第一章:花咲く春の梅桃町 3/4
ホラーは必ず戻ってきます(大汗)
☆
「学校に行け、宰」
四月に入って、春の香りもますます濃厚になってきた今日この頃。
茶の間に入った宰は朝一番、源次郎にそのようなことを言われた。
「……学校はまだ始まってないよ、源じい」
「俺をボケジジイ扱いするな、小僧」
「いてっ」
念のために言っておくと、丸めた紙くずを投げつけられてしまった。当たった鼻をさすりつつ紙くずを拾ってゴミ箱に捨てると、源次郎から見て右手にある自分の席に腰を下ろした。今の宰は和服姿だ。あぐらをかいた足に羽織をかける宰の横で、源次郎が新聞に目を戻した。
「もうすぐ始業式だろう。それまでに挨拶に行っとけってだけの話だ。おまえの担任になる斉藤捺平にも既に話は通してある。今日の十一時の約束だ」
「ふーん。もう決定事項なわけね」
「なんだ。用事でもあったのか?」
源次郎に聞かれて、ううん、と首を振る。
「そろそろ挨拶に行こうと思ってたところだったし、ちょうどよかったよ。ありがと、源じい」
「うむ」
スリッパの音を鳴らして、京香が台所からやってくる。彼女はいつものエプロン姿だった。
「あら。おはようございます、宰くん」
「おはようございます。あっ、朝ご飯の準備、お手伝いしますよ」
「ありがとうございます。では、お盆のおかずを持っていってもらえますか?」
「はい、わかりました」
羽織を置いて席を立ち、京香に続いて台所に入る。清潔感のある綺麗な台所だった。
お盆のおかずを運んで、箸も並べて、そろそろ食べられるということで三人分のご飯と味噌汁を盛っておく。それらも運んで、京香が最後に席についたところで手を合わせて、源次郎が早速味噌汁をすする。これが自分たちの朝食の風景だ。宰はのんびりしながらご飯を食べた。
「ところで、僕の行く学校ってさ」
「桜瀧学園か?」
「うん。川と同じ名前なんだね」
桜瀧学園は伝統ある私立高校だ。しかし、それ以上のことは何も知らない。転入の手続きをしてくれたのは源次郎だし、宰は引越しの準備に追われていて調べる余裕がなかったからだ。
源次郎は味噌汁のおかわりを京香に頼むと、手前にあったおひたしを多めに取った。
「まあな、俺も学校法人の連中といろいろある。命名には刀条家が関わっているんだ」
「そうなんだ」
「全国にも姉妹校が何校かある。ここほどではないが、とても人気な学校だぞ」
「へえー」
そして、宰は沈黙する。
「……ねえ、源じい。僕、無試験だけど大丈夫なの? 桜瀧学園も人気な学校なんでしょう?」
「問題ねぇ。ンなモン、俺の力でパパッと解決――ウソに決まってるだろっ。ンな顔すんなよっ」
「ホントーだよね? 嘘じゃないよね?」
思いきり顔をしかめる宰に、味噌汁をもらった源次郎が何度も頷く。
「本当だ。おまえは事情が事情だからな。ちゃんとオーケーはもらってるさ」
「なら、いいんだけど」
京香に注いでもらったお茶を飲むと、少し熱くて、舌がヒリッとなった。
宰の正面にいる京香は微笑みを浮かべると、今の話に混ざってきた。
「桜瀧学園は、全校生徒が一二〇〇人以上いるマンモス校です。地域との交流が大変盛んで、イベントのときは毎回生徒会の方が尽力してくださるんですよ。一週間前の花祭りの運営も、その生徒会が関わっているんです」
「へえー。桜瀧学園って、そんなに地域との結びつきが強いんですか」
花祭りのことを思い出してすごいやと感心すると、源次郎が味噌汁を飲み終えた。
「昔からそういうシステムになっているしな。――ということで、京香。おかわり」
「はい。ただいま」
「また? 食べすぎじゃないの?」
台所に入った京香を見送ってから源次郎を見る。その源次郎は不遜に顎を上げた。
「おまえの食が細いんだ。男ならばもっと食え」
「僕は平均並みだよ。いつも五回もおかわりしている源じいの食欲が異常なんだ」
「俺だって平均並みだぞ。たったの五回、どこが多い?」
「山盛りご飯と大盛り味噌汁。それを五回。作ってる京香さんが大変だよ」
「いいだろ! 京香の飯はうまいんだし!」
