終 章:丑三つ時の意志 1/2
泥を洗い流していつもの和服に着替えた宰は、京香に傷の手当をしてもらうと、部屋に戻った。石神山の見える窓を開けて風に涼む。ほてった体に、ひんやりとした冷たさが心地よい。
目の腫れはだいぶ引いてきたようである。女の子の前で泣くなんて、とは思ったものの、不思議と情けない気持ちにはならなかった。そればかりか、泣いてよかったと思う自分がいた。
……きっと、凜の前だからこそ思えることなのだろうと思う。
重苦しい戒めから解放され、夜の穏やかな匂いに目を閉じる。窓扉の下部に右足を上げて座り、再びまぶたを開けた宰は、腐臭のしない透明な夜の景色を静かに眺める。夜空の浮かぶ小さな三日月。夜風が宰の前髪を揺らしてきて、まるで遊ばれているみたいだと小さく笑った。
「……ん?」
すると、玄関で引き戸の開いた音がした。こんな時間に誰だろう。そう思いながら出窓を離れた宰は、机の横にある窓のカーテンを開け、そっと下を覗いた。
その小さな影は、ちょうど玄関を出てきたところだったようだ。少し歩いたところで足を止めると、まるで手首でも見るように、胸の前へと右腕を動かした。
「――あやめっ」
彼女の後ろ姿に思わず窓を開けて、名前を呼ぶ。唐突な呼び声に驚いたらしいあやめはハッと振り返ると、なぜか右腕を背中に隠し、ギッと宰を睨んできた。
「科捩よ。何度言ったらわかるの」
「ごめん。多分わからないと思う」
それよりも右腕どうしたの、と聞こうとして、あやめがスッと灰色の目を細くさせた。
「そう……。なら、今すぐ下に下りてきなさい。拳でわからせてあげるわ」
「ちょっと待ってください、ごめんなさいっ。拳だけは勘弁してくださいっ」
宰は慌てて両手を振りながら、その拍子にあやめが少し体を動かしたのを見逃さなかった。
彼女の右手首には湿布が貼られている。足や頬には包帯・絆創膏が貼られているのに、そこだけ湿布というのはどうしたのか。とはいえ、京香はあやめの怪我を手当してくれたようである。所々破けたセーラー服には赤いしみがいくつもあったが、痛みはなさそうだと安堵した。
「そういえば、あやめの血の妖術って――」
「科捩よ」
「……し、な、ねじ……の血の妖術って、本当にすごかったね」
言い直すよう眼光を飛ばされたので、一応そうする。それにしても、本当に言いにくい。
「源じいに教えてもらったんだけど。あの漢字のこと、呪紋って言うんだね。決意の【決】とか、了解の【了】とか、あと除菌の【除】とか。思ったんだけど、あの漢字に意味って――」
「話しても無駄よ。あなたには、血の妖術なんて使えないのだから」
何気なく聞いてみたところ、冷たく突き放されてしまった。あまりにも素早く一蹴され、ぽかんとする宰に背を向けて、あやめは颯爽と踵を返した。宰はその背中を慌てて呼び止める。
「あやめ!」
「科捩よ。いい加減にしなさい」
怒ったようにあやめが振り返った。しかしふいに、彼女の表情から鋭さが抜けてしまった。
「……どうしたの?」
あやめの問いかけに、なにが、と聞こうとして、宰は気づいた。――自分の罪のことを。
どこか心配そうに見上げてくるあやめの灰色の目に、宰は彼女に見えぬよう拳を握った。
「……昨日は本当にごめん。僕のせいで、君にあんなひどい怪我を負わせてしまった」
「……。別にどうということはないわ。私は死なないし、傷だってすぐに塞がるもの」
変なことを聞いたように言葉を返すあやめは、宰は思わず大きな声を出してしまった。
「――すぐ塞がるったって、痛みを感じないわけじゃないだろう!」
あやめが本当に驚いたように目を見開く。彼女は、瞬きを忘れたように宰を見つめた。
「何度もあんな大怪我をしているんだろ! 京香さんや池田さんが言ってたよっ。慣れてるとか、死なないとか、すぐ治るとかっ。そんなのっ、どれだって痛くないわけないじゃんか!」
「……だから、なに」
あやめが一切の感情を消し去る。宰は拒絶してほしくなくて、必死に自分の思いを届ける。
「もう、昨日みたいなことは絶対にやめてくれ。自分を犠牲にしないでくれ。……お願いだ」
「関係ないことよ」
だが、あやめはあっさりと切り捨てる。絶句する宰に、彼女はさらに追い討ちをかけた。
「それに、それは私の勝手だわ。私がどうしようと、あなたには関係ないことよ」
「関係ないって……っ。確かに、ここのことはまだ知ったばかりだっ。でもっ!」
「口出ししないで!」
あやめが強く遮った。思いがけない彼女の叫びに、宰は言葉の続きをなくしてしまった。
「……何度も同じことを言わせないで。これは、私の問題なの」
しばしの静けさののち、あやめが顔を俯かせた。
「あなたに口出しされるいわれなんてない。そもそもあなたには関係ない」
二度と言わないで――。そう言って背を向けたあやめは、足早に刀条家を去っていく。石神山方面の道を曲がった彼女は、刀条家の高い塀に遮られて、完全に見えなくなってしまった。
……冷たい風が吹く。宰はため息をつくこともできずに、その場に座りこんでしまった。
許す・許さないの話ではないのだろう。自分を犠牲にするあやめは、そんな話などどうでもいいのだ。あやめは頑なに他人の思いを拒む。それなのに、他人のために心配し、自分をいくらでも傷つけようとする。どんなにやめてくれと叫んでも、あやめにはどうしても届かない。
――孤高の花は、虫食いや病魔に侵されても、決して自分の領域には誰も踏みこませない。
――それがたとえ、宰以外の誰かであったとしても。
――近寄らせず、干渉させない。突き放し、背を向ける。他人の思いを、全て切り捨てる。
惨劇の夜に赤く咲いてしまった、あやめの血のにおいが忘れられなかった――……。
あやめを傷つけた罪、血まみれで立ち上がったあやめを美しいと思ってしまった罪。これらはもう、宰の中から二度と消えることはないだろう。そんなあやめは、なぜか自分のことを犠牲にする。他人がどんなふうに思っていようが、強く振り払い、そしてまた傷つこうとする。
そんなあやめのことを、宰もきっと、許すことはできないだろう。
(あやめ……)
罪悪感、無力感、怒り……それらを圧倒して芽吹くのは、このままではダメだという思い。
宰は立ち上がった。心を決めた思いのままに、顔を上げて。
迷うことなく部屋を出ると、素早く一階に降りる。明かりのない暗い廊下を歩き、その突き当たりを左に曲がる。宰の探す「彼」は、全てを話してくれたあの和室にいる気がした。
縁側を歩いて、角を曲がり、一つ目の部屋を通り越す。宰はその部屋の前へと姿を見せる。
「源じい。ちょっといいかな?」
今日も読んでくださり、ありがとうございます!
次の投稿は、1/25(日)の12:00~14:00の間になります。
……多分、今日みたいに13:00過ぎ(ry
残り1話です。よろしくお願いしますm(^ー^)m
(付けたし↓)
あやめの右手首には痣があります。作った本人はとっさの出来事だったので覚えていませんが、その犯人、実は「宰」だったりします。痣を作った場面は、第三章10/10の最後ら辺にあります。
(「痣ができるかもしれない。それくらい強く引っ張り~」→できました。笑)