才能ゼロ
眠れなかった。
カレは寝台から身を起こし、薄い毛布を畳んだ。窓の外はまだ暗い。夜明けまでもう少しかかる。耳を澄ませば、風が窓枠を揺らす音だけが聞こえた。この家にはもう、カレしか住んでいない。母が死んでから三年。父はその前の年に逝った。
古い木の床が軋む。戸口で革の長靴を履き、灰色の外套を肩に掛けて外に出た。
冷たい空気が肺を刺した。
春だというのに、息が白い。三年前からずっとこうだ。魔法の臼が北の国ポヒョラの女主人ロウヒに奪われてから、カレヴァの地に本当の春は来なくなった。穀物は痩せ、湖の魚は減り、冬だけが長くなった。
ソルミ村は湖のほとりにある。人口は二百人ほど。白樺の林と、枯れかけた麦畑と、村の中央にある小さな歌学院の分校。それが、カレの知る世界の全てだった。
足が自然と湖に向かう。暗い水面に星が映っている。ここだけが、カレにとって自由でいられる場所だった。人目がない。囁き声が聞こえない。「あの子」「才能ゼロの」「可哀想にね」という声が。
水辺の岩に腰を下ろし、しばらく黙って湖面を見つめた。
湖の底は深い。水は黒々として、星の光を飲み込んでいる。岸辺の葦が枯れたまま立ち尽くしていた。かつてはもっと青々としていたらしいが、カレの記憶にある葦は、いつも茶色だった。
明日——いや、もう今日だ。今日の昼に、最後の再測定がある。
才能測定。歌学院の評価制度で、歌い手としての素質を数値化するもの。定型歌をどれだけ正確に再現できるか。その精度と出力が数値になる。カレはこれまで五回測定を受け、五回とも結果は同じだった。ゼロ。才能ゼロ。
「……もう一回やったって変わらないだろ」
独り言が湖面に落ちた。波紋が広がって、すぐに消えた。
変わらないとわかっている。わかっているのに、胸の奥が締めつけられる。あと一回だけと言われるたびに期待して、そのたびに裏切られてきた。もう十分だ。わかっている。
わかっているのに——歌いたい。
どうしようもなく、歌いたい。
口を開いた。
定型歌ではない。ルーノラで教わる正しい歌を、カレはまともに歌えたことがない。指定された言葉を口にしようとすると、別の言葉が勝手に溢れてくる。いつもそうだ。だから「間違い」だと言われてきた。
今は誰も聴いていない。だからカレは自分の言葉で歌った。
湖のことを歌った。冷たい水のこと。深い底に眠る泥のこと。星を映す静かな面のこと。凍りかけた岸の、硬くなった砂のこと。言葉は拙く、旋律はどこかぎこちない。だがカレの口から溢れる歌は、定型歌にはない不思議な温度があった。
風が止んだ。
森が静まった。虫の声も、枝の軋みも、何もかもが黙り込んだ。
湖面に、微かな波紋が広がった。歌に合わせるように、水面が小さく揺れている。同心円状に、一つ、二つ、三つ。カレの歌の抑揚に呼応するかのように。
歌い終えた。
波紋はまだ揺れていた。カレはそれを見つめ——
「……風か」
呟いて、立ち上がった。風は止んでいる。だがカレはそのことに気づかなかった。いつもそうだ。歌うたびに、小さな何かが起きている。水が揺れる。木の葉が震える。蝋燭の炎が傾く。だが誰もそれに気づかない。カレ自身も。自分の歌に力があるなど、思いもしなかった。才能ゼロなのだから。
村に戻ると、空が白み始めていた。
東の稜線が薄い橙に染まっている。だが暖かさはない。光だけが差して、熱が伴わない。飢饉の春はいつもそうだ。
家に入り、台所に立つ。食卓には昨夜の残り——薄い麦粥の鍋がある。火を起こし直し、粥を温めた。匙で掬うと、ほとんど水だった。麦の粒が底に数えるほどしか沈んでいない。三年前まではもう少しましだった。サンポを奪った北の国ポヒョラの女主人ロウヒのせいだと、村人たちは口を揃える。
食卓の隅に、母の遺品がある。古びた布に、見慣れない文字で歌が書かれている。定型歌ではない。何の歌かもわからない。母は三年前の冬に死んだ。飢饉の最初の年だった。食糧が足りず、自分の分をカレに回し続けた末に、体を壊した。父はその前の年に、ルーノの訓練中の事故で死んでいる。
カレはその布を手に取り、しばらく眺めた。褪せた墨の文字は読めない。だが布に触れると、指先に微かな温もりを感じる気がした。気のせいだろう。棚に戻した。
外に出ると、村が動き始めていた。
広場の畑で、歌術師の老人が麦にルーノをかけている。低く抑えた歌声が畑に染み込むと、枯れかけた穂が微かに伸びた。ほんの数寸。だがこの数寸がなければ、村は今年の冬を越せない。
別の畑では、若い歌術師が井戸の水を清めるルーノを歌っていた。水面が微かに光り、濁りが薄れていく。歌い終えると歌術師は額の汗を拭いた。一つのルーノで疲れる——サンポが奪われてから、歌の力そのものが弱まっているのだと、大人たちが言っていた。
歌魔法がすべてだった。畑を育てるのもルーノ、井戸の水を清めるのもルーノ、病を治すのも、獣を追うのも、家を建てるのも、全てが歌の力で動いている。歌えない者は——何もできない者だった。
カレが通りを歩くと、すれ違う村人たちが目を逸らした。
「……明日で最後の測定だろ、あの子」
「六回目でもゼロだったら、もう駄目だな」
「親父もろくな歌い手じゃなかったからな。血だよ」
囁き声が背中に刺さる。カレは俯いたまま歩いた。振り返らない。怒る力もない。ただ足を前に出すだけだ。
水汲みに行く若い女が、カレを見て足を速めた。目が合いそうになると、露骨にそらされた。汚いものを見るような目ではない。もっと悪い——存在しないものを見る目だ。
ソルミ村でカレは、透明だった。才能ゼロの人間は、風景の一部にすらなれない。ただの空白。ただの余分。
家に戻り、壁に背をつけて座った。
冷たい壁の感触が背中に染みる。膝を抱え、目を閉じた。
今日の昼。最後の測定。
「明日の再測定で結果が変わらなければ、お前の居場所はこの村にない」
村長の言葉が脳裏に蘇る。穏やかな声だった。それだけに、逃げ場がなかった。穏やかに、優しく、人を追い詰める言葉ほど残酷なものはない。
胸の奥で、まだ歌が鳴っている。湖畔で歌った、あの拙い歌。誰にも認められない、何の役にも立たない歌。才能ゼロの人間が歌う、意味のない歌。
それでも鳴り止まない。
明日——いや、今日。カレの運命が決まる。




