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歌えない魔法使いは追放された ~才能ゼロの烙印を押された歌は、世界を創り変える禁呪だと誰も知らない~  作者: 蒼月よる


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カトゥマ廃村

 薬草の匂いで目が覚めた。

 天井が見えた。木のはりが走っている。古いが、しっかりした造りだ。壁は粗い漆喰で、ところどころひびが入っている。窓から薄い光が差し込み、埃が舞っていた。

 寝台に横たわっていた。粗末だが清潔な敷布。毛皮の掛け布が膝まで掛かっている。体が温かい。喉が渇いていない——誰かが水を飲ませてくれたのだろうか。

 どこだ。

 記憶を辿る。森。小川。歌声。そうだ、倒れたのだ。森の中の集落で、杖をついた人影が近づいてきて——

「起きたかい」

 声がした。部屋の隅、小さなかまどの前に人影があった。

 老婆だった。小柄で痩せている。背は曲がり、白い髪を頭巾で覆っている。顔は深い皺に覆われていた。日焼けと風雪に曝された肌。右目に古い傷がある。半分閉じた右目と、鋭く光る左目。その左目がカレを真っ直ぐに見ていた。灰色がかった淡い青。物を見るとき少し目を細める癖があるようだった。

 手は節くれ立ち、関節が変形している。だが鍋を持つ指先は驚くほど確かだった。

「食え。話はそれからだ」

 老婆が木の椀を差し出した。中身は粥だった。薄いが、麦の粒がしっかり見える。干し肉の細切れと、何かの薬草が浮いている。湯気が立ち、温かい匂いがカレの鼻をくすぐった。

 体を起こそうとして、全身が軋んだ。飢えと疲労がまだ体の芯に残っている。腕が震えた。

 カレは椀を受け取り、匙を口に運んだ。


 温かかった。

 体の中に熱が染みる。舌の上で薬草の苦みが広がり、その後から麦の甘みが追いかけてくる。干し肉の塩気が、飢えた体に沁みた。何日ぶりのまともな食事だろう。四日以上まともに食べていない。手が震えて、匙を持つのがやっとだった。匙から粥がこぼれそうになるたびに、カレは唇で受け止めた。

「ゆっくり食べな。急ぐと吐くよ」

 老婆は竈の前に戻り、鍋をかき回している。杖は壁に立てかけてあった。よく見ると杖の表面に微かな紋様が刻まれている。ルーノの紋様のように見えたが、定型歌の教本に載っているものとは違う形だった。

 カレは粥をゆっくりと食べた。一口ずつ、よく噛んで飲み込んだ。椀の底が見えた時、体の震えが止まっていた。指先に力が戻っている。

「……ありがとうございます」

「礼はいい。名前を言いな」

「カレです。ソルミ村の——いや、元ソルミ村の」

「元、ね。追い出されたのかい」

 カレは少し間を置いて、頷いた。言いたくはなかった。だが助けてくれた人に嘘をつくのは、もっと嫌だった。

「才能ゼロだから」

 老婆は鍋の手を止めなかった。「ふうん」とだけ言い、また粥をかき回した。

 問い詰められると思っていた。同情されるか、蔑まれるか。どちらかだと覚悟していた。だが老婆はどちらでもなかった。「ふうん」だけだ。まるで天気の話を聞いたような反応だった。

「あの……ここは」

「カトゥマ村。もっとも、もう村とは呼べないかね。二十年前に半分以上が出ていって、残ったのは行き場のない連中だけだ。わしも含めてね」


 粥を食べ終えた後、老婆に連れられて外に出た。

 朝の光が眩しかった。目を細めて周囲を見回す。

 廃村の全貌が見えた。朽ちた家が十数軒。うち半分ほどに人が住んでいる気配がある。窓に布が掛かり、軒先に洗濯物が揺れている家。板を打ち付けて補修した壁。傾いた屋根を支える丸太の添え木。崩れかけた塀。どれも手入れの跡があるが、元の造りが古すぎて追いつかないのだろう。

