第一章:花咲く春の梅桃町 1/4
「梅桃町」は「ゆすらうめまち」と読みます。
何とか源次郎から解放された宰だったが、彼から自分の荷物を回収することはできなかった。「今日くらい構わん、構わん」と大笑いされ、ズンズン先を歩かれたからである。
そんな源次郎に困り果てているうちに辿り着いたのが、歴史的建造物と言わなければならないほどの大きな屋敷である。それは門の前に極道の看板が立っていないのが不自然なほどに厳めしく、立派な建物であり、小さな宰を圧倒するがごとく建っていた。こんなに馬鹿でかいとは思ってもみなかった宰はあまりの迫力に言葉をなくして、呆然と屋敷を見上げてしまった。
「どんな間抜け面だ、それは」
その隣では、源次郎が満足げな笑みを浮かべて立っていた。
「……あの、名家ってのは聞いてました。でも、こんなにでかいなんて聞いてないんですが」
「そりゃあ、別に言う必要はないからなぁ」
「……ホントに二人で住んでるんですか?」
「おまえを入れて三人だ!」
「一人増えても、でかさは変わらないと思うんですが」
そう言うと、源次郎が急に訝しそうな目になって宰を見た。
「なーにをさっきから気にしてるんだぁ、おまえは。ちっこいよりはいいだろうがっ」
「いや。そういう話じゃなくて……」
「はっきりしねぇヤツだなぁ。ヤバイ人間がいるかもしれねーってビビってるのか?」
いきなりの図星だった。
「それについては安心しろ。俺んちにそんな危ない人間なんぞおらんから」
「ホントーですか?」
「本当だ、本当! 嘘なんかつくかっ。それよりもホレっ。さっさと入った、入った!」
「あだっ! だから背中を叩かないでくださいってば、刀条さん!」
思い切り背中を叩かれて振り返れば、突然怖い顔になった源次郎がクワッと噛みついてきた。
「刀条さんゆーな! さっきも言ったのにもう忘れたか、小僧!」
「へええっ!?」
「それと敬語もやめぃ! 腹が立つわ!」
「そ、そんなこと言われたって……」
一年前とはまるきり違う様子にどうすればいいのかわからなかったが、今は考えないほうがいいかもしれない。宰はそう頭の中で判断して、とりあえず呼び方をなんとかすることにした。
「じゃあ……源さんって呼んでもいいですか?」
「うん? なんか違うなぁ」
かと思えば、源次郎はそんなことをのたまってきた。神妙な顔つきになって腕を組む。
「さん付けもいかんなぁ。なんかこう、ムカッと来るぜ。となると、他の呼び方は……おっ、そうだっ。『源じい』だっ。俺のことは『源じい』と呼べ!」
「はい?」
「『源じい』だ、『源じい』! 今度さん付けしたら自慢の池にぶちこんでやるから、今すぐ俺のことを『源じい』と呼ぶがいいっ、宰!」
「…………源じい」
「はっはーっ! ジジイではないが、そのように呼ばれるのもいいもんだなぁ、おいっ!」
「……よかったですね」
何なの、このじじい。のけぞり笑う源次郎に、宰はつい半目になってしまった。
そんな源次郎に背中を押されながら表玄関をくぐり、踏んでいいのかわからない白い石畳の上を歩いていく。広大な敷地に落ち着かない気持ちになっているとあっという間に玄関前に到着して、宰はとにかく緊張する。絶対来る場所を間違えた、そう思わせる余裕さえ与えないまま源次郎は引き戸を開け放つと、またしても宰の背中を押して、はた迷惑な大声を響かせた。
「帰ったぞ、京香ぁぁ! ついでに宰も連れてきたぞぉぉ!」
「うっ、うるさ……」
「はーい」
耳を押さえる前に透き通った声が聞こえてきて、予想外なことに目を丸くする。そのタイミングで左手にあったふすまがスッと開いて、照明を点けていない廊下にその人が姿を見せた。
あまりに思いがけないことだった。明るい表情で駆け寄ってきたのは、まだ二十代と思われる若い女性だった。内面的な美しさがにじみ出したような美人さんで、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉が、まるで彼女のためにあるように思えるほどの人だった。そんな彼女は淡い色のワンピースに薄黄色のエプロンという目に優しい色合いの服装をしており、宰の前で細い手を重ね合わせると、とても綺麗なお辞儀を見せてくれた。