「それは肯定するけど、僕が言ってるのは、たくさん作っている京香さんが大変だから、食べる量は程々にしてってこと。微妙に話をそらさないでよ、もう……」
京香から味噌汁をもらった源次郎がずずーっとすする。「んまい」と唇を舐めている様は本当に満足げであった。宰は相手にされていないことにため息をつくと、壁の時計に目をやった。
「十一時ってなると、二時間半後か……。そういえば源じい、桜瀧学園ってどこにあるの?」
「ああ。そういえば、おまえに渡すものがあったんだったな」
源次郎が思い出したように箸を置くと、和服の袖から白い紙を取り出した。
「俺直々に書いてやったのだ。こっから歩いて三、四十分程度だ」
「ふぅん……」
渡された紙を見つめて半目になる。その紙に書かれていたのは地図だったが、ペン書きされていたとはいえ、鉛筆で書かれたところも多少あって、少しこすっただけでも消えそうだった。
……これは何の悪意だろう。初日のことを忘れていない宰は、隣の源次郎をジロリと見た。
「源じい。前に渡された地図がでたらめだったんだけど」
「何の話だ?」
「とぼけないでよ。萌えノベルに挟んでいた地図。たいたんのとーとか書いてたじゃんか」
「あー、あれなぁ」
源次郎が焼き魚を箸でつついた。
「ちょっとした遊び心だ。おもしろかったろ」
「冗談じゃないよ。おもしろかったのは源じいだけでしょ。こっちは地図を盗まれて本当に大変だったんだから。野宿しなきゃいけないかもとか、本気でいろいろ考えたんだよ――」
「そのくせ、神社で寝ていたけどな」
「うっ。……だって、疲れてたし」
思わぬ反撃に一瞬つまる。
「とか言っといて、朝まで飲み食いしていたけどな」
「ねえ、源じい。途中から覚えてないんだけど」
「心配すんな。俺の期待した醜態はあんまり見せなかった」
「全く安心できないよ! 今度からお酒は飲ませないでっ。僕、まだ未成年なんだからさっ」
「いーだろ。あとちょいとで二十歳なんだから」
「あのね。僕はイヤだって言ってるの。そういう問題じゃないの」
「だったら途中から寝ぼけた顔すんな! そんなんだから、俺に酒を盛られるんだろーが!」
「理不尽にも程があるよ! そんなんで、自分の正当性が成り立つとでも思ってるのかな!?」
京香がくすくすと笑い出す。宰はちょっと恥ずかしくなって味噌汁をすすった。
「とにかく、なにも間違ったことは書いてないぞ。ペンで書いてあるのがその証拠だ」
「ホントー?」
源次郎のセリフがこの上なく疑わしくて、宰はジト目になってしまう。
「本当だ、本当。なんなら京香に誓ってもいいぞ。今夜のデザートも賭けてやる」
「ぐっ」
そう来たか。デザートに命さえ懸けそうなわがままじじいにそこまで言われてしまっては、これ以上の追及は無意味なものでしかないだろう。怪しさ120パーセントの地図を茶碗のそばに置いた宰はお茶を飲むと、心にある疲労を吐き出したい気持ちで深々とため息をついた。
「はあ……。スマホ欲しいなぁ……」
「スマホ?」
「地図アプリあるし、電話できるし、これ以上源じいに振り回されなくて済むし……」
「おい」
「おい、じゃないよ。被害者は僕だよ。そう思うのは当たり前のことじゃないか」
「おまえ、俺の厚意を無碍にするのかっ」
「それに見合うだけのことをしてくれてないじゃないかっ」
「文句あるのか!」
「大有りだよ!」
源次郎がガツガツとご飯をかきこむ。顔をしかめて大袈裟に咀嚼している様は生意気な悪童みたいでとてもアホらしかったが、飲みこんだ時には普通の表情に戻っていた。
「まあ、欲しいんだったら買うぞ。スマホ」
「え?」
「必要なものなんだろ。欲しかったんなら早くそう言えよ」
思いがけないことを普通に言われてしまって、逆に宰は戸惑ってしまった。
「や……、必要といえば必要、なんだけどさ……」
「なんだ。いらんのか?」
「……源じい。アルバイトしちゃダメ?」
すると、源次郎が露骨に鼻を鳴らした。
「おまえは高校生だろーが。生活に困窮しているわけでもないのに、する必要なんぞねーだろう。つか、学生ならアルバイトではなく、イベントや学業にこそ精を出さんかっ、馬鹿者!」
