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冬日和のギフト~4つのアイの物語  作者: 御園しれどし


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第1話 灰色の逃避行

 都心のタワーマンション、四十二階。冬木晴海ふゆき・はるみの視界は、いつからかモノクロームの砂嵐に染まっていた。


 壁一面の強化ガラスの向こう側に広がる東京の夜景は、数百万人の欲望と焦燥が血管のように這い回る巨大な回路基板だ。そこには「効率」という名の無機質な電流が、冷たい青白い光を放ちながら絶え間なく流れている。


 一ヶ月前まで、晴海はその回路のなかでも、ひときわ鋭利で機能的なパーツの一つだった。大手広告代理店のシニアプランナー。ハイヒールの踵を響かせて会議室を渡り歩き、分刻みのスケジュールを冷徹にこなし、競合プレゼンでは緻密なデータと論理を武器に、並み居る競合をなぎ倒してきた。


 周囲からは「鉄の女」と揶揄されることもあったが、彼女にとってそれは勲章ですらあった。昇進、年収、そして業界誌に載るような華やかな実績。それら「目に見える成果」だけが、彼女にとっての唯一の栄養素であり、自分という存在を肯定するための、唯一の酸素だった。


 だが、心血を注ぎ、週末の予定も、睡眠時間も、美容に割くはずだった時間もすべてを捧げた大規模プロジェクトが、上層部の理不尽な政治的判断によって一夜にして白紙となったとき、彼女の中で張り詰めていた細い糸が、乾いた音を立てて弾け飛んだ。


「……もう、いい。本当に、もう十分」


 その瞬間、世界から色彩が完全に消えた。翌朝、晴海は辞表をメールで送りつけると、クローゼットの隅で眠っていたボストンバッグに、お気に入りのカシミアのストールと最低限の着替えだけを詰め込んだ。


 向かう先は、熱海行きの新幹線。そこからさらに南へ、伊豆急行の「リゾート21」へと乗り換える。


 下田へと向かうその電車の座席は、都会の通勤電車とは根本的に異なる思想で設計されていた。海側の座席が、通路ではなく窓の方を真っ向から向いている。それは、乗客を「移動する記号」としてではなく、流れる景色を享受する「一人の人間」として扱っているようだった。


 天井近くまで広がる巨大な窓は、都会の地下鉄で押し込められていた閉塞感を一気に打ち破る。満員電車のなかで縮こまっていた肩や、他人の視線を避けるために固まっていた首筋が、圧倒的な開放感にさらされることで、物理的に緩んでいく。


 ここでは「効率よく運ばれる」ことよりも、「豊かに流れる時を眺める」ことが優先されている。その設計の思想そのものが、晴海の強張った身体を優しく解き放っていた。


 晴海は、無意識のうちに右の掌の中で震え続けているスマートフォンに目を落とした。画面には、状況を知らない後輩からの相談や、返信を催促する通知の赤いドットが、彼女の精神を無理やり都会の喧騒へ引き戻そうと、血の滴るような色で手招きしている。


 晴海は一瞬、眩暈に似た嫌悪感を覚えたあと、主電源を長く押し込んだ。液晶が吸い込まれるように闇に沈み、耳の奥で鳴り止まなかった通知音の残響が、ふっと消えた。「あ……」液晶が漆黒の闇に沈んだその刹那、顔を上げると、そこには暴力的なまでに鮮やかな「青」が待ち構えていた。


 数秒前まで執拗に追いかけてきたモノクロームの都会、冷たい回路基板のような夜景の残像が、眼前に広がる相模湾のコバルトブルーによって一瞬で粉砕される。視覚的なカタルシスが、網膜を通じて脳の奥へと突き刺さる。液晶の「黒」から世界の「青」へ。そのあまりに急激な色彩の転換は、彼女がこれまで見ていたものが、いかに矮小な虚構であったかを残酷なほど鮮やかに暴き出していた。


 相模湾の向こう側、冬の冷たく澄み渡った空気のヴェールを透かして、伊豆七島の島影がくっきりと、しかしどこか幻想的に浮かんでいる。大島、利島、新島……。それらは、何者かになろうとする努力も、誰かに選ばれようとする媚びも持たず、ただそこに「在る」という圧倒的な事実だけで完結していた。