「はじめまして。遠いところからようこそいらっしゃいました。私は、刀条家の家政婦を勤めさせていただいております、氷室京香と申します」
「はっ、はいっ! はじめましてっ! 篠原宰ですっ!」
途端にすごい緊張が宰を襲い、ひっくり返った声で頭を下げる。源次郎がニヤニヤと嫌な感じに笑っているが、今はそれどころではなかった。「はい。はじめまして」と笑顔を返してくれた京香は、驚くほどおしとやかな人だったのである。体に細かな震えがほとばしったほどだ。
「お話は源さんから伺っております。私も、今日という日をとても楽しみにしておりました。私のことはどうぞ、京香とお呼びください。私も宰くんとお呼びしてよろしいでしょうか?」
「はひっ! はいぃぃっ!」
「では、そのように呼ばせていただきますね。宰くん」
ここ一番のまぶしい笑顔を見せてくれる。なんてことだ、廊下の暗さなど一瞬にして浄化されてしまいそうだ。この笑顔はとんでもなく反則じゃないかと、宰はドキドキしてしまった。
「ところで京香。今日の晩飯はどうなっている?」
荷物を下ろした源次郎が玄関の戸を閉めつつ、京香に尋ねる。
「はい。もうすぐ準備が整うところです。あと少しだけお待ちくださいな」
「よいよい、楽しみになってきたぞぉ。フフーンっ、今日の晩飯はなんであろうなぁー」
草履を脱ぎ、源次郎が宰を引っ張ってくる。突然だった上、靴を脱いでいなかったので思わずよろめいてしまい、宰は「ちょっと待ってっ」と悲鳴のような声を上げてしまった。
しかしそんな時、ふわりと不思議な匂いが漂ってきた。
鼻の奥に吸いこまれてフッと消えた匂いに心惹かれ、宰はそっと周囲を見回してしまった。
「ん? どうした、宰」
急に静かになった宰を見下ろして、源次郎が黒灰色の目を丸くさせた。
「……なんか、木の匂いがするなぁって思って」
「この造りでコンクリート臭は空しいだろうが」
「かもね。お屋敷の匂いって普通、木の匂いだもんね」
靴を脱いで床を踏むと、ギシと心地よい音が耳に響いた。心に溶けていきそうな穏やかさだ。
だが源次郎はそんな穏やかさをぶち壊すように宰の背中に回ると、いきなり声を弾けさせた。
「おまえの部屋を見せなければならなかったなぁ! ゆけゆけ、宰! 上だぞ、上、上っ!」
「ちょっ! わかった! わかったから、背中を押さないでーーっ!」
せっかくの余韻が吹き飛んでしまう。すぐ右手にあった階段を怒涛の勢いで駆け上がらされ、二階の廊下に放り出される。転びかけた宰の脇をすり抜けて源次郎が左手のふすまを開け放ち、壁のスイッチを叩くように押し、また肩を引っ掴んできて、勢いよく部屋の中に引きずりこむ。
「ここだぞ、宰ぁ! ここがおまえの部屋となるのだ!」
「もうわかったってばっ。うわ、転ぶっ」
源次郎の前に投げ出されてつんのめりかけたが、辛うじてこらえる。なんて心臓に悪い。
宰は冷や汗をかきながら顔を上げ、だがまたしても心臓に悪い思いをすることとなった。
「広っ!」
「そうか? これでも小さい部屋なのだぞ。他の部屋など、これの二倍も三倍もある」
「はあっ!?」
宰に宛てがわれた部屋は、以前住んでいたアパートのものより五倍も六倍も広いところだった。隅に置いてある段ボール箱五つがひどくちっぽけに見えるほどで、新品の畳が奥までずらりと並んでいる。宰一人の部屋にしてはあまりにも大きすぎて、あまりにも贅沢すぎる部屋である。だが源次郎が言うには、信じられないことに「これでも小さい部屋」とのことだった。
この屋敷は一体どれだけ大きいのだろう。人の想像を余裕でぶっ飛ばす屋敷の迫力にはもはやついていけない。どこで緊張を抜けばいいかわからない宰はぎこちないため息をつくしかなく、部屋を隅々まで見回し、耳の奥で首の骨を鈍く軋ませながら、宰は源次郎を振り返った。
「でかすぎ……。てかこの屋敷、ホントに」
「だからヤバイ人間などいないっつってるだろーが、疑り深いな。――それよりも見よ、宰! こっちには押入れ! 開ければ布団! 南と西には立派な出窓だ! プラスっ、京香の手作りカーテン付き! おまえの勉強机に、おまえの段ボール箱! 白い壁! 和紙のふすま! 漆塗りの廊下! 障子付きの窓! 便所だってあるぞ! 顔だって洗えるんだ!」