「はいすみませんごめんなさいすごく反省します!」
怒られてしまったので急いで謝る。そして、違和感のあるむず痒さに肩を縮める。
宰はただの「被後見人」だ。本来なら刀条家に住まわせてもらえるはずがなかった。だが、源次郎は宰の一人暮らしを許さなかったどころか、最初は養子にするつもりですらいた。あの「刀条源次郎」の養子になるなんて恐れ多いと必死に手紙で説得して、何とか「後見人・被後見人」の関係に落ち着いたが、それでも「刀条家に住め」とは言われてしまった。これも結構悩んだのだが、そのとおりにした。これ以上の負担をかけたくない思いでその話も断ろうとしたら、おまえのそれはわがままだと言われてしまい、ぐうの音も出なくなったからだった。
とにかく、誰かにここまでよくしてもらうのは、宰には不慣れなことだったのだ。だからせめてアルバイトでもして、負担をかけないようにしようと思っていたのに……瞬殺である。
「俺は今日一日忙しいからな。買いに行くんだったら明日だ。ついでに俺も買ってみよう」
「……源じい。本当にいいの?」
「しつこいな。そんなに気になるなら出世払いでいいっつっただろーが。忘れたか?」
「忘れてはないけど……って、ちょっ! ウソっ! ああああっ!」
小皿に盛られていた宰のイチゴをヘタごと飲みこんで、源次郎がさっさと席を立つ。ごっそさんと短く言って、茶の間を出ようとして足を止めると、愕然としている宰を振り返った。
「それと、宰。今夜、『ヤンデレ!』の感想聞かせろよ」
「へえええっ!?」
「へええ、じゃないだろう。これだってちゃんと文にも書いといただろーが」
思わぬ爆弾に仰天した宰に、源次郎が唇を尖らせた。だが、読み終えていないどころか存在そのものを忘却していた宰は激しくパニックになって、頭と両手をブンブン振ってしまった。
「ムリムリムリムリ! てか、感想とかっ、なに言えばいいか全然わかんないよっ」
「では、指定しよう。キリコちゃんの折檻にどれほど萌えたか、自分がSかMかを踏まえて十分以上話せ」
「へえええーーーーっ!?」
楽しみにしているぞ、と恐ろしいことを言い残して、源次郎が廊下の奥に消えてしまう。宰は様々な打撃を受けたために魂を空の彼方に吹っ飛ばしてしまい、思わず箸を取り落とした。
「がんばってくださいね。宰くん」
おまけに京香には無情な応援をされる。彼女の邪気のない天然が背中にぐさりと突き刺さって、宰はテーブルに突っ伏してしまった。……ひどすぎる。こんな仕打ちはないんじゃないか。
清々しさなどすっかり潰えた宰の上に、ほのぼのと暖かな陽光が降り注いだ。
・・・
刀条家を出て一時間。春の香りに満ちた道の真ん中に一人で立ち、宰は地図を睨んでいた。
「……やっぱりでたらめじゃんか。この地図」
なにが「京香に誓ってもいい」だ。もはや源次郎には京香の料理を食べる資格などない。
食べられてしまったイチゴのことを恨みに思いながら、宰は今までのことを思い出した。
地図どおりにちゃんと歩いていた宰だったが、どんなに歩いても大通りに出ることができなかった。仕方がないので元来た道を戻って、細い川に沿いながら歩いていったのだが、今度は見知らぬ場所に到着してしまった。訳がわからず、一体何なの、と地図と睨めっこした。
どうにかこうにか桜瀧通りには出たものの、今度は広場を中心に六本の道がアスタリスクのごとくのびており、どこにどう進んでいけばいいのかわからない。しかも悲しいことに、今日はどのお店もお休みであり、通りには人っ子一人おらず、道を尋ねることもできなかった。
早めに出発しておいて本当によかったが、約束の時間まで二十分もない。でたらめの地図さえ精神的に手放せない自分に空しさを感じて、何度目かもわからないため息をついてしまった。
……本当にロクでもないことをしてくれるじじいである。もう二度と信じるもんか。
「源じいのアホー……。ろくでなしー……。大飯食らいの変態じじいー……」
念仏のように唱えてがくりと肩を落とす。この悪口を聞きつけて源次郎がすっ飛んできてくれたらいいのにと思いつつ、くじ運が悪いからムリか、と薄幸な自分に絶望する。
