現在の声〈いまのこえ〉
文芸部誌用に入力したそのままを移してきたので1文ごとの改行はありません。読みにくい場合がございますがご了承ください。
青い空が好きだ。
こうして一面に広がる空を余すところなく全て感じられるから、いつ危険が迫るともしれないこの生活でも定住よりは良いと思える。一度だけ、定住民の町へ行ったことがあったが、自分よりも背の高い石造りに囲まれて、まるで見上げることを忘れたようで。あれでは何かあればすぐに生きていくのが辛くなるのではないだろうか。遊牧の生活しか知らない自分にだって、あのような社会に誰もが必要とされるわけではないことぐらいわかるのに。
名を呼ばれたのが聞こえた。若くて力のある自分は、まだまだ求められている。それさえ分かれば今はいい。
例えば言葉は要るから生まれた。今の人間に想像もつかない新しい単語やフレーズは、まだ必要ないから生まれてこない。言語自体にも言えるけれど、使われなければ消えるし廃れていく。それなら、人間はどうなるんだろう。いなくても構わないと思われたら────。
ヒツジをつれて水場へ向かう。いくら頭数を抑えているからといって、一人で行かせるのは疑問だといつも態度で示しているつもりなのだが、子どものわがままだと思われて取り合ってもらえていない。今ではもはや日課だ。一頭一頭に目を光らせながら誘導していつもの給水地にたどり着く。日が落ちかけている。夕陽は美しいが、そのすぐ後に押し寄せる闇のことを考えるとゆっくりしてはいられない。早く戻ろう。そう思うのに、ヒツジは動物で、人間の事情など知ったことではない。気まぐれ、というのとは違うが、そう素直に水を飲んでくれるならば自分は一人でヒツジとともに駆り出されたりしていないし、何度もそれに対しての不満をほのめかしたりしない。まあ、そうして腑に落ちない様子を満々にしているから一層子どもだと判断されているのかもしれないけれど。
それにしても焦れったい。いつにも増してヒツジたちが水辺に近づこうとしない。流石に不自然だった。仕方なくヒツジたちの先に立って水へ導くようにしてみたが、それでも何かを警戒するように遠巻きにこちらを見ているだけ。この先に何かあるということか。飼い慣らされていても野生の勘は侮れない。人間にとっても天敵であるものでなければいいが……。慎重に周りを見回るとすぐ、小さな影が目に留まった。
うずくまるように倒れている。もう死体なら楽なのに、などと考えながら警戒を解かずに近づくと、殺していたにも関わらず足音を聞きつけたのか小さく呻き声が届いた。足を止める。その場から観察していると、ゆっくりと上体を起こしたそれは人だった。
女の子だ。同時に微かに血のにおい。怪我をしている。のろのろとこちらを向いた顔に目を凝らすと、肌の色や瞳の色は仲間で見慣れたそれと大した変わりはないように見えた。ただし、その装束は全く異なっていて、見たことのない飾りがあしらわれていた。一目で味方ではないなと察する傍らでさて困ったと考えた。
知らぬふりをする方が良いのか、助けた方が良いのか。助けようとして彼女の仲間が来てしまった場合敵と誤解されかねないし、そうなればこちらは人間一人に加えて少数の臆病なヒツジのみ。痛い目に遭うのはごめんだ。そもそも言葉は通じるのだろうか。心の繋がっていない誰かと意思の疎通を行う時にこそ言語を共有することが必要なのに、と心底思った。
「大丈夫?」
こちらに怯えがあることが少しでも伝わらないように意識して声をかけた。怪我をしているから、たとえ多少下手に出ても優位に立てないことはなさそうだが念には念を。言ってしまってから後悔した。大丈夫かではなく何をしているとでも言うべきだった。見れば状況は何となく分かるが、真っ先にかけるのがそんな言葉では相手になめられる可能性がある。
