朝霧に包まれて…
1年前にアパートに引っ越したばかりの三好英太は今年で36歳になる独身の会社員である。彼は近頃、太りだした体形に危機感を覚え、半年前から日課として早朝5時に起きてジョギングを行なう。この日もその時間になると目を覚まし、すぐにジョギング用の服装に着替えて出かける準備をしていた。
(毎日毎日、同じコースばかり走っていると飽きてくるなぁ、確かこの近くに人工の湖があって、その湖を囲むようにサイクリングロードがあると聞いていた。その道で散歩やジョギングを行なうために利用する人も少なくないとも聞いている。よし、今日はそこに行ってみるか)
英太は机の本棚から地図を取り出し、簡単な見取り図をメモ帳に記してトレーニングウェアのポケットに入れた。時計は早朝5時10分をさしていた。窓を開ければうっすらと明るくなった空に星が見える。周辺の植木も風に揺れている様子もない。
(よし、いい天気だ。出発するか)
英太は自宅のアパートを出るとメモ帳を取り出し周辺を見回した。広い道路に出るといつもなら駅方面に向かうのだが今回は反対方面に足を向けて歩く。あたりは静かで人影もなく、すがすがしい空気が英太を包み込んでいた。少し歩くと細い砂利道があり、そこを突っ切ると斜面15度くらいの道幅の広い坂が見えてきた。
(そうか、ここを登っていけば久倭湖という湖がある。入ってみよう)
坂は全長300メートルはあるだろうか…英太はこの地に引っ越したのは1年前だがこの場所に来るのは初めてだった。民家ばかりで気を引くような店もなく、とりたてて用事もなかったからだ。しかし今回は違う。新たなジョギングコースとして英太の日常の生活にはかかせない場所になるかも知れない。そんな期待感を膨らませながら彼は坂を登った。
突き当たりまで進むとそこは緑豊かな地域であった。左右に舗装されたかなり幅のある道が敷かれてあるが、どうやらこの道がサイクリングロードだ。自動車が中に入れないように工夫がされており、道の床には矢印が左側と右側に一定間隔で書かれていた。突き当たりを左に曲がると英太は少しずつ走り始めた。なんだかとても気分が良い。左手にある柵の向こうに微かだが湖が見えてきた。しばらく走っていると柵の向こうより緑が開けて久倭湖が大きく顔を出し始めた。地図で見て想像するより、意外にも広い人工湖であった。
(なんて美しい景観だろうか。こんな場所が自分が住むアパートの近くにあったなんて)
英太はすっかり感動し、走りながら首を左に振っては湖を見回した。
(俺はいままで何処を走っていたのだろう…貴重な時間を無駄にしてしまった感がある。そう思わせるほどここは素晴らしい。ジョギングコースとして最適のエリアだ)
太陽が昇り始めている。薄紫色の空はとても美しく、英太の心は躍った。あれはいつだっただろうか…久々に自宅にある体重計に何の気なしに乗っかったら80kgをオーバーしていた。若い頃はむしろ痩せていてもっと体重を増やしたいと思っていたのに…今ではどうすれば体重を減らすことができるのか…最近は毎日のように体重計に乗る英太は悩み続けていた。ジョギングは運動不足を解消するためでもあった。それだけに早朝に起きて走ることの辛さをカバーしてくれるものなら、どんなものだってかまわないと彼は思った。それが今日、見つけたこの場所である。
(これは有難い。人生に楽しみが増えるというのは良いことだ。これからは毎朝、この美しい緑あふれる道とその横に広がる湖を眺めながら走り続けるのだ)
しかし英太は気になっていることがあった。たとえ早朝といえど自分以外は誰もいないのである。これほどジョギングなりサイクリングに最適な場所なら、自分と同じ悩みで走ったり歩く人がいてもおかしくない。それに今日は良い天気であるから散歩がてらにここへ来る人がいてもいいはずだ。絶好のランニングコースであり運動不足を解消させる場所である。
