に靴を履いた古都子が慌てたように立ち上がる。しかし、宰も源次郎と同じように、古都子たちを送る必要があると考えていたのだ。彼の言うとおりにしようと、宰も玄関に下りる。
「ううん、送ってくよ。もう夕方だし、女の子だけで帰すのもあれだからさ」
「でも、ヴィッキー。迷子になって、おうちに帰れなくなっちゃうかもしれないんだよ?」
「その話はどうか忘れてください。てか、それだったら学校にも行けないよ」
チラリと源次郎に視線を向ける。宰の言いたいことを理解してくれた源次郎が小さく呟く。
「この時間はほとんど出ないから心配すんな。だが、おまえもなるべく早く帰ってこい」
「――わかった」
鵺の時のように、堕ちモノが日のある時間帯に現れることは滅多にない――矛盾だらけだった事件の顛末は、既に源次郎から話してもらっている。だが、それでも油断できないのが「桜瀧村」だ。何か起こる前に古都子たちを帰せと、源次郎が言外に指示してきた。
「お邪魔しました! 京香さんも、いろいろ教えてくださってありがとうございます!」
凜が靴を履き終えたところで、古都子が改めて謝意を述べる。京香が源次郎の隣に並ぶ。
「いいえ。私も教え甲斐があってとても楽しかったです」
「私もすっごく楽しかったです! あっ、ホントにまた遊びに来てもいいんですよね?」
「もちろんです。源さんが許可してくださいましたから」
京香の視線を受け、源次郎が鷹揚に頷く。
「宰に話を通してもらうがな。当日にいきなりでなければ大丈夫だ」
「はいっ、わかりましたっ! じゃあ、またお邪魔させていただきますねっ、源さんっ!」
「おう」
古都子の弾けた笑顔に、源次郎も満足げに口角を上げた。
刀条家を出て、少し道を歩いたところで角を曲がる。桜瀧川の土手道を踏んで、大通りへ続く道のりを三人で歩く。朱色に焼けた地面には、自分たちの影がくっきりと映っている。宰もよく学校帰りに土手道を通っていたが、誰かと一緒に歩くのはこれが初めてだと気がついた。
「やったやったやったーっ」
京香とまた会えるのが余程嬉しかったのだろう。宰と凜の前をスキップしながら、古都子はクルクルと回ったり踊ったりしていた。転ばないのが不思議なほどだったが、古都子は何気に運動神経がいいのだ。宰は特にハラハラせず、そればかりか、見ていて楽しい気分になった。
(あ、そうだ。撮るか)
宰はスマホを取り出して写真を撮る。古都子は気づいていなかったが、彼女のことだ。勝手に撮影しても怒りはしないだろう。写真の写り具合に満足すると、凜がスマホを覗いてくる。
「宰くんって、写真撮影が趣味? お屋敷で話していた時も何枚か撮ってたけど」
「趣味っていうか、ただ撮りたいなーって思って」
「それを趣味って言うんじゃない?」
「うーん。かもしれない」
凜が頬をほころばせて、跳ねるように小さな一歩を踏む。宰の隣へより距離を縮めてくる。
「ねえねえ。どんな写真があるの?」
「まだそんなにないかな。使い始めて一ヶ月だから」
そう返事しながら、宰はアルバムを開いた。初めて撮影した源次郎と京香の写真や、旧市街の風景を撮影したものなど、最初からスライドショーで再生していく。それを見ている凜はとても楽しげで、時々おかしそうに笑みを零したりした。……いつの間に、こんなに写真を撮っていたのだろうか。二十枚もの思い出ができていたことを知って、宰は幸福感を噛みしめた。
……だがそれは、クリームパンを食べている倭の写真が出てきたところで消えてしまった。
思わずピクリと指が動いてしまった時、スライドショーが止まった。凜もまた気づいたように息をのむ。お互いに何も言わないままその写真を見つめ、どちらからともなく顔を上げる。だいぶ先のほうを歩いていた古都子が、「とおっ」と両手を上げてジャンプしたところだった。
