振り上げる蹄
あ、悪い悪いと頭を掻いていると砂利道をざっざっと走る音が大きくなってくる。
「丘野君」
はあはあと肩で息をしながら安部 由香里が目の前に来た。目が腫れているのはきっとあれから泣いていたのかもしれない。
それを見て、また嫌な気分になる。自分が呪われたのが怖くて泣いていたのか。決して今までの自分を後悔しているわけじゃないんだろうと思うと目の前で泣かれていることすら寒々しく感じた。
「俺サマは姿を隠してる。妖はおまえの気配を追ってここに来るはずだ」
「え? 一人なんて嫌よ。助けてくれるんじゃないの?」
必死の形相の安部 由香里の頬に鮮やかすぎる猫又の平手が決まった。ああ、平手ってこんな音がするんだというくらい小気味のいい音が響く。
「いたああぃ」
そりゃあ痛いだろう。良い音していたからな。猫又の暴力はまったく相手を選ばないらしい。そういうところは清いほど平等だ。きっと子どもだって平気で張り飛ばすんだろう。
「助かりたくないんだったらそれでもいい。本気で助かりたいなら我慢の一つも見せんかいっ」
「わ、分かりましたっ」
仁王立ちした猫又が手を振りあげたのを見て慌てて安部 由香里は後ろに飛んだ。
「ちっ、物分りがいいな」
それを見て、面白くなさそうに猫又が振りあげていた手を下ろした。
おいおい、もう一発張るつもりまんまんだったのかよ……。やっぱり猫又は暴力妖怪だ。猫又は地面に何かを棒で描きこむとそこに安部 由香里を入れた。
「人は臭いからな。じっとしてろよ、少しは隠れていられる。声を上げるな、術が解ける」
「え? 俺もそこに入れてくれるんじゃないの?」
「おまえはやつを釣る餌だ。そこにいろ」
「えええ~っ」
今から妖が来るんじゃないのか? そんなとこに俺を置いとくのかよ。言っとくが何もできないぞ。怖いことなんかごめんなんだ。
だからお願い、そこに入れて。必死のお願い顔も猫又には通じない。そもそも猫又って俺のことどう思ってんだ?
猫又はペットじゃない……じゃ、なんだと聞かれても答えに困る。口は悪いし、横暴だし、金かかるし……。
わがままばっかし言って俺のベッドを我が物顔で使ってる。
でも、学校から帰って来てじゃれつかれるとなんだかほっとする。その日あったことの愚痴を最初の三分くらいは……聞いてくれる優しい? ところもある。三分以上になると「やかましいっ」との声と共に猫パンチされるが。
考えてみるに結構猫又が好きなんだと思う。だから少ないお小遣いの中から猫のおやつ買っちゃうんだし。
だけど猫又はどうなのか? 俺のこと『都合の良い男』なんて思っているのかも。
おい、待て、待て。
不倫相手に恨みごと言ってる女みたいな自分に気づいて頭を振った。危ない、危ない。早く彼女でも作って妖怪相手に友情を求めるなんて気を起さないようにしなきゃ。
どっぷり自分の世界に浸っていた俺は目の前に誰かがいるのにいきなり気づく。
「あんた、由香里ちゃんとどういう関係?」
彼氏が恋人の浮気相手を詰問するような台詞に驚く。目の前の物体……もしかしてこれが安部 由香里の言っていたイケメンなのか?
「……うっそ」
目の前にいるのは相撲取りかと思うようなデブの猪だった。直立してる猪。イケメンどころか、人型ですら無い。
どんな趣味なんだよ、安部 由香里。マニアックすぎだ。
美形妖怪にうっかり惚れこんじゃったっていうから、どんなに妖しい魅力満載の男前だと思ったら、二足歩行するでかい豚、いや猪って……。
こんなんが好みなら『どういう関係』も何もあるわけない。人間界で恋愛なんて安部 由香里はおそらく永久に無理だ。
「えっとさ、なんで今回は安部 由香里の髪を使ったわけ?」
俺の問いに豚……いや猪は「おまえ、林ってやつが頼んできた相手か」と俺のジーパンの尻ポケットにいきなり手を突っ込んできた。
「うわわわっ」
驚く俺の目の前に例の包みが現れた。あれ、それは安部 由香里に返したはずなのに。
だから――ここに来た? 安部 由香里の髪の毛に導かれてここに。そういうことか。だから餌?
「俺以外の男と仲良くするなんて俺は絶対許さない」
豚は……いや猪は拳ならぬ蹄を振りあげた。
はあ?
猪妖怪が言った意味が今一つ分からない。何言ってるんだ、こいつ?
「おまえ、安部 由香里に危害を加えるつもり……なんだよな」
「違う、おしおきしてやるんだっ」
おしおき? って何? 普通の生活の中で幼いこども以外で『おしおき』なる言葉が出てくることなどまずない。
エロ関係なら……いや、これは無し。
「えっとどういうこと?」
「由香里は俺に頼って俺にメロメロでいればいいんだ。他の男と馴れ馴れしくするなんて許さない」
一瞬、ここがどこだか分からなくなる。可愛い彼女が他の男と仲良く話してるんで妬けてるんだと愚痴られているのか?