見送りのない朝
夜明け前に目が覚めた。
眠れたのかどうかもわからない。横になっていただけかもしれない。薄い毛布の中で何度も寝返りを打ち、暗い天井を見つめていた。同じことばかり考えていた。今日、ここを出る。もう戻れない。
カレは寝台を下り、荷物をまとめた。
と言っても、持っていくものはほとんどない。擦り切れた革の長靴。穴だらけの灰色の外套。村長が夕方に届けさせた支度——小さな袋に入った干し肉と、水筒ひとつ。乾いたパンの欠片が二つ。三日も持たないだろう。いや、節約すれば四日か。その先のことは考えてもしかたがない。
台所の棚を見た。
母の遺品がある。古い布に書かれた歌の断片。読めない文字。持っていくべきか迷った。これを持っていたところで、何の役にも立たない。読めない歌の意味がわかるわけでもない。
手が伸びた。
布は柔らかかった。何度も洗われ、使い込まれた麻の感触。母の手の温度が残っているような気がした——馬鹿なことだ。三年前に死んだ人の温度が、布に残っているわけがない。
広げて見た。黄ばんだ麻布に、褪せた墨で文字が連なっている。定型歌の歌詞とは明らかに違う。言葉の並びが自由で、韻の踏み方も規則的ではない。どこか——カレが無意識に歌ってしまう、あの「間違った歌」に似ている気がした。
気のせいだろう。母の歌とカレの歌に関係があるはずがない。
布を丁寧に畳み、懐に仕舞った。これだけは持っていく。理由は説明できない。ただ、手放せなかった。
戸口に立ち、部屋を振り返った。
薄暗い室内に、十九年の痕跡がある。寝台の脇に掛かった外套の予備は、もう小さくて着られない。台所の壁の傷は、幼い頃に匙を投げた跡だ。父が使っていた作業台の上には、何も置かれていない。母が編んだ敷物が床に敷かれている。色は褪せたが、編み目はまだしっかりしていた。
どれも古びて、擦り切れて、それでもカレの十九年がここに詰まっている。
ここに戻ることは、もうないだろう。
不思議と涙は出なかった。泣く力も残っていなかった。三年間の飢饉と孤立が、カレの中の柔らかい部分をすり減らしていた。涙が出ないのは悲しくないからではない。悲しみが深すぎて、体が追いつかないのだ。
外に出た。
空はまだ暗く、東の端が微かに白んでいるだけだった。冷たい風が頬を打つ。春なのに、吐く息は白い。霜が地面を覆い、草の先端が凍って光っている。
村の通りは静まり返っていた。
家々の窓は閉まっている。灯りはどこにもない。村人たちは眠っているか、起きていても出てこないかのどちらかだった。
見送りは、ない。
わかっていた。期待もしていなかった。だが、わかっていることと、実際にそうなることの間には、深い溝がある。カレは一軒一軒の家の前を通りながら、無意識に窓を見ていた。誰か一人くらい——カーテンが揺れはしないか。戸が開きはしないか。
誰もいなかった。
エイノの家の前を通った時だけ、カレは足を止めかけた。窓は閉まっていた。中に灯りはない。「ごめんな」という昨日の声が耳に残っている。エイノは悪くない。誰も悪くない。飢饉が悪い。才能ゼロが悪い。
足を動かした。
村の出口に着いた。
木の柵と、その向こうに伸びる街道。右を向けばソルミ湖が朝もやの中に霞んでいる。湖面に星の残り火が揺れている。左を向けば白樺の林と、遠くに見える枯れた麦畑。
一度だけ振り返った。
ソルミ村の全景が目に入った。低い屋根の家々、湖、畑、ルーノラ分校の建物。朝もやの中に沈む村は、どこか夢のように見えた。ここが全てだった。十九年間、カレの世界はこの村の中に収まっていた。村人の顔も、道の形も、湖の色も、全部覚えている。角を曲がった先の石垣。秋になると実がなる低い木。エイノと遊んだ河原。全部。
だがその世界は、カレを必要としなかった。
「——行こう」
呟いて、街道に踏み出した。
砂利を踏む音がやけに大きく聞こえた。背後に村がある。一歩ごとに遠くなる。振り返らなかった。もう一度見たら、動けなくなると思った。
歩いた。
街道は緩やかに北西へ伸びている。両側に白樺の林が続き、その隙間から枯れた草原が見える。かつては緑豊かな土地だったらしい。年寄りがそう言っていた。カレが物心ついた頃にはもう枯れ始めていたが、サンポが奪われてからは一気に荒廃が進んだ。白樺の幹にも力がなく、皮が剥がれて白い筋が地面に散っていた。
風が吹いた。向かい風だ。フードが飛ばされそうになり、手で押さえた。
日が昇った。薄い日差しが街道を照らしたが、暖かさはほとんどなかった。干し肉を一切れ齧り、水を一口飲んだ。節約しなければ。先は長い——いや、先があるかどうかもわからない。
歌えなくても、歩くことはできる。
それだけを頼りに、カレは足を前に出し続けた。
胸の奥で歌が鳴っている。いつもそうだ。歩いていると、口をついて出そうになる。定型歌ではない、自分だけの言葉。歌ったところで何の意味もないのに。誰に聴かせるわけでもないのに。
それでも消えない。
街道の先に何があるのかは知らない。ただ一つだけ。胸の奥で消えない歌がある。それが何の役に立つかもわからないまま、カレは歩き続けた。




