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該当なし

 ルーノラ分校は村の中央にあった。

 白樺の丸太で組まれた平屋建て。屋根には苔が生え、壁には歌の紋様が彫り込まれている。紋様はルーノの力を増幅するための意匠で、かつてはもっと鮮やかに光っていたらしい。今は色褪せ、壁自体もあちこちが傷んでいる。飢饉で補修の余裕もないのだ。

 カレは入口の前で足を止めた。

 重い扉の向こうに、今日の測定室がある。六回目。最後の機会。

 深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。

「……入ろう」

 自分に言い聞かせ、扉を押した。木が軋む音が、やけに大きく聞こえた。


 測定室は薄暗かった。

 窓が一つしかなく、石壁が光を吸い込んでいる。部屋の中央に石造りの台があり、その上に拳ほどの水晶球が据えられていた。才能測定器。歌い手の素質を数値化する装置だ。歌に反応して内部が光り、その光の強さと色で才能を数値化する。数値が高いほど定型歌の再現に優れ、歌術師としての将来が約束される。

 壁には羊皮紙が貼り出されていた。今年の測定を受けた子供たちの結果一覧。最低でも十二。高い子は四十を超えている。カレの欄だけが空白だった。いや、空白ですらない——「0」と記されていた。過去五回、全て同じ数字。

 部屋の奥に二人の男が立っている。

「来たか」

 歌術師長のヴァルプが言った。五十を過ぎた痩せた男で、鉄灰色の髪を短く刈り込んでいる。声に感情がない。頬がこけ、飢饉の影が彼の顔にも刻まれていた。隣にいるのは測定官——中年の男で、水晶球の調整に手間取っている。最近は測定器の反応も鈍くなっているらしい。サンポの喪失は、道具にまで影響を及ぼしていた。

「始めよう。火起こしのルーノを歌え」

 カレは唾を飲んだ。火起こしのルーノ。定型歌の基本中の基本だ。八小節の定型詩を正確な旋律で歌えば、指先に小さな炎が灯る。村の子供なら七歳で覚える歌。カレは十九歳で、まだ一度もまともに歌えたことがない。

 息を吸った。

 言葉を思い出す。頭の中では正しい定型歌が並んでいる。一字一句、暗記している。何百回と練習した。目を閉じれば言葉が見える。旋律も覚えている。理論上は、歌えるはずだ。

 口を開いた瞬間——言葉が変わった。


 いつもこうだ。

 定型歌を歌おうとすると、カレの口から出る言葉は指定されたものから逸れていく。まるで、別の言葉のほうが「正しい」と体が判断しているかのように。頭では正しい歌詞を思い浮かべているのに、舌が勝手に動く。火起こしのルーノの冒頭——「汝、炎よ、定めの形にて現われよ」と歌うべきところで、カレの口から出たのは全く異なる言葉だった。

 火の熱さではなく、火の本質を——火が火であることの意味を、直接呼びかけるような言葉。

 台座の上の水晶球が震えた。

 炎が灯った。指先ではない。水晶球の内部に、一瞬だけ激しい光が走った。橙ではなく、白に近い光。測定室の壁に影が躍り、ヴァルプの顔が照らされた。石壁の紋様が一瞬だけ輝き——すぐに消えた。

 水晶球が音もなく元に戻る。

 測定官が顔をしかめ、数値盤を覗き込んだ。叩いた。もう一度覗いた。

「……該当なし」

「何だと」

「該当なし、です。数値が出ません。ゼロではなく——測定範囲に一致する反応がありません」

 測定官が困惑した顔でヴァルプを見た。六回目にして初めての結果だった。過去五回はゼロと表示されていた。だが今回は「該当なし」。測定器が反応を検知したが、既知のルーノの分類に当てはまらなかった——ということだろうか。測定官の眉間に深い皺が寄った。

 ヴァルプの目が細くなった。カレを見る目は冷たかった。だがその冷たさの奥に、一瞬だけ別の感情が揺れた。困惑か、警戒か——カレには読み取れなかった。

「もう十分だ」

 それだけだった。

 カレは何か言おうとして、口を閉じた。「もう一度やらせてください」と言おうとした。だが言い訳する言葉も、抗議する言葉も持っていなかった。また言葉が変わった。また間違えた。六回目も同じだ。

「また、間違えた……」

 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。


 測定室を出て、廊下で待たされた。

 石の壁に背を預け、足元を見つめる。木の床に染みがある。昔、誰かがここでルーノの練習をして焦がした跡だ。火起こしのルーノが成功した証だ。カレには一生つけられない染み。

 扉の向こうから、声が漏れてきた。

「——該当なし。ゼロですらない。使い道がありません」

 ヴァルプの声だった。低く、押し殺すような口調。壁越しでも言葉は聞こえた。

「先ほどの光は何なのだ」

 村長の声。

「わかりません。定型歌の反応ではない。しかし何らかのルーノ的現象が起きたことは確かです。——ですが制御されていない。このまま放置すれば、いずれ暴発事故を起こす可能性があります」

 暴発事故。父が死んだのも、ルーノの暴発事故だった。

「……難しいところだな」

 村長の声は穏やかだった。優しくて、丁寧で、だからこそ残酷だった。

「飢饉の中で、歌えない口を養う余裕は——それに、暴発の危険まであるとなると」

 言葉が途切れた。続きを聞く必要はなかった。カレには、その先に何があるかわかっていた。

「わかっています」

 ヴァルプの声が答えた。

「明日、正式に伝えます」


 カレは拳を握った。

 爪が掌に食い込む。痛い。だが怒りではなかった。怒る資格もないと思った。ゼロはゼロだ。該当なしはゼロより酷い。測定器にすら認めてもらえない。

「やっぱり俺は、歌えないのか」

 廊下で独り、カレは呟いた。

 扉の向こうで話が続いている。カレの処遇が決められている。カレのいない場所で、カレの人生が他人の手で畳まれていく。それに抗う手段を、カレは持っていなかった。

 静かに背を向けた。

 廊下を歩く。出口に向かう。足音が石壁に反響する。一歩ごとに、何かが閉じていく音がする。

 明日、村長から正式な宣告が下される。カレの運命は——もう決まっていた。


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