「古都子ちゃんは、古賀くんのことを知らないんだよね……」
心の灯火が消えてしまったような凜のかすれ声に、宰は何も返せずに無言で頷いた。
「猿鬼・古賀倭……だったよね。いにしえの獣で、人間じゃない……異界の魔物だって」
凜が今、何を考えているのか宰にはわかった。彼女が初めて猿鬼を見たのは、記憶を奪われそうになった時――鵺事件が終わった直後に「殺す」と告げられた時のことである。そんな男が、宰の撮影した写真の中にいる「古賀倭」と同一人物だとは、到底信じられないのだろう。
実際、宰も似たような気持ちである。そればかりか、「昼の古賀倭」と「猿鬼」が同一人物であることを今でも受け入れたくないと拒絶する自分がいる。「猿鬼」が「倭」であることを見抜いたのは他ならぬ宰なのに、なぜ、磁石の極同士が反発するように拒絶の心を抱くのだろう。
まだ見ている途中だったアルバムを閉じると、スマホをポケットにしまいこんでしまった。
「どうして猿鬼は、『昼の古賀倭』と『夜の古賀倭』って二人に分かれちゃったんだろう?」
「……わからない。源じいはそこのところ、よく教えてくれなかった」
「源さんが宰くんにも話さなかったなんて……。そんなにこみ入った事情があるのかな?」
凜がそう呟いた時、五時半を告げる「とおりゃんせ」のメロディーが遠くから響いてきた。
笑い合っていた時の温かさは、夜風を匂わせる風に攫われてしまっている。空に咲くのは、青やピンクの紫陽花のような無情の色。宰の色素の薄い髪が、後ろからの風になびき始める。
……古都子が楽しそうに踊っているのを、どうしてか、寂しい気持ちで眺めてしまう。
「レアチーズケーキぃーっ。ぐるーんっ。――はっ!」
クルリと回っていた古都子が足を止め、振り返る。宰と凜も、歩みを止めてしまった。
「ねえねえっ。りんりんって、ここから横道に行くんだったよね?」
古都子が横道を指差している。それを見て、凜が表情を取り繕い、「そうだよ」と返事した。
そっかー、と古都子が桃色の唇に指を当てる。唇を触る人は甘えん坊な人だと聞いたことがあるが、確かに古都子らしいクセである。そう思っていると、古都子がパッと両腕を広げた。
「じゃあ、ここで解散しようっ」
「え、どうして?」
思わずと問いかけた凜に、古都子が興奮気味に胸の前にまん丸の拳を作った。
「私、今すごく走りたいの! バス停まで、たたたーって走ってみたいの!」
「たたたー……」
凜がぽかんと呟く。宰も目を丸くさせてしまったが、古都子の不思議な思考回路にプッと噴き出し、つられたらしい凜と一緒に肩を揺らした。古都子は、どんなときでも古都子だった。
「じゃあ、ここで解散しよっか。古都子、まっすぐ家に帰るんだよ」
「大丈夫! ヴィッキーみたいに迷わないもん!」
「僕も迷いません」
いい加減、その話を忘れてくれないだろうか。古都子は満面の笑顔でくるりと踵を返した。
「じゃあ、また明日ね! バイバーイ! りんりん、ヴィッキー!」
「また明日ね、古都子ちゃん」
「また明日」
また明日~っ、と古都子が走っていく。喜びのエネルギーを発散するようにジャンプし、クルクルと回ってスキップする。何だか宰まで飛び跳ねたくなるほどだったが、そんなことをしたら不審者なのでもちろんやらない。古都子の姿が見えなくなるまで、宰は笑顔で見送った。
……不思議だった。心に塞がりかけていたものが、いつの間にか消えてなくなっていた。
※10/24/土……前書きを削除しました。
次の投稿は2/9(月)の12:00すぎです。
いつもと違う時間になりますが、よろしくお願いします。
(´・ω・`)
そういえば、少し前にあらすじを変えました。