第二章:獣のニオイ 7/15
「でも、珍しいね。京香さんとだなんて。昨日も喧嘩しているような感じじゃなかったし」
ようやく気が済んだのだろう。凜が宰の頬から手を離す。こてんと首をかしげてきた。
「まあ、ね……」
そう返す宰の声は、頬を離されて喋りやすくなったはずなのになぜだか重々しかった。
「別に……喧嘩、ってわけでもないんだよね」
「喧嘩じゃないの? そういえば源さん、昨日、食事中にすごくお元気そうに喋ってたけど」
「……うん」
「あれって、宰くんと京香さんのこと気遣ってたからなの? 私も一緒にいたし」
「……そうだと思う。……源じい、ここ最近ずっと……ずっと、あんな感じ、だからさ……」
宰は笑ってみせた。だが、声がかすれた。頬を解放されたのに顔の熱は消えない。それどころか、なぜかさらに熱くなってくる。そんな中、頭の中に浮かんできたのは絶望に顔を覆った京香の姿。ごめんなさいと叫ぶ声が宰の胸を強烈に打ち抜いてきた時――目頭が熱くなった。
「宰くん……」
凜が切なげに手を握る。震えながら唇を噛みしめた宰は、勝手に涙を流していた。
「――最っ低だよ、僕は!」
京香を泣かせてしまった自分への憤り、悔しさ。そして、悲しさ。絡まった毛糸のようにグチャグチャになったそれは重く蓋をしていた宰の心を突き破り、激しく外に噴き出してきた。
「京香さんには、誰にもいえない秘密があったんだっ。僕は最近そのことを知った。けど、本当にショックでどうすればいいかわからなくて……京香さんを不安にさせてしまったんだっ」
ポタポタと、止まることを知らない心の雨。一粒零れるたびに、胸の奥が潰れ、収縮する。
「頭ではわかってたんだっ。このままじゃダメだって。けど、わからなかったっ。気持ち悪いとか怖いとか、そういうのじゃなくて……どう話しかけたらいいのか、わからなくて……っ」
うん……、と凜が静かに頷く。
「だから違うんだ……っ。京香さんが嫌だったから、ご飯を食べなかったわけじゃ……いらないって、いったわけじゃないんだ。今までも残してたけど……それは京香さんが悪いわけじゃなくて……僕がただ、わからなくて……どうすればいいか、ホントにわからなくて……っ。今日はただ、具合が悪くて……でも僕は、今まで京香さんにしてきたこと……忘れてて……っ」
――そのせいで誤解させてしまったのだ。死体の料理を食べたくないというひどい誤解を。
自分が情けない。最低最悪だ。破裂寸前の風船のように、自分への怒りが膨らんでいく。
宰は乱暴に前髪を掴む。爪をたてて、苦しくて痛い感情を暴力的に自分の中に抑えこむ。
……今も泣いていたらどうしよう。想像して胸が痛い。すごく怖くて、すごく悲しい……。
「宰くん」
凜の声がする。ひび割れて壊れそうになっている宰の心を真綿のように包みこむ。
「なら、京香さんにごめんなさいっていおう?」
「え……?」
思いがけない言葉に顔を上げると、慈愛のこもった瞳が宰を出迎えた。鵺事件の夜に宰を許してくれた「許しの温もり」。あの時の温かさが、流れる水のように凜の手から伝わってくる。
「宰くんは後悔してる。京香さんを悲しませたって、こんなに泣いちゃうくらい後悔してる。……なら、京香さんにそのことを伝えよう? 悲しませてごめんなさいって、そういおう?」
「でも……っ。僕は本当に最低なことをしたんだっ。そんなんで済むはずが――」
「違うよ、宰くん。それじゃ済まないとか許されないとか、だから『謝らない』のは違うと思う。謝るって、相手を思ってやることだと思うんだ。きっと、自己満足でやるものじゃない」
自己満足でやるものじゃない――宰は息をのむ。そんな宰に頬を緩め、凜は小さく頷いた。
「難しいことは考えないで。宰くんが今どんなに後悔していて、悲しい思いをしてるのか。それを伝えるだけで十分だよ。傷つけられた見返りなんていらない。私なら、前みたいに早く笑い合いたいって思うかな。ずっとすれ違ったままなんて寂しいし、イヤだもん。だから、ね」
大丈夫だよ、宰くん。……いつか見た笑顔とともに、凜が穏やかに語ってくれた時である。
(――あ――)
宰は急に目が覚めたように思い知る。なぜ、血の杭の鬼に追いかけられる夢を見たのかを。
(同じ、なんだ)
あの時、鵺事件の夜、宰は源次郎に「鼻」や「ニオイ」のことを告白した。宰は強い恐怖を感じた。源次郎は宰を気持ち悪く思うのではないか。足元に大穴ができて、すぐにでも吸いこまれてしまうのではないか。そんなおぼろげな恐怖のせいで、息をすることすら苦しかった。
宰は本当に怖かった。だから、円城寺にもとうとう打ち明けることができなかった。
でも、源次郎はあの時、宰に何といってくれただろう。また全てを失うかもしれない。そんな恐怖から告白したことを後悔し始めた宰に、源次郎はあの時、何といってくれただろうか。
――話してくれてありがとよ――
真っ赤に燃えそうなほど、熱くてたまらなかった涙なのに。
ふわりと温かくなった。
思い出すのは、宰の頭を撫でてくれた源次郎の手の温もり。
(そうか……。そういうことだったんだ……っ)
どうして宰は気づかなかったのだろう。鬼まがいである真実を告白した時、京香はとても怖かったはずだ。今までの関係が壊れてしまうかもしれない。自分を気持ち悪いと思うかもしれない。宰が鼻の異常な力の告白を恐れたように、京香も恐怖を抱いたはずだった。でも、それでも京香は話してくれた。とても勇気のいることを、必死に微笑みを浮かべて話してくれた。
……宰は、そんな京香の気持ちを誰よりも理解できたはずなのに。
京香を避けた。料理を残した。最後には彼女を泣かせてしまった。
「――今すぐ京香さんに謝ってくる」
宰は腕で涙を拭った。こんなところでみっともなく泣いている場合ではない。
立ち上がった。すぐにでも京香に伝えなければならないことが、宰にはある。
足元に力なく落としていたカバンを引っ掴む。いきなり動いたせいで頭がグラリと揺れたものの、心の思いに突き動かされるようにドアに向かう。そして、開ける前に凜を振り返った。
「ありがとう、沖田さん。大事なことを教えてくれて」
しゃがんでいた凜が立ち上がる。顔をほころばせて、うん、と柔らかく頷いた。
「今の気持ちを京香さんに伝えてくる。全部伝えてくる」
「うん。きっと大丈夫だよ。京香さん、宰くんのこと待ってるから」
凜はどんなときでも宰の心を支えてくれる。鵺事件の夜に許しの温もりをくれた時も、戦えないことに絶望した一週間前の夜も。そして、今も。宰は彼女の言葉を心の中に刻みこんだ。
ありがとう、沖田さん――。にじんだ涙をもう一度拭い、宰は目の前のドアを開け放った。
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次の投稿は来週火曜の22:00すぎを予定しています。
しばらくスローペースが続きそうです……(汗)
次回もよろしくお願いします!