花祭りの時に自由に歩いていたあの頃の自分がとても不思議だ。あの頃の自分に戻りたい。そんな奇妙なことを思いながら、宰は数日前のようにすっかり途方に暮れていた。
「あの、大丈夫ですか?」
そんな時、源次郎のものではない心地よい女の子の声が聞こえてきた。
振り返ると、濃紺の制服にチェックのスカートという清楚な格好をした女の子が、手にカバンを持って、心配そうに宰のことを見上げていた。その様子に、もしかして、と宰は閃いた。
「すみません。地元の方でしょうか?」
そう尋ねると、女の子が「はい、そうですけど」と頷いた。
やはりだ、これはラッキーである。宰はすぐに話しかけた。
「あの、桜瀧学園ってところに行きたいんですけど、どの道を行ったらいいでしょうか? 地図のとおりに歩いていたんですけど、なんかでたらめだったらしくて迷っちゃいまして……」
「桜瀧学園?」
今度は女の子が目を丸くさせた。
「この道をまっすぐ行けばすぐですよ」
「へ? まっすぐ?」
「はい。あの、その地図ちょっと見せてもらえますか? 少し気になって」
女の子が首をかしげて見ていたので、宰は「どうぞ」と地図を渡す。手に取った女の子は少しの間地図を見つめていたが、何を思ったか、ふいに裏表と上下をひっくり返してしまった。
「へ?」
「やっぱり。この地図、裏表と上下が逆ですよ」
「へっ!?」
「こっち側が本物です。今まで見ていたのは、ペンの跡を塗り潰した裏面です」
「まっ、まさか!」
地図を返してもらい、女の子に教えてもらった表側と、今まで見ていた裏側とを見比べる。
そして気づいた。名前のところだけ、なぜか鉛筆で書かれていたその理由に。
女の子の言うとおり、裏面には再度ペン書きされた跡があった。そこに薄く名前を書いて、さも本当の地図だと言わんばかりに見せかけている。本物の地図には、裏面よりうすーい字で「とーじょーけ」「いそがみやま」「かわ」などと適当な名前が書かれており、よく見なければわからないほど小さかった。そのため、本物の地図は裏面にうつったペンの跡だと勝手に思いこんで、宰はそれと睨めっこしていたのである。源次郎に渡されたほうを「表面」だと信じて。
……なるほど、確かに嘘はついてないだろう。だが、これはない。ひどすぎる。
「源じいのアホーーっ!」
自分のバカさ加減と、源次郎の汚い罠に絶望して、両手で頭を抱えてしまった。衝撃が強すぎてそのまましゃがみこみたくなってしまったほどだったが、それ以上は不審者なので懸命にこらえた。とはいえ、今のままでも十分怪しかったかもしれないが……。
朝から本当に何なのだ。アルバイトは一蹴されるし、イチゴは食べられるし、散々である。
「……もしかして、あなたが刀条家の篠原宰くんですか?」
道に迷っていた時の疲れがどっと押し寄せてきたところで、女の子がそんなことを尋ねてきた。名前を言った覚えはないのに源次郎のことまで言い当てられて、宰は思わず顔を上げた。
「え……まあ、そうですけど……でも、どうして僕の名前を」
「あなただったんだ!」
途端に女の子の笑顔がパッと弾けた。元々、正統派美少女というべき可愛らしい女の子だったのだ。ドストライクのまぶしい笑顔に疲れが急激に吹き飛び、心を鷲掴みにされてしまった。
「私、あなたと同じ二学年の沖田凜って言いますっ。はじめましてっ」
「はひっ! どうもっ! 篠原宰ですっ! はじめましてっ!」
女の子――もとい、凜が一歩二歩と前に出てきたので、変に緊張した宰は、軍人のように直立不動の姿勢になってしまった。ガチガチに固まった宰を見て、凜が楽しそうに笑い出した。
「そっかー。あなたが、篠原宰くんだったんだね」
「あのっ、なんで僕のことを知っているんでしょう!?」
「回覧板と一緒に回ってくる広報紙に、あなたのことが書いてあったんだ。刀条さんが月一のインタビューで話してたの。『四月に俺の後継者が来るからよろしく頼むぞー』って」
「こっ! こぉぉけぇぇしゃあぁぁーーっ!?」
まさかのお知らせである。宰は心臓が飛び出しそうなほど驚愕してしまった。