口に出してしまったものは取り消せない。精一杯冷たい目で見下ろすと、少女と目があった。深い色をしている。そう思った瞬間に彼女の瞳はさっと閉じられ、顔が伏せられた。うつむいた状態で両手をしっかり地面についている。そしてそのまま動かなくなった。
ああ、前に聞いたことがある。これは服従の印。敵意や歯向かう意志のないことの証明。どの種族だったかもどこで聞いたかも忘れたが、こうした投降の仕方があると。
「言葉、わかる?」
つむじに向けてそう言ってみれば、わずかに頭が揺れた。縦だ。
「こちらにも傷つけるつもりはない」
そう告げながらゆっくりと腰を落として地に両手のひらをつけた。つまり彼女と同じポーズだ。
おそるおそるといった様子で顔を上げた少女は、こちらの姿を認めると目を見張り、強張っていた表情を少し和らげた。
「怪我、してるんだろ」
少女の首肯。迷いは一瞬だった。
「ここで傷洗って待ってろ。ヒツジ置いたら戻ってくるから」
────
待ってろと自ら言っておいてなんだが、まさか馬鹿正直に待っているとは。手当てしてやる気もあったし、いなくなっていたらそれはそれで多少ショックは受けていただろうけれど、逃げるとか、そうでなくてもどこかに身を隠すくらいの時間は余裕であっただろうに、少女は別れたその場と全く同じ位置に座り込んで待っていた。服や髪に濡れている部分があるから傷は洗ったのだろう。動けるなら逃げろと言いたい。
「傷」
見せろと促すと少女は腕を差し出した。
近くへ寄れば、彼女の体にはあちこち小さなすり傷が見受けられたが、腕が最も重傷だった。予想はしていたが獣に噛まれた傷。あるいは爪か。舐めておけば治ると言えばそれまでだが、洗ったとはいえ傷口をむき出しのままというのは衛生上良くない。質の悪い菌に入られれば助からないことも充分あり得る。
現在の居住地から離れてくるときに役立つかと思って持ってきた比較的清潔な布をこんなに早く使うことになるとは、運が良かったのか悪かったのか。一端を細く裂いて縛り、残りで傷口を覆う。
少々雑だが仕方ない。外れないよう固く結んでから手を離すと、少女は具合をみるように腕を動かした。すぐに顔をしかめる。当たり前だ。魔法を使ったんじゃあるまいし傷はそのまま、痛み止めなんて大層なものも当然ないのだからそりゃ痛いだろう。少しうめいた後、少女はまっすぐこちらを見て、一瞬視線をそらした後また目を合わせてきた。
「ありがとう」
初めて発された彼女の言葉は、少し変わった発音だったが確かにそう聞き取れた。
────
発言をきっかけに、水辺に座り込んだまま話していくと、彼女はかなり発音の訛りが強いことがわかった。基礎は自分達のものとなんら変わりない。どこかで昔分裂した同民族かもしれない。とはいえ、こちらが全く訛っていないという保証もないので、もしかするともっと基礎、根本の言語があるのかもしれないが。
「油断していたわ。まさかあんなとこにいるなんて」
そして、話すことでわかった二つ目のこととして、印象がかなり変化した。どうやら気が強く快闊な人物のようだった。
「それにしてもあなたってばほんとにお人好し。どこの誰かもわからないあたしを助けるなんて、無用心というかなんというか……いつかつけこまれても知らないわよ」
「助けたのにそういう風に言われる覚えはないよ。さっきまでのおとなしさはどこ行ったんだ」
口を開けば止め処なく溢れてくるかのような言葉の数々にあきれを隠せない。別に見返りだの多大なる感謝だのを期待して助けたわけではないけれど、恩人と言える程度のことはしたつもりなのだが。まさかあのありがとうの一言でちゃらとか。
「…………ありえる」
「ん? 何が?」
「いや、何でも」
水の中に足を突っ込んでばたばたさせていた足を引き抜いて、抱え込むように座り直す彼女。その瞳はすっかり日が落ちきって星が出始めた空へ向けられている。
「あなたは」
その体勢のまま紡ぎ出される言葉は、人に対して放ったくせに全然こちらへ届ける意志のないものだった。
