姉と私「杖」
家に帰ると、居間に杖が置いてあった。
木製で、長いT字型の、焦茶色の杖だ。
「姉さん」
「なあに」
姉を呼んだ。
「これ、何」
「杖よ」
そんなことは分かっている。
「なんで、あるの」
「買ったの」
なんでよ、使わないでしょ。
使うから、買ったの。
使うの? 姉さん、足、悪くしたの?
ううん、私が使うんじゃないの。
じゃあ、誰が使うの。
「お爺さんが」
お爺さん?
「だから、買ったの」
お爺さん、って、誰。
家には、お爺さんなんて呼べる老人はいないし、この辺りは若い人が多く住む場所だから、老人はあまり見かけない。
「この前、家に来たの」
「家に?」
「うん。とても礼儀正しい人だった」
「へえ」
「家にあげて、お話したの」
「えっ」
老人とはいえ、他人を易々と家にあげるなんて。
田舎で暮らしてた頃の感覚が、まだ残ってるのだろうか。
「いろいろ、お話してくださったのよ。私、感心してばっかりで、子供みたいだったなあ」
思い出したのか、少し楽しそうに姉は言う。
「帰る時にね、またいらしてください、って言ったら、また何日か後にも来てくださったのよ」
「そんなに、今まで何回も来たの」
「何回もじゃないわよ。昨日も入れて、まだ三度目」
「昨日も?」
だって、昨日は私、ずっと家にいたじゃない。
あら、そう?
人が来た様子なんて、なかったけど。
じゃあ、あっちゃん、寝てたのよ、きっと。
そうかなあ。
「でもね、昨日はなんだか、いつもと様子が違ってて」
「どんなふうに」
「なにか、探してるみたいだった」
「なにか、って、何」
「それは私にも分からないけど。でも、少し足を引きずってて」
ふうん。
「どうしたんですか、って聞いても、うちをずっと、うろうろうろうろしてた」
「足、引きずりながら?」
「うん」
見知らぬ老人が、足を引きずりながら、家をうろうろうろうろ、してた。
少し考えて、気味が悪いなあと思った。
けれど、姉がその非日常的な出来事を、さも日常であるかのように話し続けるものだから、あまり気味が悪く聞こえなかった。
「探しながら、ちょっと遠くまで行かないと、見つからないかな、ってぼやいてて」
「へえ」
「足を引きずってるし、杖をお使いしますか、って聞いたの」
「ああ」
「買っておきますよ、って言ったら、そしたら明日またお伺いします、って、帰っていったわ」
ふうん。
「嬉しそうにしてたから、買ってあげないと、と思って、今日買ってきたの」
だから、杖があるのね。
そういうこと。
不思議なご老人ね。
ええ、そろそろ来る頃だと思うんだけど。
その時。
部屋が突然、眩しくなった。
目を開けていられない程の眩しさで、私は思わず目を覆った。
眩しい、何なの。
悲鳴をあげた。けれど姉は、あら、いらしたわ、と呑気に言うだけだった。
姉さん、眩しいわ、何なの、これ。
叫ぶように、姉に訴えた。
「いらっしゃい。よくおいでなさいましたね」
それでも普通に喋る姉を、なんだかおかしいと感じた。
おかしいと感じた頃、部屋の眩しさも消えていた。
そろりと目を開けると、姉の隣に老人が一人、立っていた。
優しそうな、老人だった。
「杖、買っておきましたよ」
お気に召すかしら、と言いながら、壁に立て掛けていた杖を持ってきた。
姉が手にしている杖を見て、老人が笑顔になったように見えた。
「あら、そうなの?」
ふふふ、と姉は少し上品に笑う。
あらまあ、随分と遠くまで行ってしまうのね。
いえ、こちらこそ、何のお構いも出来なくて。
やだわあ、そんなこと、するものですかあ。
私には、ただ立っている老人に向かって、姉が一方的に話しかけているようにしか見えない。
けれど、姉は確かに老人と会話をしているようであった。
なんだか、ひどく奇妙で、奇怪な光景だと思った。
「じゃあ、お元気でね」
そう言って姉は、杖を老人に渡した。
老人が、手を伸ばす。手が、杖に触れる。
すると再び、部屋が眩しくなった。
私はまた目を覆う。姉は、さようならあ、と言っている。
今度は、すぐに眩しさが収まった。また目を開けると、老人はいなくなっていた。
「行っちゃった」
子供みたいに、姉がこぼした。
今の、いったい、何なの?
何って、お爺さん。
そうじゃないわよ。なんであんなに眩しくなったの。
それが、不思議なのよねえ。でも、いいじゃない。杖、お渡し出来たんだから。
ちっともよくないわよ。お化けか何かじゃないの。
まあ、余所様をお化け呼ばわりだなんて。あっちゃん、お行儀悪いのね。
…もういいわよ。
今しがた起きた出来事を、噛み砕くことも、反芻することもできなかった。
あんな不可思議なことが起きたのに、平然といられるなんて。
だけど、確かに今ここで起こってしまったし、眩しさを感じてしまっている。
無駄だった。
否定しても、拒絶しても、眩しさは確かにあった。
受け入れられないものを、無理にでも飲み込まなければならないのだと思った。
なんだか、ひどく不条理で、理不尽で、そして少しだけ。
ほんの少しだけ、寂しいと思った。