「最後のは全力でツッコみたいよ……」
洗面台があると言ってほしい。
部屋中を指差して忙しく歩き回り、ついには廊下にまで飛び出した源次郎の落ち着きのなさにげんなりとする。そんな宰に構うことなく源次郎は押入れの前に戻り、ふすまを開け放つ。
「そして! 京香にはおまえの寝巻きを用意してもらったのだ! 既に洗濯も済ませてある! ――どうよ、この山吹色! 俺の濃紺とは補色の関係にあるのだぞ! すごいだろう!」
「濃紺じゃなくて青紫色だったはずだよ。確か、山吹色の補色って」
「いちいちうるせーなっ。俺の中では大して変わらんのだ! 細かいことは気にするな!」
「はあ……気にしません」
なんて人だろう。源次郎の傍若無人な持論に呆れ返る。しかし、そんな彼が手にしたものに興味を惹かれて、宰はなんとはなしに、和服かぁ、と呟いた。
本当に手作りかと思うほどの出来だった。シンプルなデザインで、店頭に並んでいても不思議ではないほどのものである。何着も作ってくれた上に、少し濃い色の羽織まで用意されている。これもきっと、京香が作ってくれたものに違いない。
源次郎から和服を渡された宰は、指先に伝わる柔らかな感触に情けないほど頬を緩めた。後で京香さんにお礼を言おう。彼女の真心が伝わるプレゼントに心が温まる。
「全部、山吹色なんだね」
はにかむ宰に、源次郎は腰に手を当てると鼻を高くさせる。
「フフン! それには俺と京香のメッセージがこめられているのだ!」
「メッセージ?」
「自分で調べとけっ。ちなみに大判小判がザックザクって意味じゃないからな。ふはははは!」
「はあ……」
人がせっかく感動している時に……。この人は本当に大丈夫なのかと心が萎えてしまった。
「ごはんができましたよー」
その時、階下から京香の呼ぶ声が聞こえてきた。これに素早く反応したのは源次郎である。
「おおっ! やっとか!」
目を輝かせ、和服を回収して押入れに片付ける。そしてまた、ガシと宰の肩を掴んでくる。
「へっ!? ちょっ――ひええええっ!」
案の定、源次郎にものすごい勢いで引っ張られた宰は悲鳴を上げながら階段を駆け下りた。その勢いのままに茶の間に飛びこまされる。そんな茶の間では、京香がプレートの上で肉と野菜を焼いていた。なるほど、今日の夕御飯は焼き肉だったようだ。半ば予想していたことだったが、肉の焼けるジュージュー音に反応した源次郎が、「ふおおおっ!」と変な奇声を上げた。
「今日は宰くんの歓迎会ですから、久々に焼き肉にしてみました」
「なんとぉ!」
「今日のために取り寄せておいたジンギスカンもあります。ビールも冷やしてありますよ」
「京香ぁあああ! でぇぇかしたぁあああ! 最っ高ではないかぁああああ!」
空の彼方にぶっ飛んでいきそうなほどの歓喜の声を上げて、源次郎が宰を引きずっていく。そのまま自分の座布団にドカリと座ったので、宰は危うくテーブルの縁に頭をぶつけかけた。あと数センチという本当にギリギリのところで、悲鳴が飛び出したのは当然だった。
「げっ! 源じいっ、放して!」
「おお、すまんすまん。おまえの席はこっちだったな。ほれ」
「うわぁっ!?」
軽々と持ち上げられ、源次郎の右側に座らされる。宰は盛大に顔をしかめて正座になった。
……僕はお子様か。老人の源次郎に持ち上げられるなんて、とてつもなく複雑だ。
これでもだいぶ成長したのにと思いながら、しかし何も言えないままジッと沈黙を貫いた。
「さあ、お肉と野菜が焼けました。源さん、宰くん。いただきましょうか」
「肉だぞ、宰ぁあああ! 今宵は、食って食って食いまくるぞぉおおおお!」
「……ちょっと静かにしてください」
源次郎のテンションについていけない宰の声は平坦なものになる。子供みたいな源次郎を横目で見ながら自分も箸を持ち、彼らと一緒に両手を合わせて「いただきます」と声を発した。
――源次郎がすっかりできあがったのは、それから一時間も経たないうちのことである。