(いつもは朝早くから利用者であふれていると聞いたけどなぁ、今日に限って誰もいないということか…まあ、いいや、人がいない分、広々と道が使える。とにかく今日は気分がいい)
あたりはシーンと静まり返っている。自分の足音と呼吸音以外、何も聞こえない…英太がしばらくそのような状況で走っていると霧がうっすらと立ち込めてきた。
(気のせいかな、霧が濃くなっていくような…普通、朝日が昇るころって霧は晴れないかなぁ~よく分からないけど)
走りながらスマホをポケットから取り出し時間を確認すると6時をまわったところであった。空はだいぶ明るくなっているのだが目の前に広がりつつある霧が英太の全身を包み込み、いつしか景色もぼんやりとしか見えなくなっていた。それとともに彼の心も何か沈んでいくような居心地になっていった。
ふと、はるか前方から何か引きずるような音がしてきた。その音はしだいに大きくなっていく。何かが反対側から向かってきているようだ。英太は自転車だろうかと最初は思ったのだが、その音とは違う。何か…懐かしい感じのする音であった。
キ~コ~キ~コ~キ~コ~キ~コ~
(そうだ。これは子供用の三輪車を漕ぐ音だ。幼児が小さな足で不器用にも走らせようとして、ペダルを踏みつけて賢明に漕いでいるときの音だ)
目の前には霧が広がっている。その霧の向こうから黒い影のようなものが見えてきた。やがてその影は輪郭をもってくっきりと英太の目に入ってきた。目の前に迫ってきたのは三輪車に乗る3歳くらいの女の子であった。黄色いワンピースに三つ編お下げ頭の可愛い女の子が、何十年前だかよくわからない旧式の三輪車を漕いで近づいてくる。ペダルを漕ぐ音も大きくなり相当にガタがきているようなぎこちない音であった。英太はゆっくり走りながら女の子の顔をうかがうと、その女の子の眼差しは真っ直ぐに前を見ており、彼の存在など気にしてないように思えた。だが、すれ違うとき、ほんの一瞬だがチラッと自分の方に振り向いたような気がしたのであった。
すれ違ったあと、英太は後ろを振り向くと、三輪車は霧の中を縫うようにどんどん遠ざかっていく。やがて漕ぐ音も聞こえなくなり、彼の耳には自分の足音と呼吸音しか聞こえてこなくなった。しだいに霧が晴れていく中、彼は考え始めた。
(あの女の子は…こんなに朝早く三輪車なんかに乗って…何処へ向かおうというのだろう?いや、それ以前の問題として、どこから来たのだろうか…どうやってこの道に辿り着いたのだろう)
英太は考えれば考えるほど気味が悪くなってきたが、ここはひとつ、別角度で考えてみようと彼は思った。
(どこかに親がいるのだろう。親はこの周辺のどこかで散歩でもしていて子供もついて来た。うん?こんなに朝早く?まだ6時をちょっと過ぎたばかりだぞ、普通、寝てないか?あんな小さな子供…)
キ~コ~キ~コ~キ~コ~キ~コ~
聞こえてきた。今度は後ろの方から。聞き覚えがある、あの三輪車の音だ。
(えっ?引き返している?そ…そうか、やっぱりどこかに親がいて、その親のいるところまで引き返しているわけだな。ずいぶんと遠くまで来てしまったようだけど。はっはっはっ)
英太はそう思いつつ、背中になにか悪寒のようなものが走って仕方がなかった。やはり腑に落ちない点が多いのである。あんな小さな子供がこんなに朝早くから湖の近くまで来て三輪車を漕ぎ続けていることが。そもそも自分とあの女の子以外、人のいる気配がまったく感じられないのである。耳を澄ませば後ろで聞こえる三輪車の音が大きくなっていく。英太はしだいに速度を上げて走り出した。すでに体力は消耗しているが得体の知れない恐怖感がこみ上げてきてそれが足を動かしていた。
キコキコキコキコキコキコキコキコ
