第一章:花咲く春の梅桃町 2/4
「嬉しい?」
京香の言葉に聞き返してしまうと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「はい。あんなに喜ばれている源さんを見るのは初めてです」
「そうなんですか?」
いつもあんな感じだと思っていた。そう尋ねると、京香はええと頷いた。
「普段から精力的な方なのですが、今日はいつにも増して生き生きとしています。花祭りから戻られてすぐ、宰くんのことをお話ししてくださいましたから、本当に嬉しくてしょうがないのだと思います」
「僕のことを話した……?」
「はい。あら、会われなかったのですか? 宰くんにお送りした地図を持ってお戻りになられたので、てっきりお会いになったと思っていたのですが」
「地図っ!? って、ちょっ、まさか地図はなくしたんじゃなくて、源じいに盗まれた!?」
衝撃の事実に驚愕する。京香は不思議そうに首をかしげた。
「もう道はわかったからと、源さんに突き返したのではないのですか? だから源さん、宰くんを驚かそうと突然コンニャクを持ち出されたのでは……」
「そっ、そんなことしてません! 地図がなくて困ってました! 逆に途方に暮れてました!」
とんでもない勘違い発言を急いで訂正すると、京香が頬に手を当てた。
「まあ、そうだったのですか? では源さん、宰くんに悪戯をなさったのですね」
「いたずら?」
「本当に嬉しいときにしかやらないのですよ。よかったですね、宰くん。楽しかったですか?」
「…………」
のほほんと微笑んでいる京香を見て、宰は大変なことに気づいてしまう。
……京香は天然だ。間違いない。
いよいよ本気で間違えたかもしれないと真っ青になる。京香に罪はないが、源次郎があの調子では、その天然はある意味絶望である。まさかの展開に、宰はもはや衝撃を隠せなかった。
スタート地点を間違えた……。背中に巨大な岩石を背負ったようにうなだれてしまった宰のことをどう思ったのか、京香がふと「宰くん」と呼びかけてきた。宰は死んだ声で返事した。
「山吹の花言葉は知っていますか?」
「花言葉?」
だが、不思議な質問を投げかけられて顔を上げてしまった。
「はい。山吹は春に咲くお花です。ちょうど今頃なら、神社の奥に咲いていると思います」
「神社の奥……。って、え? 神社って、石神山神社の奥に何かあるんですか?」
「ええ、ありますよ。少し前まで人が住んでいましたから、ちゃんとした道もあるはずです」
「へえー。そうなんですか……」
それは気づかなかった。頷く宰に、京香が続けた。
「明るい黄色のお花なんです。花言葉自体はヨーロッパから渡ってきたものなのですが、日本独自の花言葉もいくつかあって、山吹もそのうちの一つなんですよ」
「そうなんだ。知らなかったです。そういう話には僕、疎いので。……へえー、なんだろう」
気持ちがふんわりと上昇する。宰はちょっと気分が乗ってきて、少しだけ前に体を出した。
「じゃあ、京香さん。その山吹の花言葉ってなんですか? 実はさっき、源じいにも不思議なことを言われたんです。山吹色には意味があるんだって。あれがずっと気になってて」
そう尋ねた時――京香の笑顔がとても柔らかいものになった。肩より長いつやのある髪がさらりと流れて、まるで毛織物でも編むかのように、京香が優しくその言葉を紡いだ。
「待ちかねる、です」
「待ちかねる?」
「今年はいつもよりたくさんの雪が降ったので、とても寒かったのを覚えています。源さん、ずっとコタツに入られながら、宰はまだか、まだ来ないのかと寝言のように呟いていました。二月を過ぎてからは、もう宰くんの名前を言わなかった日はありませんでしたね。宰くんがこちらにいらっしゃるのは三月の下旬頃だと伺っていましたので、宰くんを待つ源さんのお姿を見て、私、春の訪れを待っているみたいだと源さんにお話ししたんです。その話をした時に、ふと山吹のことを思い出したんです。山吹の花言葉には、そういう意味がありましたから」
