口減らし
翌朝、村の空気が変わっていた。
カレが家の戸を開けた瞬間にわかった。道を歩く人々の目が、昨日までと違う。同情が消え、代わりに露骨な忌避がある。目が合いそうになると、相手のほうが先にそらす。
「才能ゼロ」の噂は、一晩で村中に広がっていた。いや、「該当なし」だ。ゼロですらない。その事実が尾ひれをつけて伝わったらしい。「測定器が壊れた」「あの子が歌うと器具が狂う」「呪いだ」——飢饉が続くと、人は原因を探す。わかりやすい原因を。
カレは外套のフードを深く被り、通りに出た。
井戸に向かう途中、見覚えのある後ろ姿が見えた。
エイノ。幼馴染だった。カレが覚えている限り、最後まで普通に話してくれた相手だ。ルーノラ分校では隣の席に座っていた。一緒に湖で泳いだこともある。エイノの才能は二十三——優秀とは言えないが、立派に歌える数値だ。来年にはヴァイノラの大ルーノラに推薦されるかもしれないと噂されている。
「エイノ」
呼びかけた。声は思ったより小さかった。
エイノの背中が一瞬止まった。肩が強張るのが見えた。そして——足早に去っていった。振り返らない。数歩離れたところで、小さな声が風に乗った。
「ごめんな」
それだけだった。
カレは立ち尽くした。怒りはなかった。エイノの気持ちはわかる。才能ゼロの——いや、該当なしの人間と親しくしていれば、自分の評判にも響く。飢饉の村では、評判は生死に直結する。ルーノラへの推薦が取り消されるかもしれない。エイノには、エイノの人生がある。
「……いいよ」
誰にも聞こえない声で答えた。唇が乾いていた。
井戸に着いた。
木の桶を縁に掛け、綱を手繰って水を汲もうとしたとき、横から声が飛んだ。
「おい、やめてくれ」
隣にいた中年の男だった。顎鬚を生やした猟師で、名前は知らないが顔は見覚えがある。
「歌えない者が使うと、水が穢れる」
カレの手が止まった。
「そんなことは——」
「あるんだよ。ルーノラの先生が言ってた。歌の力がない者が触れた水は清めが効かなくなるんだ。才能ゼロならまだしも、該当なしだろう。何が混じってるかわからん」
嘘だ。そんな教えはルーノラの教科にない。カレは分校の授業を全て受けてきたから知っている。だが男は本気だった。目に恐怖がある。飢饉が三年続けば、人は迷信にすがる。水が穢れる、食糧が腐る、子供が病気になる——全て歌えない者のせいだと言い始める。理性が恐怖に負けるのだ。わかっている。わかっているが——
カレは黙って桶を置き、井戸を離れた。喉は渇いていた。
家に帰る途中、裏道で子供たちとすれ違った。七、八歳の男の子が三人。見上げる目が怯えていた。
「おかあさんが、あの人に近づくなって」
聞こえるように言った声は、子供ならではの残酷な率直さだった。カレは足を速めた。
家に戻ると、戸口に村長が立っていた。
白髪の老人で、穏やかな顔をしている。村長は昔から優しかった。カレの両親が死んだときも、しばらくは面倒を見てくれた。冬の間は村の蓄えから食糧を回してくれたこともある。だが「しばらく」が終わったことを、カレは知っている。
「入ってもいいかね」
「……はい」
家の中で向かい合った。村長は薄い粥を勧められて断り、椅子に腰を下ろした。膝に手を置き、しばらく黙っていた。言葉を探しているのだろう。
「カレ。結果は聞いたな」
「はい」
「お前には——才能がない。これは、覆しようのない事実だ」
一語一語、慎重に選んでいる。村長にとっても、これは楽な仕事ではないのだろう。カレは何も言わなかった。
「つらいことを言うようだが——お前には、旅に出ることを勧める」
「旅、ですか」
「そうだ。ソルミ村のルーノラでは測れなかった才能が、他の土地では花開くかもしれない。世界は広い。ヴァイノラの大ルーノラなら、もっと優れた測定ができるだろう。あるいは歌以外の道が見つかるかもしれん」
建前だった。カレにはわかっていた。旅の支度として渡されるのはわずかな干し肉と水筒だけだろう。ヴァイノラへの紹介状も、旅の路銀もない。戻る場所が用意されないことも。
口減らしだ。
飢饉の村で、歌えない十九の若者を養い続ける余裕はない。村長は体裁を整えているだけだ。「追放」という言葉を使わずに追い出すための、穏やかな手順。父の事故の補償として三年間養ったのだから、義理は果たしたと思っているのだろう。
「……わかりました」
カレは答えた。
抵抗する力がなかった。抵抗する理由もなかった。才能ゼロの人間に発言権はない。ルーノが全てのこの世界で、歌えない者は存在しないのと同じだった。存在しない者が「ここにいたい」と言ったところで、誰の耳にも届かない。
村長は安堵したように息を吐き、立ち上がった。
「明日の朝、出立のための支度を届けさせる。——カレ、身体に気をつけてな」
優しい言葉だった。だからこそ、刃物より深く刺さった。村長は本当にカレの身を案じているのだろう。だがその優しさは、追放を撤回するほどの力を持っていない。
村長が去った後、カレは台所の椅子に座ったまま動けなかった。
日が傾き、部屋が暗くなっても、灯りをつける気力がなかった。窓から差す夕日が壁を染め、やがて消えた。闇が部屋を満たした。
母の遺品の布が、棚の上でぼんやり白く見えた。古い歌の断片。読めない文字。母は何の歌を遺したのだろう。定型歌でないことだけはわかる。母も、歌い手としては凡庸だった。だが家でカレに歌ってくれた歌は、ルーノラの教科書にはない自由な旋律だった。
明日の朝、カレは村を出る。
この世界のどこかに、自分の居場所はあるのだろうか。歌えない者が生きていける場所は、あるのだろうか。
胸の奥で、消えない歌が鳴っている。ずっと鳴っている。それが何の役に立つのかもわからないまま。