 効率も、成果も、プレゼンの勝敗も。人間の、ましてや一人の女性の小さな挫折など一顧だにせず、数千年前からそこに浮かび、冬の低い日差しを全身に浴び、繰り返される波に身を任せている。


 晴海は、自分が「ぼおっと眺める」という、生きるうえで最も原始的で贅沢な時間を、いつの間にか効率という名の祭壇に捧げてしまっていたことに気づく。窓越しに降り注ぐ冬の陽だまりは、タワーマンションの完璧に管理された無機質な空調とは異なり、どこか不規則な熱を持ち、重厚なカシミアのストールを通り抜けて、彼女の冷え切った膝を温めた。


 電車が古いトンネルを抜けるたび、海の青は深いコバルトからエメラルドへとその表情を変え、沿道の斜面には、気の早いアロエの赤い花が、灰色の世界に対する反逆の旗印のように燃え立っているのが見えた。その足元には、凛とした白を湛えた水仙が、潮風に小さく頭を垂れている。


「茂樹おじいちゃん、あんたはこれを見ていたの?」


 祖父・冬木茂樹が愛した終着の地、下田。物理学者として、この世のあらゆる現象を数式という檻に閉じ込めようとした男が、なぜキャリアの最後に、あらゆる合理性から遠ざかった海沿いの古い平屋を選んだのか。


 晴海は、陽光で温められた窓ガラスに額を預け、網膜を焼くように流れていく色彩の奔流を、ただただ追いかけた。スマホの電源を切っただけで、世界はこれほどまでに多層的で、生命の拍動に満ちていたのか。


 やがて列車が減速し、伊豆急下田駅のホームに降り立ったとき、晴海の肺には、都会の排気ガスと高級な香水の混じり合った乾いた匂いではない、野性味を帯びた潮騒の香りと、水仙の甘く切ない香りが混じり合った、冬の冷たくも慈愛に満ちた空気が深く流れ込んできた。それは、彼女が「自分自身の人生」を思い出すための、最初の深い呼吸だった。


 伊豆急下田駅の改札を抜けると、空気の密度が明らかに変わった。 都会の乾いたビル風ではない。潮の香りと、どこか懐かしい生活の匂いが混じり合った、重みのある冬の空気。


 晴海は重いボストンバッグを肩にかけ直すと、バスやタクシーには目もくれず、歩き出すことを選んだ。駅から歩いて二十分ほど。市街地の喧騒を抜け、細い路地をいくつか曲がると、風景は一気に「生活」の色を深めていく。


 目指すのは、鍋田なべたという小さな入り江のすぐそばに立つ、祖父・茂樹の家だ。アスファルトを踏みしめる感触が、都会の滑らかなタイルや大理石とは決定的に違う。数日前まで彼女の足を痛めつけていたピンヒールの、あの不安定で攻撃的な歩幅ではない。


この日のために用意した歩きやすい靴の底が、土の混じった道を確実に捉える。背中にのしかかる重いバッグは、これまで捨てられなかった過去の執着やプライドの重みそのもののようだったが、一歩、また一歩と入り江に向かって坂を下りるたび、その重さが「負担」から、地面と自分を繋ぐ「確かな実感」へと変わっていく。物理的な負荷が、皮肉にも彼女の心を少しずつ地に足のついたものへと変えていくプロセスでもあった。


 鍋田浜は、観光客で賑わう白浜とは対照的な、隠れ家のような静かな浜だ。冬の午後の日差しを受け、入り江の波は穏やかな銀色に輝いている。その波音を遠くに聞きながら坂を上りきった場所に、目指す平屋はあった。


「……ただいま、おじいちゃん」


 誰もいないはずの家に向かって、晴海は小さく呟いた。 鍵を開けて中に入ると、ひんやりとした静寂が彼女を包み込んだ。長年、物理学者として過ごした茂樹の家は、整理整頓が行き届いていながらも、どこか浮世離れした空気が漂っている。


 晴海が真っ先に向かったのは、奥にある書斎だった。 壁一面の書棚には難解な物理学の専門書が並んでいるが、デスクの中央には、一冊の分厚い革表紙のノートがぽつんと置かれていた。まるで、誰かが来るのをずっと待っていたかのように。ノートの表紙には、茂樹の端正な筆跡でこう記されていた。