和服はもうご覧になったでしょうか、と京香が思い出したように尋ねてくる。
「何枚も同じ色の物を作ってしまったので、少し引いてしまったかもしれません。ですがそれが、私と源さんの気持ちなんです。宰くんと一緒に暮らせる日が来るのをずっと待ち続けていました。源さんは、私よりもずっと前から宰くんのことを待ち続けていました。そして今日、ついにその願いをかなえることができました。こんなに嬉しいことなんてありません。だから私も源さんも、今日という日を本当に喜ばしく思うんです。胸がいっぱいになるんです」
「…………!」
そう言って胸の前に手を当てる京香に、ふいに目頭が熱くなった。驚いてテーブルに伏せ、額を押しつける。無意識に唇を噛みしめる。自分の足がぼやけて見えて、頭が少し混乱した。
こんな言葉を、もらえるなんて。
「……和服、ありがとうございます……大事に、着させていただきます……」
辛うじて声を絞り出すと、京香の小さな笑い声が聞こえてきた。
「そうおっしゃっていただけて何よりです。寝巻きだけでなく、普段着用にも同じものを作りましたから、よければそちらも着てみてください。源さんもお揃いだとお喜びになりますから」
「はい……本当に、ありがとうございます……」
「いいえ。こちらこそありがとうございます、宰くん」
「…………すみません。トイレに行ってきます」
素早く席を立ち、顔を隠しながら茶の間を出る。明かりのついていない廊下を奥まで進み、トイレや浴室を通り過ぎたところで、ようやく自分の足を止める。……息をつく。少しだけ震えていた。今なら大丈夫だろうと目をこすって熱を逃がし、宰はおもむろに天井を見上げた。
……危なかった。本当に泣きそうだった。まさか、そんな思いがこめられていたなんて。
気がつくと、胸の奥でもやもやしていたものがすっかり消えてなくなっていた。その代わりに別のものが見えてくる。その正体に気づかされて、ふいに今までのことに納得がいった。
思えば初めて出会った時、宰はさっきみたいに騒ぐことなどできない状況にあった。
もう、どうすればいいのかわからなかった。希望さえ見えてこなかった。そんな時に源次郎は颯爽と現れてくれたのだ。何も喋れないでいる宰の手を力強く握って、沈んだ心を光の下に引き上げさせてくれるような眼差しを向け、運命的とも言える「あの言葉」を言ってくれた。
その言葉が宰の全てを救ってくれたのだ。「あの言葉」が、今でも脳裏に蘇るのだ――……。
(……声?)
だがその時、宰は廊下の奥から聞こえてくるかすかな声に気づかされた。最初は源次郎の声だと思ったのだが、それにしては少し野太すぎる気がしてならなかった。それどころか、この屋敷には彼を含めて三人しかいないはずなのに、今聞こえてくる声は初めて聞くものだった。
(誰だろう?)
宰は歩き出していた。音をたてないようにゆっくり足を動かし、慎重に廊下を踏んでいく。
なぜこんなことをしているのか自分でもわからなかったが、声が途絶えても、聞こえてきた場所が意外と近くにあったからか、曖昧なままでは終わらせられないと思う自分がいた。そんな好奇心に抗う理由を持たなかった宰は勝手に近寄って、廊下の突き当たりに迫っていった。
右側の廊下には月の光が弱々しく差しこんで、左側の廊下には不気味な闇が沈んでいる。
声が聞こえてきたのは右側だ。壁に背中をつけて息を吸うと、そっと向こう側を覗きこんだ。
――見えてきたのは源次郎の半身。彼は外を向いて、神妙に腕を組んでいた。
「三人……、か」
「はっ」
「そのあとは」
「エンキがなんとか。ですが、シナネジが腕を……」
(シナネジ?)
