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冬日和のギフト~4つのアイの物語  作者: 御園しれどし


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第5話 哀しみ(慈しみ)と黄金の夕刻

 下田での滞在がひと月を超え、三月の足音が聞こえ始めた頃、街を包んでいた冬の凛とした空気は、春の湿り気を帯びた微風に取って代わられていた。晴海は、鍋田の平屋の片付けを終え、最後の一日を過ごすために一人、海へと向かった。


 目指したのは、街の外れにある高台。眼下には、これまで歩んできた須崎の断崖や、幾重にも重なる伊豆の島々が、春の霞の中に淡く浮かんでいる。


 水平線が緩やかな弧を描き、溶け合う空と海の境界線は、どこまでも曖昧で、かつ神聖な青に染まっていた。


 かつての彼女にとって、境界線とは「守るべきもの」か「超えるべきハードル」でしかなかったが、今の彼女には、その曖昧さこそが世界の調和のように感じられた。


 彼女の手元には、もうボロボロになった茂樹のノートがあった。最後の一節、四番目のアイ――「哀(慈しみ)」についての記述を、彼女は何度も指でなぞった。


かなしみ・いつくしみ:すべての存在は、いつか消えゆく。物理学がエントロピーの増大を語るように、形あるものは崩れ、熱は失われる。だが、その「終わり」があるからこそ、今、目の前で揺れる光はこれほどまでに愛おしい。寂しさを拒絶するのではなく、その侘しさを贅沢なギフトとして抱きしめること。それが、生命が到達できる最も深い愛の形である』


 かつての私が求めていたのは、永遠に続く成果や、右肩上がりの数字という熱量だった。止まることのない成長、磨耗することのない自分。けれど、宇宙の真理は、この穏やかな夕暮れのように「移ろい」の中にこそあるのだ。燃え尽きたと思っていた私の熱も、また別の形――例えば、誰かを思いやる静かな体温のようなものに変わって、この世界の一部として調和していくのかもしれない。


「寂しさは、ギフト……」


 晴海は、沈みゆく太陽を見つめた。空は燃えるようなオレンジから、紫、そして深いインディゴへと、一秒ごとにその表情を変えていく。黄金の道が海面に引かれ、波頭が宝石のように砕ける。その圧倒的な美しさは、同時に、この瞬間が二度と戻らないという残酷なまでの「一回性」を突きつけていた。


 もし、この美しさが永遠に固定されたものだとしたら、人はこれほどまでに胸を締め付けられることはないだろう。終わるからこそ、人は今この瞬間に全霊を注ぐことができるのだ。


 かつての晴海なら、この夕暮れを見ても「もう一日が終わってしまう」という焦燥や、「明日のための準備をしなければならない」という義務感しか抱かなかっただろう。夕陽は単なる「タイムリミットの合図」でしかなかった。


 しかし今、彼女の頬を伝う涙は、悲しみではなく、世界があまりに美しく、そして儚いことへの「慈しみ」から来るものだった。自分の無力さを受け入れたとき、世界はこれほどまでに優しく彼女を包み込んでくれた。


「お姉さーん! どこー!」


 遠くから、光美の呼ぶ声が響いた。坂道を一生懸命に駆け上がってくる真っ赤なコートの影と、その後ろで杖をつきながらも、一歩一歩大地を確かめるように歩く源一の姿。


 黄金色の光に縁取られた二人のシルエットは、長い影を引きながら、まるで一枚の古典的な宗教画のように神々しく、そして温かく見えた。


「これ、持っていけ。あっちじゃあ、ろくなもん食ってねえんだろ」


 源一は、不器用な手つきで古新聞に包まれた小さな塊を晴海に差し出した。中には、彼女が大好きになった自家製の肉厚な金目鯛の干物と、源一が漁の合間に少しずつ彫ったという、水仙の形をした小さな木彫りのキーホルダーが入っていた。


 荒れた指先で作られたとは思えないほど、その花びらは繊細で、どこか誇らしげだった。


「……源さん、ありがとうございます。私、明日、東京に戻ります。でも、逃げるためじゃなく、歩き出すために」


「わかってるよ。おめえさんの目は、時化を抜けて凪を見つけた後の海と同じだ。その光を、どんなにビルに囲まれても見失うんじゃねえぞ。ここでの『アイ』を、あっちの灰色の街でもお守りにして持っていけ。時々、この潮風を思い出しゃあ、立ち止まることも怖くなくなるさ」


 源一は、水平線を見つめたまま、ぶっきらぼうに、けれど確かな祈りを込めて言った。光美が晴海の腰にぎゅっとしがみつき、潤んだ瞳で見上げた。


「お姉さん、また寂しくなったら、この海を思い出してね。お姉さんの名前が、この海の色なんだもんね。また冬が来たら、真っ白な水仙と一緒に、晴れた海を絶対探しに来て! 約束だよ!」


「……うん。ありがとう、光美ちゃん。約束する。必ず、また会いに来るよ」


 晴海は光美の柔らかな髪を撫でながら、自分の内側にある「空洞」が、かつてのような虚無や欠落ではなく、温かな光と記憶を蓄えるための「器」に変わったことを確信した。挫折も、孤独も、消えゆくものへの哀しみも。すべては、自分が自分としてこの宇宙に存在し、他者と出会うための、かけがえのないギフトだったのだ。失うことは、新しい何かが入るための余白を作ることだった。


 翌朝。伊豆急下田駅のホームに立つ晴海の背筋は、かつてのように虚勢とプライドで張り詰められたものではなく、竹のようにしなやかで、しなやかな強さを持っていた。リゾート21の大きな窓越しに見える下田の海は、春の力強い光を浴びて、彼女の名前の通りに、どこまでも深く、キラキラと晴れ渡っている。


「行ってきます」


 誰にともなく、しかし自分自身に宣言するように呟いたその言葉は、柔らかな潮風に乗って消えていった。バッグの中には、茂樹のノートと、源一の干物、そして光美がくれた桜の花びら。


 晴海は、窓の外を流れるアロエの鮮烈な赤や水仙の誇り高い白を、今はもう、ただの過ぎ去る景色としてではなく、自分の一部として愛おしく眺めていた。


 かつて、この世の終わりから逃げるようにこの車窓を眺めていた彼女はもういない。晴海は、自分自身という名の「冬日和のギフト」を大切に抱き締め、新しい季節、新しい自分へと向かう列車に揺られていた。

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