というか、「後継者」という話はどういうことだ。まさかとは思うが、刀条家の後継者ということだろうか。当然だが、そんな話は聞いていない。一切合財、聞いていない。そして、その瞬間理解した。一人暮らしもアルバイトも却下されたのは、こういうところにあったのだと。
おかしい。宰はただの「居候」のはずだ。しかし現実は、無条件でお金をもらっても問題ないばかりか、大地主という将来まで期待されている。まさかの将来安泰、腰が抜けそうなほどの凄まじい事態である。養子・後見人など、関係ない。あまりにもとんでもないことだった。
あのじじいは、本当に何ということばかりしてくれるのだろう……。地図の真実以上に、ダイナマイトレベルな大ダメージを食らってしまった宰は、その場にしゃがみこんでしまった。
「つっ、宰くん!?」
凜も慌ててしゃがんできた。
「き……聞いてない……、そんな話……聞いてない……」
「個人情報は書いてなかったから大丈夫だよっ。その、宰くんの人柄とか話してただけでっ」
「そっちの話じゃなくて……。てかそれ、とってもオブラートな表現ですよね……?」
「それは、その……」
図星らしい。あの源次郎がその程度で済ませるものかと思っていたが、案の定である。
宰は、膝を抱えながら思考を巡らせた。
多分、「後継者なんて聞いてない。養子の話は諦めてなかったのか」と聞いたところで、「なんのことかな」とすっとぼけてくるだろう。もしくは、「俺は刀条家当主だ。利用できるものはなんでも利用しとけ」と恐ろしいことをのたまうに違いない。あの人はやる。そういう人だ。
だが、そんなのは冗談ではなかった。宰は慎ましく働く貧乏人である。そんな大役を任されても非常に困るし、それ以前に刀条家にお世話になることさえ最初は悩んだほどなのだ。これ以上厚かましくはなれないし、特大レベルで期待されても、応えられる自信がさっぱりない。
(――僕はなにも聞いてないんだ! 僕は『居候』! 最初から最後までただの『居候』だ!)
結局ヤケになった宰が下したのは、現実を拒否するというとっても情けない結論であった。
「アハハ……すみません、いきなりしゃがんでしまって。さすがにビックリしちゃいました」
微妙に心配そうな凜に、布団に潜って砂になりたい宰は白い心地になりながら微笑んだ。
「いえ……。宰くんは大丈夫?」
「ダイジョウブです。僕は『居候』ですから。間違っても『後継者』とか聞いてませんから」
「居候……」
白昼夢を見たらしい宰はその場を立つと、続いて立ち上がった凜と向き合った。とにかく道はわかったのだ。明らかに不審者であっただろう宰に最後まで付き合ってくれた凜の優しさに感謝しながら、それでももうちょっと話したかったなぁ、と思いつつ、気持ちを切り替えた。
「教えてくれてありがとうございます。これで桜瀧学園に行けそうです」
「桜瀧学園に行くんですか?」
「はい」
「じゃあ、一緒に行きませんか?」
「はい?」
だが、宰の浅ましい願望は、幻聴としてたやすく顔を覗かせてしまった。
作った笑顔のままで固まってしまうと、凜が「ふふっ」と肩を揺らした。
「私も桜瀧学園に行こうと思っていたところだったんだ。よかったら一緒に行きませんか?」
「いっ――いいいっ、いいんですかっ!?」
「もちろん。噂の宰くんとお喋りするのも楽しそうだし、せっかく会えたんだもん。ね?」
――源じい。もしかして源じいは、たまには幸運の神様になってくれるのですか。
広報紙に人のことを暴露したり、後継者と衝撃的なことをのたまったり、手書きの地図でおちょくってみたりと、とんでもないことばかりしてきた。だが宰は、そんな源次郎に一切を忘れてバカみたいに感謝してしまった。我ながら都合がいいものだと思ったが、もう理性のメーターは振りきれている。頭がパァになるしかない。しかも、目の前にいる女の子は超可愛い。美少女だ。こんな美少女とお話しできるのは、滅多にない機会だと思うのだ。だからもう、調子に乗ってもいいと思うのだ。――宰は迷子なのだから、調子に乗ってもいいと思うのだ!