変に興奮している源次郎のことだから、そうなることはほとんど目に見えていたのだが、実際にそうなってしまうとやはり疲れてしまうものだった。
缶ビールをあおって景気よく喉を鳴らし、「くあああっ!」と真っ赤な顔で叫び出す。プレートの肉をがっさり取ってタレにつけ、一気にご飯で流しこむ。再びビールを飲んで奇声を上げる。そんなことを、非常に迷惑なことに何回も何回も繰り返していた。
「最っ高だァあああ! 肉と酒の相性は誠に合うっ。京香の手作り味噌ダレはよい味を出しているし、肉は想像以上にうまくてたまらんっ。くうううっ、生きててよかったァああああ!」
「……よかったね」
もそもそとご飯を食べて、隅っこで焼かれているジンギスカンを一枚取る。ひっそりと口の中を動かしていると、酔っ払いの源次郎がだらしなく笑って、宰にちょっかいをかけてくる。
「なんだァ、宰ァァ。そのシケたような目つきはァあああ?」
「別に。てか、酒臭い。あとさ、一体何本飲むつもりなの。明らかに飲みすぎだよ。でろんでろんに酔っ払ってるし、ちょっとうるさいし、もういい加減やめたほうがいいと思うんだけど」
空き缶は既にテーブルの一割を占拠している。邪魔だし、ビール独特のきついにおいがするし、源次郎の酔っ払い方が残念すぎることもあって、未成年の宰はただただ呆れるばかりになる。だが、普段は持っている理性さえ吹き飛ばしてしまうのが酒の魔力というものである。
「ンな固いこと言うなよォ、宰ァァ。今日はおまえの歓迎パーティーなんだぜェええ? もっとさァァ、パアーーっと盛り上がろうじゃねえかァァ、なァァ?」
「一人でやっててよ。静かにね」
「ぬかせィ、小僧~」
そしてポイと空き缶を投げつけてくる。鼻に当たってカチンときた。
「源じい!」
「京香ァ。ビールがなくなったぞォおおお。持ってきてくれィ」
「はーい」
少し前に席を立って台所で何かやっていた京香が作業の手を止めて振り返り、スリッパを鳴らして冷蔵庫に向かう。両手にたくさんのビールを抱えて、小走りで茶の間に入ってきた。
「京香さん。これ以上、源じいに飲ませるのはやめたほうが」
「大丈夫だァ、宰ァァ。俺は、まァだまだいけるぜィ」
「酔っ払いほどそう言うんだ。京香さん、もうビールは」
「大丈夫です。まだまだビールはありますよ」
「いえ。そういうことじゃなくてですね」
おかしな答えが返ってきてしまい、ちょっと焦る。とはいえ、控えめに笑っている京香も一応わかってはいるのだろう。受け取った缶ビールをプシュッと開けて、源次郎がぐいと中身をあおる。もはや源次郎は止まらないし、止められない。
「そういえば、京香ァ。アレはできたかァ?」
源次郎が思い出したように京香に尋ねる。
「はい。ちょうど出来上がったところです。お皿に盛りつけますから少しお待ちください」
「おう!」
「アレ?」
京香の後ろ姿を目で追ってから源次郎を見る。源次郎は自慢でも言うように胸を張った。
「フフン! めでたき料理だ! おまえも食え!」
「はあ……」
すぐに京香が戻ってくる。京香が持ってきたのはわりと小さめの皿である。
源次郎との間にそれは置かれて、「アレ」の正体を知った宰は瞬く間に半眼になった。
源次郎のいう「アレ」とは、牛肉とコンニャクの炒め物のことだったのだ。
「これが、めでたき料理……」
コンニャクを見つめながらぼそりと呟いた。
「宰をビビらせた、実にめでたきコンニャクだァっ。おまえのために作らせたのだぞォっ」
「……源じい。あの時、ものすごーく心臓に悪かったんだけど」
拝殿で驚かされた時の気持ちを引っ張り出して呟けば、源次郎が嬉しそうに鼻を鳴らす。
「軟弱者がァ。たかがコンニャクごときでなにをビビってやがんだァ? コンニャクがどうのこうのと言っている暇があるんなら、まずは京香の料理を食ってからにせいィ。最高だぞォォ」
「あのね、僕はそういうことを言いたいんじゃなくて……」
「なんだァ、宰ァ。まさか、京香の料理が気にいらんとでも言うつもりかァ? ンなふざけたことをぬかすのならば、もうよい。――この俺が全部食うまでだァああああっ!」