人の名前だろうか。エンキという聞き慣れない単語も気になった。
誰かの報告を聞いた源次郎が、「またか……」とため息混じりに呟いた。
「よい。もしものときは俺も出よう。くれぐれも油断だけはするな」
「はっ」
「……今年は桜が咲いているのに『ヤツラ』は出てくる。こんなことは初めてだ」
ヤツラ……? ピクリと鼻が疼く。源次郎が言葉を続けた。
「またあればすぐに知らせろ。今度ばかりはなにが起こるかわからんからな」
「承知」
「ゴダイロウには俺から話しておく。――行け」
「はっ」
会話が途切れたその瞬間、ヒュッと短く風を切る音がした。直後に少し強めの風が吹いてきて、開けっ放しにされた縁側の大窓がカタカタと音をたてて震え出した。
源次郎の黒い羽織が大きくなびく。その風が流れこんできて、宰の前髪を弄んでいく。
……冷たい風。
やがて風の音が聞こえなくなり、完全な静寂がそこに満ちた。
無音が耳の奥にジンと響いて、痛みが中へと染みこんできた。
――なんだ、今のは。
わずか一分間の会話に体が動かなくなっていた。指先まで凍りつき、強い緊張に支配される。
すると、源次郎が宰を見てきた。思いがけず目が合ってしまって、反射的に顔を引っこめた。
「それで隠れたつもりか。言っておくが、いつからいたかもわかっているぞ」
今までの泥酔状態はどこに行ったのか、源次郎の声は異様なほど落ち着き払っていた。
大窓を閉める音と、宰に近づいてくる足音。
宰はどうすればいいのかわからなくなり、隣に源次郎が来ても逃げることができなかった。
「本当にビビリ症なのな。コンニャクごときで腰を抜かしていたから、当然といえば当然だが」
「げ、源じい……」
「ンなビビるな。別に後ろ暗いことなんぞしておらん。――で、なにか聞きたいことはあるか?」
唐突に質問されて緊張が走る。肩が震えて、逆に口を閉ざしてしまう。
けれども源次郎は特に急かすつもりがないようだった。腕組みをほどき、ゆったりと宰のことを見下ろしている。だからだろう。そっと様子を窺っていた宰は恐る恐る尋ねてしまった。
「……今、誰と話してたの?」
「さあな。男かもしれないし、女かもしれない」
妙な答えが返ってくる。しかし、声は明らかに男のものだったのだ。……答えるつもりがないということだろうか。源次郎の真意がわからなくて、宰はそれきり黙りこくってしまった。
しばらくして源次郎がため息をつく。宰がもう何も聞こうとしないことを悟ったのか、無言で目の前を通りすぎていく。しかし、すぐに足を止めた。振り向くことなく低い声で問うた。
「宰。なぜこの場所に多くの桜が咲いているか……わかるか」
「え?」
宰は源次郎の背を見てしまった。
「この地に訪れる観光客のための景気づけ、全国的にも名の知られた名物景色……。表向きはそういうことになっている。だが、実際はそうではない。桜とは『慰め』なのだ」
「慰め……?」
源次郎が緩慢に頭を動かして頷いた。
「この地にはかつて、『桜瀧村』という古い名があった。その名には、モノどものために滂沱の涙を流す桜の思いがこめられている。いいや、桜の祈りそのものなのだ。桜は柳のことく枝を垂らし、悲しみの涙をしとしとと流した。その涙はやがて川となり、この村を流れるようになっていった。……わかるか、宰。この村には慰めを必要とするモノどもが大勢いる。声なき叫び声を誰かに聞いてほしいと、夜な夜な闇の中を蠢き回るのだ」
源次郎がゆらりと振り返る。――闇の中に浮かぶその目はあまりにも虚ろで、拝殿の奥に閉じこめられていた深淵よりも深く、陰惨で、底なし沼のように黒くて恐ろしいものだった。
「桜なき夜は隠れ里を出歩くな」
「……え……?」
「鬼は彷徨い続けている。深い闇の中を、今も昔も永久に……な」
――戦慄が走る。神経が硬直したように大きく震えて、突然呼吸が凍りつく。
コノ人ハ、誰、ダ?
何者かが宰の前に立っている。得体の知れない不気味な影が、宰を見つめて笑っている。
揺らめいた影が床をこすり、足元を軋ませて近づいてくる。
予感が、する。伸びてくるのは黒い腕。宰の首へ伸びていき、耳鳴りが激しく脳を打つ。
「――ッ!」
引きつった喉。――だが思いがけず、ぽんと肩を叩かれてしまった。
「…………へ?」
「まっ。そのうち慣れるだろ」
たった今まで迫っていた恐ろしいものは一体どこに行ったのだろう。
源次郎のあっけらかんとした態度に、宰は毒気を抜かれてしまった。
「力を抜け、宰。ここに来てからずっと肩がこわばっているぞ」
「……そ、うだった?」