「じゃあ、沖田さんと一緒に行かせてください!」
朝からの災厄に心をすっかり磨耗していた宰は、目の前の幸運に飛びついた。そんな宰の反応を好意的に捉えた凜は「はい」と微笑んで、肩口で切りそろえた髪を春風に流した。
遠くからは桜の香りがして、風に乗った薄紅色の花びらが辺りを軽快に踊り始める。
歩調を凜に合わせて歩きながら、宰はいくつか話を伺った。聞けば、凜は桜瀧学園の生徒だそうだ。高校はこの辺りだと桜瀧学園しかなく、小中学校は遠く離れているとのことだった。
桜瀧通りにあるおすすめスポットを紹介してもらったり、町全体のことを話してもらったりしながら、少し広めのレンガ道を進んでいく。建物と建物の間には秘密の抜け道みたいな横道がいくつもあって、そこを通ると他の通りに出られることも、隣にいる凜から教えてもらった。
「じゃあ、刀条家の後ろにあるのが石神山で、正面にあるのが三和山なんだね」
ちょうど今、凜に話してもらったことを口にすると、凜がそうだよ、と頷いた。
「石神山から流れてくるのが桜瀧川の本流。多分、源流でもいいかなぁ? とっても自然が綺麗なところでね。森林浴にはピッタリかもしれないな。あと、三和山には深い森があって、山を越えて奥のほうに行くと、『四国の樹海』っていう原生林があるって言われてるんだ」
「四国の樹海?」
オウム返しに聞き返した。
「聞いたことないでしょ。でも、近隣では有名なところなんだよ。曰くつきの森だから、昔から誰も近づかないの。すごく広い森らしくて、その向こう側は海になってるみたい」
「へえー。曰くつきの森ねぇ……。あんまり近づきたくないかもなぁ」
「私はちょっと行ってみたいかも」
「一緒に行く――いやっ! ウソっ! なんでもないよ! ウソウソ! うんっ、ウソ!」
「ふふっ。ウソなんだ」
凜とのお喋りはとても楽しい。今みたいに口を滑らせてもちゃんと反応してくれるし、たまに冗談も言ってくれる。初対面から気の置けない人だった。明るいし、親切だし、可愛いし、しっかりしている。そんな女の子と一緒に歩いていけるこの状況なんて、今すぐ成仏できそうなくらい最高だ――なんて考えている自分の頭は本当に単純なものだと宰は少しだけ笑った。
そんな能天気思考をくるくる回しながら、のんびりと今の状況を楽しんでみる。今まで忙しくてそれどころではなかったので、今過ごしている時間がとても貴重に思えてならなかった。
「でね。桜瀧通りなんだけど、今歩いているのが、距離的には一番大通りに近い『中の花通り』」
「中の花通り?」
「桜瀧通りのメインストリートになってるんだ。中央には六本の通りの合流地点があるんだけど、そこは広場になってて、『花園』って呼ばれてるの。地元の愛称みたいなものなんだ。で、大通りから花園に向かっている三本の道は……さっきの地図、見せてもらってもいいかな?」
「うん、どうぞ」
「ありがとう。――桜瀧川に近いほうから、『外の花通り』『中の花通り』『内の花通り』って呼ばれてて、反対側は『外のみどり道』『中のみどり道』『内のみどり道』って呼ばれてるの」
凜に指を差してもらって、宰は「へえー」と声をもらしながらこくこくと頷く。
「みどり道って名前なのは、石神山や三和山方面に向かってるからだね。その先を抜けると、田んぼとか古民家とかがあるんだけど、のどかな光景だから『緑』っぽいイメージがあったんだと思うな。――あっ、そうそう。刀条家の近くには外のみどり道があるよ。そこを通って、外か中の花通りを行けばすぐ大通りに出られるんだけど、それだと遠回りになっちゃうんだよね。だから、刀条家の裏手にある土手道から行けば、二十分くらいで大通りに出られるよ」
「ホントだ。この地図を見るとそんな感じだね。なんか、冒険している気分になってきたよ」
思いがけず源次郎の地図が役に立っている。ちょっと笑うと、凜がそうかもと笑顔になった。
「長く住んでる私だって、時々冒険したくなるからね。今日もそんな気分で、少し遠回りしてみたんだ。横道には意外な発見があるからね。そしたら、なんと噂の宰くんに会えちゃった」
「あは。そう?」
そう言われると、ちょっと照れてしまう。
「ここは何年住んでても楽しいところだよ。だから宰くんも、帰りとかに散歩してみたらどうかな? 桜瀧川もね、ここの桜は結構長く咲いているほうだから、今もまだ綺麗な景色が見られると思うんだ。他にも、春の花があちこち咲いているだろうし……。きっと、いろんな発見があると思う。梅桜町の魅力って、桜瀧通りだけじゃないから。だから私は、この辺り一帯を気ままに散歩してみるのを一番おすすめしたいかなぁ」
