第5話:情報のアンカー
アムネシアのアンカーを一時的に停止させたことで、地下の空気は張り詰めた緊張から一転、奇妙な静寂に包まれた。時空保存会の工作員たちの動きは止まったが、それはわずか数分間の猶予に過ぎない。
「時間が惜しいわ。彼らはすぐに追跡を再開する」
アヤメはヒロトの手を強く引き、通路を進んだ。彼女は解析端末をアンカーから切り離す際、その一時停止の限界時間と、アンカーが最も脆弱になるタイミングのデータを抽出し終えていた。
「消去のタイミングは?」ヒロトが尋ねた。
「今ではないわ。完全に消去するには、もう一度アンカーを稼働させ、最大のエネルギーを放出するタイミングが必要。その時が、ループの終焉よ」
二人は地下通路を抜け、大学の外れにある廃墟と化した旧研究棟へと逃げ込んだ。
アヤメはすぐに、携帯端末を取り出し、配信アプリを起動させた。彼女は覆面ライバー「アヤメ」の隠されたネットワーク、つまり、過去のループで彼女に協力し、今回も記憶の片鱗を持つ転生者たちに向けて、最後のメッセージを送る準備を始めた。
「私は今から、ライブ配信を行う。これは、私たちの運命の書き換えの告知よ」
◆
アヤメの配信は即座に始まった。タイトルは『終焉と、自由意志の証明』
彼女は画面の向こうの視聴者たちに、比喩的な言葉を使いつつ、自分たちが直面している「非線形時空理論」「ループの真実」「アムネシア」の存在、そして「時空保存会」による追跡の事実を、隠された情報として送り込んだ。
「私たちは長い間、一つの螺旋階段を昇り続けてきました。そして今日、その階段を降りて、自由な道を歩むことを選択します。しかし、それを許さない**『安定』という名の圧力**があります」
彼女の配信が始まると、コメント欄には熱狂的なファンからのメッセージが溢れたが、その中に、ごくわずかだが、核心を突いたメッセージが混ざり始めた。
COMMENT: 祭祀場の座標は間違っていない。我々も加勢する
COMMENT: 安定は、死を意味する。自由を選べ
これこそが、アヤメが探していた、過去世からの協力者たちだった。
ヒロトは、配信を通じて情報を拡散し、敵に立ち向かうアヤメの姿に、改めて心を奪われた。彼女の行動は、単なる配信ではなく、時空を越えた革命の呼びかけだった。
その時、廃墟の入口から、複数の足音が響いた。時空保存会が、アムネシアのアンカー再稼働の直前に、彼女たちを捕らえるべく、追いついてきたのだ。
◆
保存会が廃墟に突入してきた。リーダーのカシワギが先頭に立っている。
「アヤメくん、ヒロトくん。抵抗は無意味だ。君たちがしているのは、愛の証明ではなく、世界の破壊だ。君たちの愛は、未来からの情報操作によって作られた偽りの愛に過ぎない!」
カシワギは鋭く指摘した。その言葉は、ヒロトの心に再び疑念の影を落とす。
(本当にそうなのか? 俺たちが惹かれあうのは、アムネシアのプログラムの結果なのか?)
アヤメは配信を一時停止し、カシワギに向き直った。
「違うわ、カシワギ! あなたたちが守ろうとしているのは、安定ではない。死んだ過去よ。私たちを縛りつけた偽りの因縁の中で、私たちが唯一見つけた真実が、この感情なのよ!」
アヤメの言葉には、1000年の輪廻の苦しみが込められていた。
カシワギは容赦なく、工作員たちに時空安定器を作動させるよう指示した。安定器は、空間に鈍いノイズを発生させ、ヒロトとアヤメの記憶を初期化しようとする。
ヒロトは動けなかった。カシワギの言葉の呪縛が、彼の足を絡め取る。
「アムネシアの消去コードを実行すれば、君たちの愛も、この戦いの記憶も、全てが歴史から消滅する。それでも、君は彼女を選ぶのか!」カシワギが叫んだ。
◆
記憶が消滅する恐怖、そして愛が偽りかもしれないという疑念。ヒロトは極限の葛藤に苛まれた。
その時、アヤメはヒロトに向かって走り寄り、彼の頬に両手を添えた。
「見て、ヒロト。あの平和な過去の記憶を」
ヒロトの脳裏に、第3話で見た、アムネシアの影響を受ける前の、平和な過去世の光景が再びフラッシュバックした。
「私たちは、偽りの因縁が始まる前も、愛し合っていた。あなたの感情は、決してプログラムではないわ」
彼女はヒロトに強く抱きついた。
「たとえこの記憶が消えても、私たちの魂の奥底には、『自由な愛を選んだ』という意志が残る。それが、次の周回で私たちを再び引き合わせる、真の運命となるわ」
ヒロトは、アヤメの温もりの中で、究極の決断を下した。
偽りの記憶に囚われて生きるよりも、自由な未来のために、愛の記憶を消滅させる。
「行くぞ、アヤメ。愛の証明は、消去コードの実行だ」
ヒロトとアヤメは、互いの愛を確かめ合うように強くキスをした後、保存会の包囲網を突破。アヤメの配信ネットワークからの情報で示された、アンカーへと戻るための唯一のルートへと向かって、闇の中へ走り出した。
二人の姿が消えた後、カシワギはヒロトたちが逃げ込んだ通路を見つめ、静かに呟いた。
「……彼らは、消滅と引き換えに、自由意志を証明しようとしている。彼らのカルマは、想像以上に根深い」