「自分のことなのに気づいてなかったのか。疲れた顔をしてても、ずっと気を緩めようとはしなかったぞ。そんなんでは肩が凝るだろうが。少しはリラックスしろ、リラックス」
「う、うう……」
ぽんぽんと叩かれても、自覚がないのでいまいちわからない。それに、今この瞬間まで強く緊張させられていた宰なのだ。力を抜けと言われても、当然ながらすぐにはできなかった。
そんな宰に、源次郎がフッとかすかに笑む。それは今までに見た表情と違って、月を映した水面に息を吹きかけたかのような、趣のある穏やかさをにじませたものだった。
「舞台は用意したぞ」
「え?」
「ここが俺たちの梅桃町だ。日本一活気に満ち、それゆえに華やかで騒がしく、決して飽きることのない俺たちの町だ。おまえは今日、その町の住人となったのだ。宰、おまえはこれから先、俺たち梅桜町の住人に大いに振り回されることになるだろう。これは必然、当然のことだ」
……聞き覚えがある。一年前に聞いた、かつての「あの言葉」のような……。
「宰。俺はおまえの後見人だ。この俺を存分に頼れ。存分に使え。俺が全力でサポートしてやる。俺は、刀条家当主の刀条源次郎だ。この町は俺を中心に回っている。それゆえ、この町でできぬことなどありはしない。なんでもできる。だからこそ俺は、おまえをここに呼んだのだ」
「源じい……」
「ここで新たにやり直すのだ。宰」
軽く叩くだけだった源次郎の手が宰の肩を掴んでくる。宰を見下ろすその表情は力強い自信に満ちており、瞳は煌々と輝いて、肩の圧迫に不思議と頼もしさを感じさせた。
「この町にはそれだけの力がある。それだけのきっかけがたくさんある。あとはおまえが掴むだけだ。その手に掴み、己の未来を切り拓いていくだけだ。――円城寺もそれを望んでいる。だからおまえはここにいる。ここにいて、俺の前に立っているのだ」
円城寺――。その名前を聞いた時、胸の中のモヤが一斉に晴れ渡った。
宰のかけがえのない恩人で、一年前に亡くなってしまった人。
天涯孤独の宰のそばにいてくれて、ずっと支え続けてくれた唯一の人。
たった一年だ。たった一年聞かなかっただけなのだ。
それなのに――その名前を聞いた瞬間、本当に涙が零れそうになってしまった。
(円城寺……)
東京を旅立つ決意をした「あの時」みたいに、誰かが背中を押してくれた気がした。
宰のそばにそっと佇んで、静かな眼差しで見守ってくれている気がした。
それを感じた途端に力が抜けていき、むず痒くなった鼻を小さくすんとすすってしまった。
(やっと……梅桃町に来られた気がしたよ。僕はなにも間違えてなかった。ここにきたのは正しかった。だから、源じいや京香さんに出会えたんだ。新しく始めることができるんだ……)
そのためのはじめの一歩を今日、宰はやっと踏めたのだ。
だからもう、不安に思うことなどありはしない。恐れることなどありはしない。
始まる、宰のこれからが。――宰の、これからの未来が。
「ありがとう。源じい」
心にいっぱいになった感謝の思いを口にすると、源次郎が宰の肩に腕をかけてきた。体重を乗せつつ宰の髪をかき混ぜ、一緒に前を歩き始めた。
その心地よい重さに、ふと頬が緩んだ。重さを支えるだけのエネルギーがどこからともなく湧き出してきて、宰は声を上げて笑ってしまった。
宰を苛んでいた焦りも、苛立ちも、倦怠感も、もうどこにもない。
目の前には道がある。その道をこれから歩いていく。
苦しみを乗り越えてはじめに切り拓いた、自分の道を、未来へと――……。
宰はその後、酔っ払いじじいに大変身した源次郎に自分のデザートを取られてしまった。目の前で一口に食べられてしまい、あまりの出来事に女の子のような悲鳴を上げてしまった。
「いずれ大々的な歓迎会を開くぞォ! 武村も既に一発芸の練習を始めているのだ! ヤツの芸に腰を抜かさぬよう、せいぜい今からでも踏んばっておくのだなァ、宰ァ! ふははははァ!」
不吉なことを叫び、盛大に缶ビールをあおる源次郎。まだまだ増殖する空き缶の量に脅威まで感じ始めてきたとはいえ、それでも宰はたくさん笑った。京香も巻きこんで馬鹿みたいに騒ぎまくり、朝まで宴会のように飲み食いし合った。
その過程でビールを飲まされ、ひどい二日酔いになってしまったのはちょっとした後日談である。源次郎も酒に強いとはいえ調子に乗りすぎたようで、昼過ぎになっても顔色が悪く、京香の勧めで、宰とともに胃腸薬のお世話になっていた。
何はともあれ、宰はこうして梅桜町の住人となったわけである。
初めて迎えた梅桃町の朝はキラキラとまばゆく、緑と平穏の匂いを漂わせていた。
・3/9、4/9を統合しました(15/2/2/月)