「仲間のところへ戻らなくていいの……?」
「戻るよ、もちろん。でも君は?近くまで一緒に行くよ」
乗りかかった船。明るいうちでさえ襲われたこの子が、夜に一人で何事もなく帰れるとは思えない。この調子なら、もし彼女の仲間に彼女を傷つけた敵と間違えられてもかばってもらえるだろう。
だが、あっさり首を横に振られた。
「あたしはいいの。帰る場所があるなら早く帰りなさいよ」
含みを持たせた言い方に引っかかる。頭が良くなくてもそれくらいわかった。
「何だいそれ。どういう意味?」
宙へ上げていた彼女の視線が水面に降りる。横顔が儚げに揺らめいた気がした。
「あたしは…………あたし達は、見捨てられたって意味…………かな」
「え? ……あの、どういう」
「そうだ!」
ますますわからなくなった少女の言葉の意味を重ねて尋ねようとしたところで大きな声で遮られた。弾かれたように立ち上がったその姿は手負いを感じさせない。本当に怪我人か、この子。
「ね、あたしが送ってあげる」
「え?」
「大丈夫。あたし、一人でも帰れるし、泊めてもらえるならあなたのところで泊めてもらうから。だめ?」
「いや、それは流石に……。送ってもらうほど遠くないし」
遠回しに断っているのだが、果たして伝わっているのかどうか。何故か楽しそうに笑っていて不安を煽る。しかし、帰るならやはり一刻も早い方が良いのも事実。何も言わずに出てきたのだからそろそろ心配させるなり怒らせるなりしてしまっているだろうし。
諦めて方向指示のために少し先導しながら歩き出した。本当にこれでいいのか甚だ疑問だが、本人が良いと言うのだから好きにさせておいた。
「うちの集団はね、あまり大きくはなかったんだけど」
歩みを速めることも遅めることもせず独白のように話し始めた少女の声に耳を傾ける。
「だから諍いもなくて、ちゃんと長の言うことをよく聞いて、大家族みたいな感じだったの。長が全体のお父さんで、あたし達は子どもで。幸か不幸か、民族間の争いにも巻き込まれたことないんだ。あたし恵まれてるなあって時々思ってた。ま、実際恵まれてる時ってそういうの、わからないもんだけどね」
そう言って苦笑いのようなものをこぼす。どうしてこの子は、そんなに達観したような言い方をするんだろう。幸せは続かないと言うけれど、もしや彼女もそうだったのだろうか。
「色んな場所で色んな人が、動物が生きてて、それぞれに意志を持ってるんだもん。あたし達だけがまとまってたって、牙を剥く奴は外から来る。あたし達は人と戦うことも知らない羊ってとこかな……。要は、さっき言ったように見捨てられたってこと。世界にね」
「世界にって」
その口ぶりはまるで。
立ち止まって出来た一歩分を振り返って、少女は笑う。自嘲か、後悔か、満足か、郷愁か。そういえば彼女の名をまだ聞いていないとふと思った。
少女の後ろにほんのり灯りが見えた。自分の属す場所────まだ自分が必要とされている場所はもう近い。
「助けてもらったお礼はしたわ。ちょっと楽しかった。まるで『家族』といた時みたいで」
「ねえ、君の名前……」
「ありがとう」
最初より少し温かみのこもった、感謝を示すその言葉は、届いた瞬間弾け散った。……彼女と共に。普段意識の外にあるはずのごく短い目瞬きの後には彼女の姿はなく、彼女のいた方から自分の名が呼ばれるのが聞こえた。
自分が集団に必要とされていること、そして必要とされなくなることはいつも気にしていたけれど、集団が世界に不要だとされることには考えが及んだことすらなかった。あのとき彼女の名前を呼べていれば、彼女は消えなかったのだろうか。彼女を必要とする人になってあげられていれば。
仲間の元へ向かいながらぼんやりと、夜に出歩いて獣の類に襲われなかったのは初めてだと気づいた。いつでも敵だった暗い空を見上げる。満天の星が見下ろしてくる。
夜空も悪くない。
「こちらこそ」
僕も少し、楽しかった。