「……僕、迷イマシタ」
「あ。……えっと、初めて来たんだから仕方ないよ。これから覚えればいいんだし。ねっ」
明らかにおかしかっただろうに、凜はちゃんとフォローしてくれる。
なんて優しい人なのか。こういうところも素晴らしいと宰は思った。
そんなふうにほんわかしているうちに大通りに出る。つい最近も見たようなところである。行き交う車や道ゆく人々を見ているうちに、送迎バスもこの場所で降りたことを思い出した。
数十メートル先には大きな歩道橋がある。そこに向かって、凜と一緒に歩いていった。
「とりあえず、そんなところかな。他にもわからないことがあったら、また教えてあげる。今日は生徒会の仕事があるから無理だけど、まだまだ紹介していない場所がいっぱいあるからね」
「あっ。沖田さん、生徒会なんだっ」
今朝の食卓で話題に上がっていた生徒会の話を思い出して、ちょっと声が高くなる。
「うん。地域運営委員会に入ってるんだ。だから、仕事もたくさんあって」
「それで、休みなのに学校に行くんだ。大変だね」
制服姿なのはそういうことだったんだと納得すると、凜が小さく首を振った。
「でもその分、充実してるんだよ。やりがいがあるし、楽しいし、イベントが成功したときは本当に嬉しいから、どんなに大変な仕事でもまたがんばろうって思えるし」
「そっか。じゃあ、今回の花祭りも」
「うん。とっても楽しかった。だから、今日もがんばるんだよ」
凜と笑い合うのはなんて心地がいいのだろう。晴れ渡った青空みたいに宰の心も爽快になる。
歩道橋の階段を上がっていって、反対側の階段まで歩いていく。ここで凜が向かいを指差す。
「大きな建物が見えるでしょ。あれが桜瀧学園だよ」
「えっ!? あれがっ!?」
でかっ! ――それが、宰の最初の印象だった。
桜瀧学園は宰の想像よりも一・五倍ほど大きく(その想像も私立にしてはやたらとでかかった)、右から左までの距離は異様なほど長いものだった。校舎は名前どおりに淡い紅色になっており、とても綺麗で、かつ清潔感のある外観である。部活動でもしているのだろう、遠くから生徒たちの活発なかけ声が聞こえてきて、宰の心はボールが弾むように高鳴り始めていった。
「はあー……。あれが桜瀧学園かぁ……」
宰の間の抜けた呟きに、凜が再び小さな笑みを零した。
「ここからだと、歩いて五分くらいで正門に着くかな。でも、校舎が広いからね。奥にある正面玄関まで行くのに五分くらいかかっちゃうかも」
「計十分。巨大だね」
「マンモス校だから」
それでも巨大すぎだろうと、宰はついつい笑ってしまう。凜も凜でおかしそうだった。
歩道橋を渡り終え、立派な門構えの正門に向かって、二人で一緒にそこをくぐる。
ふと、空気が変わった。
思わず足を止めて鼻を利かせてしまうと、桜瀧通りとはまた違った香りがする。透き通るようで、心地よい穏やかな空気。体の中に柔らかく溶けていって、宰はぐるりと周囲を見回す。
「どう? 桜瀧学園」
凜も足を止めて振り返り、微笑んでくる。宰は浮き立つ気持ちのままに何度も頷いた。
「すっごく綺麗なところだと思う! 何もかもが巨大だけど、みんなのエネルギーを全部受け止めているみたいで安心感があるし、これはこれでちょうどいい大きさにも感じられるし!」
「日本一元気すぎる町の学校だからね、ここ」
「ああ、わかったっ。元気すぎて、校舎がでっかくなったんだっ」
「あっ、そうかもっ。ふふふっ」
生徒用の正面玄関は、右手に校舎を見ながらまっすぐ歩くと着くそうだ。だが忘れてはならないのが、宰には約束の時間があることだ。既に五分オーバーしている。下駄箱もないし、職員用の玄関から入ったほうがいいかもしれない。それを伝えると、凜は快く教えてくれた。
「それなら、すぐそこにあるあの玄関から入ればいいよ。事務室の人が対応してくれるから、そこで先生の名前を言えば、すぐに呼んできてもらえると思うよ」
「あ。あれか」
となると、正面玄関から入る凜とはここで別れることになる。たくさん喋ったことで余計に別れるのが惜しくなってしまったが、これ以上望むのは欲張りというものだろう。
「何から何までありがとう、沖田さん。今日は本当に楽しかった」
振り向いて心からの思いを述べると、凜も宰に向き直って頷いた。
「私もとっても楽しかったよ。宰くんはやっぱり噂どおりの人だったね」
「……その噂の中身をすごく確認したいような気がするのですが……」
