枯れ野の花
三日目の夕方、食料が尽きた。
干し肉の最後の一切れを朝に食べ、パンの欠片は昨日の夜に齧り終えていた。水筒の水も残りわずかだ。傾けると、底で微かに音がする程度。
街道沿いの村を二つ通りかかったが、どちらも門を閉ざしていた。最初の村では、門番の男が「余所者に食わせる飯はない」と言った。二つ目の村では、そもそも応答がなかった。門の向こうから咳き込む声だけが聞こえた。飢饉はカレヴァ全域を蝕んでいる。どこも同じだ。
歩いた。ただ歩いた。
景色は次第に荒涼としていった。枯れた草原が広がり、白樺の幹は灰色に乾いている。道端の草は茶色く萎れ、花の一輪も見当たらない。地面は硬く乾き、歩くたびに砂埃が舞った。空は高いが、色が薄い。太陽が出ていても暖かさがない。
四日目の昼、道端で人を見つけた。
男だった。街道の脇にうつ伏せに倒れている。旅人らしい外套を着ている。背負い袋が散乱し、空の水筒が転がっていた。
「大丈夫ですか」
駆け寄って肩に触れた。冷たかった。秋の土のような冷たさだ。息がない。どのくらい前に倒れたのか——肌は乾き、唇が紫色に変わっていた。目は半ば開いたまま、空を映していた。
カレは手を引いた。
何もできなかった。歌術師なら治癒のルーノで助けられたかもしれない。いや、もう手遅れだったろう。だが歌えない自分には、そもそも試す手段すらない。治癒のルーノを歌おうとしても、例によって言葉が変わってしまうだろう。変わった言葉が何の効果も持たないことは、十九年の経験が証明している。
立ち尽くした。
風が枯れ草を揺らしている。旅人の傍に、小さな花が一つだけ咲きかけていた。いや、咲きかけていたのだろう。今は花弁が縮み、茎が折れかけている。枯れかけた花。この荒野で最後に残った色の欠片。淡い紫色の花弁が、乾いた風に震えている。
カレは目を閉じ、手を合わせた。定型歌の弔いの歌は歌えない。だが黙って祈ることはできた。それすらも「才能ゼロの祈りに意味はない」と言われるだろうか。
その場を離れた。振り返らなかった。振り返ったら、立ち止まってしまう。立ち止まったら、もう歩けなくなる。
日が傾いた。
街道の両側の木々が長い影を落としている。足が重い。視界が時々霞む。飢えと疲労と、何より心が限界だった。四日間歩いて、得たものは何もない。行く先もない。戻る場所もない。出会った人は死んだ旅人だけだ。
道端に座り込んだ。
冷たい地面が尻に染みる。背中を枯れた木の幹に預けた。頭の上を灰色の雲が流れている。風が冷たい。体の芯まで冷えている。
明日の朝、目が覚めるかどうかもわからない。あの旅人のように、道端で冷たくなるかもしれない。誰にも見つけられないまま。いや、見つけられたとしても、誰が才能ゼロの死体を弔うだろう。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。声にならない笑い。才能ゼロの人間は、こうやって終わるのか。歌えないまま、誰にも知られないまま。ソルミ村の人々はカレが死んだことすら知らないだろう。知ったとしても、「そうか」の一言で終わるだろう。
その時、口から歌が溢れた。
考えて歌ったのではない。喉が勝手に開き、言葉が勝手に流れ出した。定型歌ではない。カレ自身の言葉。何を歌っているのか、自分でもわからなかった。悲しいのか、怖いのか、怒っているのか——何でもなかった。ただ、歌わずにいられなかった。死にかけた体の、最後の反射のように。
声は掠れていた。飢えと渇きで喉がまともに鳴らない。旋律はぎこちなく、言葉は途切れ途切れだった。
だが歌った。
枯れた大地に向けて。灰色の空に向けて。冷たくなった旅人に向けて。誰にも聴かれないとわかっていて、それでも。歌うことだけが、カレに残された唯一のことだった。
足元で、何かが動いた。
あの花だった。さっきの旅人の傍にあったのと同じ種類の花。道端で枯れかけていた、小さな紫の花。いつの間にか、カレの座った場所のすぐ近くにも一輪あった。萎れた茎。縮んだ花弁。
カレの歌が続く。掠れた声が、夕暮れの空気に溶けていく。
花弁が震えた。ゆっくりと、ほんのわずかに開いた。色が戻った。枯れかけた灰色から、淡い紫色へ。茎が微かに伸び、葉が持ち上がった。ほんの一瞬——まるで、歌に応えるように。春が一瞬だけ戻ったように。
カレは俯いていた。
目は閉じている。歌に没頭している。いや、没頭というより、もう目を開ける力がなかった。だから花の変化に気づかなかった。一瞬だけ色を取り戻した花は、歌が途切れると同時にまた萎れた。何事もなかったように。紫色が灰色に戻り、茎が折れかけた姿に戻った。
歌い終えた。
息が荒い。歌ったことで体力を使い果たした。今の自分に、歌う体力すら残っていなかったのだと思い知る。喉が痛い。唇が割れている。
空が暗くなっていく。星が一つ二つと見え始めた。このまま眠ったら、明日目が覚めないかもしれない。それでもいいかもしれない——そんな考えが、頭の隅をよぎった。
目を閉じかけた時——風に乗って、何かが聞こえた。
歌、だろうか。
遠い。微かだ。だが確かに旋律があった。定型歌ではない。もっと自由で、もっと素朴で、それでいてどこか力強い。温かい。懐かしい。聞いたことがないはずなのに、どこかで聴いたような——母が歌ってくれた歌に、少しだけ似ていた。
幻聴だろうか。飢えで頭がおかしくなったのかもしれない。
だが体が動いた。
立ち上がれたのは、その歌声のおかげだった。立てないと思ったのに、足が動いた。引き寄せられるように、ふらつく足で森の方角に歩き始めた。
夜の闇に歌声が消える。明日、歩けるかどうかもわからない。だが森の奥から、確かに——聞いたことのない旋律が、風に乗って届いていた。