『存在の仕組み、あるいは愛のルールについて』おそるおそるその表紙をめくると、指先に伝わるのは、長年の時を経た紙の、しっとりと重みのある独特の質感だった。開かれたページには、インクの掠れや、万年筆のペン先が紙を強く押した跡が生々しく残っている。微かに漂う古い紙と、かつての祖父が愛用していた煙草のような、あるいは書斎特有の落ち着いた匂い。その一つ一つが、数式だけでは語り得ない茂樹の体温を伝えてくる。


 晴海は、まるで祖父の手を直接取ったかのような錯覚に陥りながら、その思考の深淵へと吸い込まれるように文字を追った。その最初の章には、これから晴海が辿ることになる道標が記されていた。


『須崎から爪木崎へ続く海沿いの遊歩道。あの道を歩くとき、人は剥き出しの自分と対峙することになるだろう。海と風、そして岩場に咲く花々。それらが放つ沈黙の言葉を、いつか晴海にも聴いてほしい。理屈を捨て、ただ歩く。それが「存在の仕組み」に触れる第一歩となるはずだ』


「おじいちゃん……」


 都会での晴海は、常に自分を「何者か」として定義し続けなければ、その場に立っていることすら許されないと感じていた。だが、この静かな部屋で、窓から差し込む冬の日差しに照らされた文字を追っていると、その強迫観念が少しずつ、砂の城のように崩れていくのを感じた。


「おーい、茂樹の孫か? 鍵が開いてるから入ってきたぞ」


 不意に、庭側から野太い声が響いた。 驚いて窓の外を見ると、そこには潮風に焼かれた顔をくしゃくしゃにさせた、一人の老人が立っていた。手には、今しがた獲ってきたばかりであろう立派な真鯛をぶら下げている。


「あ……はい。冬木晴海です」


「やっぱりか。茂樹から聞いてたよ。俺は山川源一。そこの下に住んでる漁師だ。みんなからは源さんって呼ばれてる」


 源さんは、遠慮なく縁側に腰を下ろすと、鯛を晴海に差し出した。


「ほら、食え。腹が減ってちゃ愛もへったくれもねえ。茂樹のノート、見つけたみたいだな。あいつは物理学者なんて肩書きだったが、最後はただの『下田の隠居』として、この海と心中するつもりで生きてたんだよ。落ち着いたらまた来い。いいか、まずは寝ることだ」


 源さんの豪快な笑い声が、静まり返っていた家に新しい風を吹き込んだ。 源さんが去ったあと、晴海は言われた通りに鯛を捌こうとしたが、その前にどうしようもないほどの倦怠感に襲われた。


 彼女は書斎の隣にある、陽当たりの良い和室へ移動した。 南向きの掃き出し窓からは、冬の柔らかな日差しが、たっぷりと黄金の帯となって畳の上に降り注じる。その光の中では、小さな埃の粒がスローモーションのようにダンスを踊っていた。晴海は吸い寄せられるように、窓際の陽だまりに横たわった。


  カシミアのストールを枕代わりにし、ただじっとしている。都会のタワーマンションでは、太陽は「眩しくてカーテンで遮るもの」か、あるいは「日没を確認するための時計の代わり」でしかなかった。


 だが、この部屋の日差しは違う。それはまるで意志を持っているかのように、彼女の冷え切った指先、凝り固まった肩、そして深く傷ついた心の隅々まで、優しく、しつこいほどに包み込んでくる。


 まぶたを閉じると、網膜の裏側にオレンジ色の温かな光が広がった。 遠くで聞こえる鍋田浜の波音が、ゆったりとした呼吸のリズムと重なっていく。


「……あ、私、疲れてたんだな」そう自覚した瞬間、急速に意識が遠のいていった。都会で張り巡らされていた、神経の細い糸が一本ずつ、ぷつり、ぷつりと解けていくような感覚。畳から伝わる、い草の懐かしくも落ち着いた香りが鼻腔をくすぐり、深い安堵が身体の芯から溢れ出す。


 自分という存在の境界線が曖昧になり、そのまま畳の中に溶け出していくような、抗いようのない心地よさ。重力に身を委ね、ただそこにあるだけの「器」になる。


 晴海はそのまま、数年ぶりと言えるほどの、暗く深い、そして圧倒的に穏やかな眠りに落ちていった。 それは、何者でもない「ただの自分」に戻るための、死のような、そして再生のような休息だった。

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