「噂どおり楽しい人だったから大丈夫。なに? なにか心配したの? ふふっ」
凜が悪戯っぽく笑っている。その笑顔に、宰もまあいいか、と頬を緩めてしまう。
「じゃあまたね、宰くん。同じクラスになれたらいいね」
そして、去り際のセリフにズギュンと心を打ち抜かれた。……ああ、ヤバイよ。僕、今すぐ天国に行けそうだよ。悪霊だったら余裕で成仏できる。神様になって人を救える。
そんなアホみたいなことを呟きながら、宰は幸せな思いで手を振った。約束の時間は既に過ぎていたが、頭に花が咲いている宰には問題ではなかった。幸せな思いで吐息をもらす。
(これも源じいのおかげだな。結局なにしたかったのかわかんないけど、沖田さんに会えたのは本当にラッキーだったし。……あはっ。沖田さんと一緒のクラスになれるかなぁ。ははっ)
心の弾みをひけらかすようにスキップしながら職員用の玄関に入る。事務室の窓口に声をかければ、すぐに来てくれたのは若い女性だ。穏やかそうな人に、宰の表情筋はさらに緩んだ。
「篠原宰という者です。斉藤捺平先生をお願いします」
「ああ。あなたが刀条さんの」
どうやら彼女も知っているようだった。宰は、高揚する気持ちのままに「はい」と頷いた。
「わかりました。少し待っててくださいね。今、ナツ先生を呼んできますから」
「はい。お願いします」
若い女性が奥の扉に消えてしまう。そこから職員室に繋がっているのだろう。
宰は、待ち時間にと周囲を見回す。外観だけでなく内装も綺麗なもので、明るい茶色が木の幹のような印象を抱かせる。しっとりと落ち着いた色で彩られていて、その色を見ているうちに、学校全体が桜の木を象っているのでは、ということに気づかされた。
(本当に花の町なんだなぁ……)
全く、顔のニヤケが止まらない。玄関から見える外の景色を眺めて、宰は心の中で呟いた。
……そうだ。スマホを買うときはカメラ機能を重視しよう。何気ない一つひとつの景色は、見ているだけでもすごく楽しい。そんな気持ちとともに思い出を残しておきたい。いつかまたこの時の嬉しさを思い出すために、大切な思い出を作っていきたい。
青色のショルダーバッグを肩にかけ直して、宰はこれからのことに夢を抱いた。
「お待たせしました、篠原さん」
すると、そちらに夢中になりすぎていたのだろう。先程の若い女性に呼びかけられるまで、宰は後ろに人が来ていたことに気づかなかった。ハッと我に返って、慌てて後ろを振り向いた。
「あっ、はいっ。ありがとうございま――」
女性に連れてきてもらった担任にも挨拶しようとする。――が、その瞬間思考が凍りついた。
「あらあらぁっ! あなたが、刀条さんのところの篠原宰クンねぇっ。アタシが斉藤ナツ先生よぉーっ。ナツ先生って呼んでちょうだいっ。うふふふふ!」
(――――!?)
宰は、思いきり目を剥いた。
……目が、おかしくなったのだろうか? それとも頭だろうか? 宰の目には、その筋肉大男がどーーもピンクのワンピースを着ているように見えてならないのだ。しかもフリフリである。二の腕の筋肉は大きく盛り上がって、薄い生地がはち切れんばかりになっている。でも切れない。幻だから? だがこんな恐ろしい幻は見たことがない。一度たりとも見たことない。
なにが起きたんだろう。頭をぶった? おっかしいなぁ、さっきまで超ハッピーだったのに。
「んもうっ。ナツ先生、嬉しい! こんな素敵な男の子がアタシのクラスに来てくれるなんて!」
ピンク色の唇をぷるぷる震わせた相手が、白くなっている宰を気にせずそんなことを言う。
「よかったですね、ナツ先生。あの篠原宰くんですよ」
「ええ、ええ! 今日はとっても素敵な一日だわん! ナツ先生、はりきっちゃう! うふふ!」
赤い頬を手で押さえて、全身で喜びを表している。そんな人が隣にいるせいではるかに小柄に見えてしまう若い女性は、微笑ましいものでも見るように彼女(?)のことを見上げている。
(…………へ?)
宰は、ようやく瞬きをした。
「さあっ、宰クンっ。まずは職員室に行きましょっ。おいしいお菓子もたくさんあるのよっ。ナツ先生が食べさせてあげるわんっ。今日だけはナツ先生のト・ク・ベ・ツっ。うふふふふ!」
そしていきなり背中に回られ、体が勝手に動き出す。あらまあ、不思議。宰の体重など微塵にも感じていないみたいに、体がどんどん前に進む。そんな蒸気機関車なんてあったかしら。
(――へっ!?)
廊下の左右が車窓のように流れていく中で、宰は激しく混乱した。
・5/9、6/9、7/9を統合しました(15/2/2/月)