三輪車のペダルを漕ぐスピードが早くなっている。どんどん近づいてきているようだ。英太の額にべっとりと汗が滲み出ていた。それが顔の油と混ざってテカテカと光っている。
(まるで追いかけてくるような勢いだ。いや、待てよ。実際に追いかけているのではないのか?俺を…)
英太は後ろを振り向く勇気もなく、ただ、追いつかれまいとひたすら走り続けた。このサイクリングロードは湖を囲むように円の形をしているので、いずれは元に来た道に出られるはずだ。そう信じて彼は息を切らしながら人気のない道を走り続けた。
(なんでこんなことになっているんだ?来たときは喜びでいっぱいだったのに)
走り続けているうちにサイクリングロードに入るために通った坂が見えてきた。どうやら元の場所に戻れたようだ。英太は速度を落とさずに右に曲がると転げ落ちるように坂を下り始めた。足はもたついて体勢はガタガタだったが、それでも彼は体力を振り絞って急な坂を下りていく。頭の中は真っ白だった。坂を下りきって砂利道に入り、なおのこと走り続ける。しばらくすると自宅のあるアパートに続く道にようやく出ることができた。あとはアパートまでこの道を進むだけである。すでに三輪車の音は聞こえない。
(はぁ、はぁ、着いたか。いやぁ~まいったな、とんだマラソンコースだった)
自宅のドアを開け、部屋に入った英太は倒れこむように大の字になり、天井にある蛍光灯を見つめながら安堵した。時計は6時30分をまわり、すでに日差しは窓を明るく照らしていた。
(それにしても何だったんだろ?あの女の子は……おそらく朝早く起きてしまって外に出てしまったのかな?子供ってそういうことあるもんなぁ、ふら~と出歩いたり1人で遊んでいたり…)
英太がしだいに落ち着きを取り戻そうとしたその時である。
キ~コ~キ~コ~キ~コ~キ~コ~
(えっ!この音は…ウソだろ?)
キ~コ~キ~コ~キ~コ~キ~コ~
(聞こえる。確かに聞こえる。ついさっき、久倭湖のサイクリングロードで聞いたあの音だ。古びた三輪車の音だ。ここまで来た?それともこのあたりに住んでる?いや、そんなバカな!)
その音はだんだん大きくなっていく。あきらかに近づいている。英太は上半身を起こし玄関のほうに目をやった。その音はさらに大きくなり英太が住むアパートの付近まで来ると、そこでピタリと音が止んだ。英太の心に緊張感が走った。すると今度は音の向きが変わった。アパートの手前で曲がったのだ。曲がった先には英太のいる105号室がある。彼は気が動転しながらも部屋の中でじっと堪えている。そしてその音の正体である三輪車が、先ほどから彼が見ている玄関のドア付近で停止したのである。
(おい、冗談だろ?勘弁してくれよ。何がどうなっているんだかさっぱり分からない)
しばらくすると女の声が聞こえる。
「ほらぁ~、みいちゃんダメでしょ、こんな遠いところまで勝手に出かけたりしたらぁ、それも壊れた三輪車に乗ったりしてて」
これを聞いて英太は内心ホッとした。女の子の母親に違いあるまい。母親が子供を追いかけてきたのだ。まったく世話のやける子供だ。しかしこれは親の責任でもある。こんな朝っぱらから外出している子供に気付かないんだからと彼は思った。
(よし、俺からも注意してやるかぁ、朝早くから小さな子供があんなガタガタの三輪車なんかに乗って、あっちフラフラこっちフラフラ…おまけに見ず知らずの他人の家にまでついて来て…大迷惑だ)
英太は勢いよく立ち上がり玄関先まで歩いた。そしてドアを開けながら言った。
「あのですね、ジョギングしていた者ですけど。危ないですよ~子供が一人でふらふらと……」
外を見ると誰もいない。あたり一面静まり返っている。ひんやりとした空気が部屋に入り込む中、英太はドアノブを握ったまま体が硬直し、しばらくは動けなかった。
了