そうして一人でめでたき料理を食べ始める。宰は何も言う気になれなくてため息をついた。
「結局自分が食べたいだけじゃないか。もういいよ。僕は焼き肉食べてるよ」
付き合ってられないと、手前にあった焼き肉に箸を伸ばす。
「あっ、馬鹿者! それは俺の肉だ!」
「ちょっと!」
だがいきなり箸で妨害され、思わず声が飛び出してしまった。
「なにするんだよ、源じいっ」
「この肉は俺が狙っていたのだ! おまえに食われるために焼かれていたのではなァああいっ!」
「はああっ!? 意味わかんないよっ。てか、放してよ!」
「誰が放すか、俺の肉ゥううう!」
「そうじゃなくて、箸が抜けないんだ!」
「そうやって、俺から横取りするつもりなのだろう! おまえの企みなどお見通しだ!」
「へええっ!? なんでそういうことになるわけ!?」
お子様すぎるにも程がある。威厳もクソもないわがままぶりに本気で驚愕するしかない。
ぐぬぬ、とプレートの横で睨み合う。
箸を抜きたいだけなのに、なぜこんなことをしなければならないのか意味不明である。
ふと、のんびりとサラダを食べていた京香が「あら」と口の前に手を当てた。
「お隣のお肉が焦げそうです」
「なんだとっ!?」
「やっと解放してくれた……」
「ああああっ! 俺の肉がァああああっ!」
何だったんだと思いながらついでに肉ももらったら、源次郎が絶望に塗れた悲鳴を上げた。
「このお肉だって焦げてるよ。源じいが放してくれなかったから、すっかり黒くなって――」
しかし、源次郎には聞こえていなかった。
「おのれェえええ! 俺の厚意を無碍にした挙げ句、俺の肉まで奪うとはァあああ! もう許さんっ! 京香っ!」
「はい」
人の話を聞かずにやかましい声を上げた源次郎に、京香がいったん箸を止める。
「宰のデザートはなしでいい! つか、何も食わせんでいい! 俺が全部食ってやる!」
「はあっ!?」
「ですが、もう作ってしまいました」
あらあらと目を丸くさせる京香に、源次郎がキレたように叫び出す。
「ならば、そいつも俺がもらうっ! 宰に食わせるなんぞ、もったいないっ!」
「そこまで言う!?」
「言うわ、馬鹿者! よくも人の肉を取りおってェっ。俺に対する冒涜だっ、挑戦だァァっ。食べ物の恨みがいかに恐ろしいものか、骨の髄まで貴様にわからせてくれるわァあああっ!」
「なっ……、はあ……」
もう疲れた。テーブルに伏せたら顔が焼けてしまうとはいえ、本当に倒れたくなってしまった。ご飯を食べようにも味がしない気がしてきた宰は、茶碗を持つ手を下げてしまった。
初めて出会った時から抱き続けていた「刀条源次郎」像は完膚なきまでに叩き壊されて、今や地面の奥深くにまで沈んでしまっていた。きっと誰にも掘り返せないだろう。粉々になりすぎて、砂粒どころか粒子である。……呆れではない。これはもはや「幻滅」だった。
せっかく梅桃町に来たのに、これまでの高揚が嘘みたいに萎えてしまう。そして、これまで一度として思わなかったようなことが、この瞬間、心の片隅にふっと浮かんできてしまった。
……本当にここに来てよかったのだろうか。本当にここで始めることができるのだろうか。
……源次郎はこんな調子だ。あの時みたいな頼もしさなど、今は微塵にも感じられない。
……本当に、何も間違ってはいないのだろうか。
……彼についていきたいと思ったあの時の思いは、本当に間違ってはいないのだろうか。
「っと、ちょいと便所に行ってくる」
源次郎が箸を置いて席を立った。そのセリフに、宰は思いきり顔をしかめた。
「言わなくていいよ、そういうことは。食事中なのに」
「食って出す。それのどこか憚られるんだ?」
「憚られるって……。はあ……、もう好きにしてください」
宰の苦言に取り合わず、源次郎はさっさと茶の間を出て行ってしまう。足音の遠ざかる音が伝わってきて、宰は重いため息をついてしまった。
今ので最後の力が抜けそうだ。本当にプレートに倒れて焼き肉になってしまいそうである。
「本当に嬉しくてたまらないのですよ」
力なく茶碗を置いてしまった宰に、京香が反対側の席から話しかけてきた。
・1/9、2/9を統合しました(15/2/2/月)