 家々の間に、小さな畑があった。麦と根菜が植えられている。ソルミ村の畑よりずっと小さいが、青い葉が見える。枯れていない。この飢饉の中で、緑の葉が育っている。

「ルーノをかけているんですか」

「いいや。普通の農業だよ。ルーノなしの。土を耕し、水をやり、間引きをして、虫を取る。地味な仕事だが、やれば育つ。ルーノがなくても植物は育つんだよ。効率は悪いがね」

 驚いた。飢饉の中でルーノなしに作物を育てている。ソルミ村では「ルーノなしの農業は不可能」が常識だった。どの村もルーノに頼っているのは、そうしなければ十分な収穫が得られないからだと。

 畑の隣に薬草園があった。見たことのない植物が整然と並んでいる。背の低い草、蔓の絡んだ棚、花をつけた低木。色とりどりの葉が朝露に光っている。老婆がその間を歩きながら、葉を一枚摘んで匂いを嗅いだ。

「薬草はルーノに頼らなくても効く。知識があればね。どの草がどの病に効き、どの季節に摘み、どう乾かし、どう煎じるか。歌わなくても、世界にはちゃんと力がある。見えていないだけさ」


 廃村の中を歩くうちに、住人たちとすれ違った。

 中年の大柄な男が、斧で薪を割っていた。腕が太く、手に豆がある。カレに気づくと手を止め、穏やかに頷いた。

「新入りかい。まあ、ゆっくりしな」

 声は低いが温かかった。

 若い母親が、五歳くらいの男の子の手を引いて歩いていた。男の子が母親の脚にしがみつきながら、カレを見上げている。目が大きい。怯えてはいない——好奇心で光っている。

「おにいちゃん、だれ?」

 母親が困ったように笑った。「ヴェイッコ、失礼でしょう」

 他にも何人か見かけた。痩せた老人が日向ぼっこをしている。片足を引きずる若い男が水を運んでいる。寡黙な女が布を織っている。誰もがどこか疲れた顔をしているが、敵意はなかった。カレを見ても、目をそらさない。ソルミ村とは違った。

「ここにいるのは、みんな行き場のない連中さ」

 老婆が言った。杖を突きながら、ゆっくりと歩いている。

「元鍛冶屋、追放された商人、飢饉で家を失った親子。正規の世界から弾かれた奴らが、ここに流れ着く。わしが拾って、一緒に暮らしている」

 カレは黙って聞いていた。

「ルーノなしで、どうやって暮らしているんですか。ソルミ村では、ルーノがなければ何もできないと——」

 老婆は少し間を置いて、答えた。

「ルーノの恩恵がないわけじゃないよ。ただ、あの連中のやり方に頼ってないだけさ」

 意味深な言葉だった。「あの連中」とは、ルーノラのことだろうか。歌学院の体系に頼らない暮らし方がある——それは、カレの常識を揺さぶる言葉だった。

 老婆は多くを語らず、杖をついて家に戻った。


 その夜、カレは廃村の片隅の空き家に寝台を与えられた。

 壁は傾き、隙間風が入る。だが屋根があり、毛布がある。追い出されてから初めて、屋根の下で眠れる。毛布は薄いが、地面で野宿した四日間に比べれば天国だった。

 横になった。体が痛い。だが温かい粥が腹に入っている。喉が潤っている。それだけで、世界が少し違って見えた。天井の染みが、星に見えた。

 目を閉じかけた時、老婆の顔が浮かんだ。

 カレが歌のことを話した時——「才能ゼロだから」と言った時——老婆の目が、一瞬だけ何かを見たような光を宿していた。驚きではない。嘲りでもない。もっと深い何か。確かめるような、見定めるような。

「面白い子だ」

 あの言葉が、耳に残っている。

 嘲りではなかった。自分の歌に——いや、自分の存在に興味を持ってくれた人がいる。初めてだった。それが何を意味するのか、カレにはまだわからない。

 だが——悪くない気分だった。久しぶりに、穏やかに眠れそうだった。


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