森の声
森は深かった。
街道を外れた瞬間から、世界が変わった。白樺はいつしか樫と楢に代わり、幹が太くなり、枝が頭上を覆って空が見えなくなった。地面は分厚い落ち葉に埋もれ、足を踏み出すたびに湿った音がする。腐葉土の匂いが鼻をつく。甘く、重く、生きている匂いだ。街道の乾いた荒野とは全く違う。
カレは歩いた。
あの歌声を追って。昨夜、風に乗って聞こえた自由な旋律。今も微かに聞こえている——気がする。飢えと疲労で意識が朦朧としていて、自分の感覚が信じられなかった。幻聴かもしれない。死にかけた体が見せる幻かもしれない。だが足は止まらなかった。
木々の間を縫って進んだ。
道はない。獣道すらない。だが不思議なことに、歩けた。木の根が地面から突き出しているのに、カレが踏む場所だけ平らになっている。枝が低く張り出しているのに、カレが通る場所だけ隙間がある。偶然だろう。そう思おうとした。だが——
森の空気が変わった。
入口付近は暗く、湿り、どこか不穏だった。だが奥に進むにつれて、空気が穏やかになっていく。木漏れ日が増え、鳥の声が聞こえるようになった。敵意がない。森そのものが、カレを受け入れているような——馬鹿な。森に意志があるわけがない。
どれくらい歩いただろう。
足がもつれた。木の根に引っかかり、前のめりに倒れた。膝が湿った土にめり込み、手のひらに落ち葉と泥がこびりついた。
立ち上がろうとしたが、体が動かない。腕に力が入らない。膝が震えて、体を支えられない。
「……だめだ」
声が掠れていた。最後に食べたのはいつだったか。水は——もうない。水筒は空だ。体が限界を訴えていた。目の前が暗くなる。意識が遠のきかけている。
このまま倒れたら、あの旅人と同じだ。道端で——いや、森の中で朽ちる。誰にも見つけられないまま。落ち葉に埋もれて、やがて土に還る。才能ゼロの少年の、誰にも知られない終わり。
四つん這いのまま顔を上げた時、歌声が近づいた。
はっきりと聞こえた。
定型歌ではない。旋律が自由に揺れ、言葉が風のように流れている。温かかった。懐かしかった。聞いたことがないはずなのに、胸の奥で何かが共振する。母の歌に似ている——いや、似ているのではない。もっと根源的な何かが同じだ。歌の骨格のようなものが。
歌声に誘われるように、カレは這うようにして前に進んだ。膝が泥に沈む。手が枝を掴む。わずかな力を振り絞って、一歩、また一歩。
木々の間を抜けると、小川があった。
浅い流れが岩を洗い、澄んだ水が光を弾いている。森の中で唯一明るい場所だった。木漏れ日が水面に落ち、金色の斑点を揺らしている。水際にはまだ緑の苔が生えていた。こんなに鮮やかな緑を見たのは、いつ以来だろう。
水だ。
カレは小川に倒れ込むようにして顔をつけた。冷たい水が唇に触れ、喉を潤した。飲んだ。何度も飲んだ。冷たさが体の中に染み渡り、意識が少しだけ戻った。水の味がする。甘い。生きている味がする。
顔を上げて息を吐いた。水滴が顎から落ちた。
歌声がまだ聞こえている。
近い。この先にいる。水面を見つめると、流れの中にも微かな力を感じた。何と言えばいいのだろう——定型歌の硬い力ではない。水そのものが歌っているような、自然で柔らかな波動。気のせいかもしれない。だが水の流れが、歌の旋律に合わせて揺れているように見えた。
不思議だった。カレはルーノの力を感じ取ったことがない。才能ゼロなのだから当然だ。だがこの森に入ってから、何かが違う。空気が——世界が、いつもより近い。手を伸ばせば触れられそうな距離に、何かがある。
立ち上がった。
足はまだ震えているが、水を飲んだことで少しだけ力が戻った。歌声を頼りに、さらに奥へ進む。一歩ごとに歌声が近づいてくる。
森の空気が変わった。
湿った土の匂いに、薬草の香りが混じり始めた。甘く、微かに苦い。どこかで嗅いだことがある——母が病の時に煎じていた薬草の匂いに似ている。懐かしい匂い。つらい記憶と一緒の匂い。
木々が途切れた。
目の前に開けた空間があった。小さな集落。いや、集落の跡だ。朽ちかけた家が十数軒、森の中にぽつぽつと並んでいる。屋根には苔が生え、壁は傾いている。だがその間に——小さな畑と、手入れされた薬草園が見えた。緑がある。枯れていない緑。
人が住んでいる。
歌声は、その集落の中心から聞こえていた。
足がもつれた。
水を飲んだ一時の力が尽きたのだろう。視界が暗くなる。膝が崩れ、地面に手をついた。指の間に、草の感触があった。柔らかい草だ。枯れていない。
最後に見えたのは、木々の間から差す光と、こちらに近づいてくる小さな人影だった。杖をついた、小柄な影。白い髪が光に透けている。
歌声が止んだ。
代わりに、しわがれた声が聞こえた。温かく、少しだけ可笑しそうに——
「おや、おや。森が連れてきたか」
温かく、笑っていた。
意識が遠のいた。冷たい地面と、柔らかい草と、薬草の匂いと、聞いたことのない言葉の余韻。それだけが、暗闇の中に残った。




