ゼロの子
翌朝、老婆に呼ばれた。
老婆の名前をカレが知ったのは、昨夜のことだ。薪割りの男——セッポが教えてくれた。「ばあさんの名前はロヴィアタルだ。みんな『ばあさん』としか呼ばないがね。元は凄い歌い手だったらしい。詳しいことは知らんが」
ロヴィアタル。聞いたことのない名前だ。
ロヴィアタルの家は廃村の中で一番しっかりした造りだった。壁には乾燥した薬草の束が所狭しと吊るされ、棚には瓶や壺が並んでいる。どの瓶にも手書きの札がついていた。薬草の名前と効能が記されているらしい。竈にはいつも火が入っていて、何かが煮えている匂いがする。薬草を煎じているのか、粥を温めているのか。
「おはよう、ゼロの子」
ロヴィアタルが竈の前から振り返った。皺だらけの顔に、微かな笑みがある。
「……おはようございます」
「朝飯は食ったかい」
「はい。セッポさんが粥を分けてくれました」
「そうかい。じゃあ、一つ訊くよ」
老婆がカレの前に座った。節くれ立った手で杖を膝に置き、薄い青灰色の目でカレを真っ直ぐに見た。視力が弱いのか少し目を細めているが、その奥にある眼光は鋭かった。
「お前、歌えるのかい」
カレの表情が強張った。
「歌えません。才能ゼロだから」
「才能があるかないかは訊いてない」
ロヴィアタルの声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。老人の声にしては芯が強い。
「歌えるか、と訊いている。お前の口から、歌が出るかどうかだ」
カレは黙った。歌えるか。定型歌は歌えない。何度やっても言葉が変わってしまう。六回の測定が証明している。だが——自分の言葉で歌うことなら。湖畔で、街道で、枯れ野で——やめられなかった。死にかけても歌った。歌わずにいられなかった。
「……歌は出ます。でも、定型歌じゃない。間違った歌しか」
「間違った歌ね」
ロヴィアタルが眉を上げた。
「歌ってみな」
「ここでですか」
「ここでだよ。外は寒い。竈の前で十分さ」
カレは息を吸った。
何を歌えばいいかわからなかった。指定された定型歌はない。自由に歌えと言われたことがない。ルーノラでは常に「この歌を歌え」「この旋律を再現しろ」だった。
だから——いつものように、自分の言葉を出した。
朝のことを歌った。目が覚めたこと。天井の梁が見えたこと。窓から差す光のこと。薬草の匂いのこと。粥の温かさのこと。特別なことは何もない。ただ、今ここにあるものを言葉にしただけだった。
声は小さく、旋律は素朴だった。ルーノラで教わる歌とは似ても似つかない。韻も規則的でなく、音程も不安定だった。定型歌の試験なら、一小節目で失格だ。
だがカレが歌うと——部屋の空気が微かに揺れた。
竈の火が静かに揺らいだ。風は吹いていない。窓は閉まっている。それなのに炎が、カレの歌の抑揚に合わせるように明滅した。壁に吊るされた薬草の束が、微かにさわさわと揺れた。窓から差す光が一瞬明るくなり——歌が途切れると、元に戻った。
歌い終えた。
ロヴィアタルの目が見開かれていた。
ほんの一瞬。すぐに平静を取り戻したが、カレはその瞬間を見逃さなかった。老婆の手が——杖を握る手が、微かに震えていた。節くれ立った指の関節が白くなるほど、杖を握りしめていた。
「……どうでしたか」
おそるおそる訊いた。
「ゼロ、ねえ」
ロヴィアタルが呟いた。声が少しだけ掠れていた。
「面白い子だ」
それは昨日と同じ言葉だった。だが声の温度が違った。昨日は軽い興味。今日は——確信に近い何か。押し殺した興奮のような何か。
その後、ロヴィアタルはカレを薬草園に連れ出した。
「歌の話は後だ。まずは体を作りな。ろくに食ってなかっただろう。骨と皮しかないじゃないか」
畑仕事と薬草の手入れ。ロヴィアタルは手際よくカレに作業を教えた。どの草を抜き、どの草を残すか。土の湿り具合の見方——指で掘って、一寸下の土が湿っていれば水はまだ足りている。根の張り方で植物の健康を判断する方法——根が白ければ元気、茶色ければ弱っている。
ルーノは一切使わない。
「薬草の効能はルーノじゃなく、植物そのものの力だ。知識さえあれば、歌えなくても扱える。この世界はね、歌だけでできているわけじゃないんだよ」
カレは黙々と手を動かした。体を動かすのは嫌いではない。ソルミ村でも畑仕事は担当していた。歌えなくても、力仕事はできたから。
「歌えなくても、できることはあるんですね」
「当たり前だろう。歌が全てだなんて、あの連中の思い上がりさ」
老婆はからからと笑った。乾いた笑い声だった。
夕方、共同の食卓についた。
廃村の住人たちが、ロヴィアタルの家の前に集まってくる。大きな鍋から粥をよそい、硬いパンを分け合う。豊かとは言い難い食事だが、誰もが自分の分を量って隣に渡し、少しずつ分け合っていた。文句を言う者はいなかった。
カレの隣にヴェイッコが座った。小さな体で椅子に登り、カレの袖を引いた。
「おにいちゃん、うたって」
突然のねだりに、カレは戸惑った。
「俺の歌は、上手くないぞ」
「いいの。うたって」
マルヤが「ヴェイッコ、困らせないの」と窘めたが、ヴェイッコは目を輝かせてカレを見上げている。真っ直ぐな目だ。才能の数値も、測定器の結果も、この子には関係ない。ただ「歌ってほしい」だけだ。
カレは困った顔で周囲を見回した。セッポが「歌ってやりな」と笑い、他の住人たちも特に気にしていない様子だった。
小さな声で歌った。
夕暮れのことを。食卓のことを。温かい粥のことを。隣に座った小さな男の子のことを。何の力もない、ただの歌。定型歌でもなく、魔法でもなく、ただの——歌。
ヴェイッコが笑った。手を叩いて、嬉しそうに笑った。椀の粥をこぼしかけるほど体を揺らして。
歌の上手下手ではなかった。才能がゼロかどうかも関係なかった。歌ってくれたことが、嬉しかったのだ。それだけだ。
カレの目に、じわりと熱いものが滲んだ。
知らず涙が頬を伝った。自分でも驚いた。泣くつもりはなかった。ソルミ村を出てから一度も泣いていない。行き倒れの旅人を見ても泣かなかった。飢えて倒れても泣かなかった。なのに——温かい食事と、笑ってくれる子供と、追い出さない人々の中にいると、体の奥に溜まっていた何かが溢れ出した。
ロヴィアタルが隣に座り、黙ってカレの肩を叩いた。何も言わなかった。ただ、節くれ立った手の温度だけが、カレの肩に残った。
眠りにつく前、カレは薄暗い空き家で天井を見つめた。
ロヴィアタルの言葉を反芻する。
「面白い子だ」
あの老婆は、カレの歌を聴いて何を見たのだろう。目が見開かれた、あの瞬間。手が震えていた、あの一瞬。長い人生の中で何かを見つけた者の目だった。
嘲りではなかった。確かに。
初めて、自分の歌に興味を持ってくれた人がいる。才能ゼロの歌に、何かを見た人がいる。
それが何を意味するのか、まだわからない。だが今夜は——久しぶりに、穏やかに眠れそうだった。




