第10話:デジャヴュの先の未来(最終話)
時は、数か月後。
ヒロトは、ごく普通の大学生として、穏やかな日常を送っていた。あの地下室で意識を回復して以来、過去の不可解な出来事に関する記憶は一切なく、もちろん、デジャヴュに悩まされることもなくなった。
大学に戻ったヒロトは、以前の自分とは少し違っていた。以前は趣味だったはずのゲーム配信にも興味を失い、今はただ、目の前の学業に集中している。友人たちから見れば、少し落ち着いたという程度で、特に大きな変化はなかった。
彼が唯一持っていた奇妙な習慣は、時折、ぼんやりと空を見上げ、胸の奥にある**「満たされた喪失感」**に触れることだった。何か大切なものを失ったはずなのに、その喪失感こそが、彼に深い安寧を与えていた。
ある冬の日、ヒロトは大学の図書館にいた。テスト期間中ということもあり、静寂に包まれた書棚の間を歩いていた。彼は、物理学のコーナーで一冊の古びた論文集に手を伸ばした。
その論文集の表紙には、**「非線形時空論」**というタイトルが印字されていた。
ヒロトはそれを目にしても、何の既視感も、興味も湧かなかった。彼はその論文集を元の場所に戻し、別の専門書を探そうと、棚の角を曲がった。
◆
その瞬間、彼は立ち止まった。
棚の角を曲がった先に、一人の女性が立っていた。
彼女は、冬の光を浴びた柔らかな茶髪をしており、穏やかな表情で、歴史書の背表紙を眺めていた。
ヒロトの脳裏に、彼女に関する情報は何一つない。初めて見る顔だ。しかし、ヒロトは彼女の存在を視界に捉えた瞬間、全身にごく微かな、温かい電流が走るのを感じた。
それは、以前の彼を苦しめた強烈なデジャヴュではない。**静かで、心地よい「懐かしさ」**だった。
(……ああ、この感覚。これだ。この胸の奥の満たされた喪失感は、この人のためのものだったのか)
ヒロトは、記憶がないにも関わらず、その女性が自分にとって**「非常に大切だった人」**であることを、本能的に理解した。
女性はヒロトの視線に気づき、静かに振り返った。彼女の瞳は、まるで遠い過去の光を宿しているかのように、透き通っていた。
そして、彼女の瞳にも、ヒロトと同じように、**「初めて見る人なのに、懐かしい」**という、微かな驚きの色が浮かんだ。
彼女の記憶からも、「アムネシア」によるループの記録は完全に消え去っていた。
◆
二人は数秒間、言葉もなく見つめ合った。
その沈黙の中に、1000年の偽りの因縁はなく、新しい、まっさらな時間だけがあった。
先に口を開いたのは、彼女だった。彼女の声は、ヒロトにとって全くの初対面であるにもかかわらず、どこか安堵感を覚える、優しい響きを持っていた。
「あの……このコーナーの歴史書、とても面白いですよ。特に、1000年前の祭祀場に関する記述が」
彼女は、ヒロトが以前、アムネシアのアンカーを探しにいった、あの場所を示唆する歴史書を手にしていた。
ヒロトは微笑んだ。その微笑みは、偽りの運命に縛られていた過去世の彼には決して見せられなかった、自由な意志による、心からの笑みだった。
「そうなんですか。じゃあ、読んでみます」
ヒロトは、彼女が手にしていた歴史書を指差した。
「興味が湧きました。あなたのおすすめなら、きっと」
その瞬間、二人はお互いに、なぜだか分からないけれど、この人と話したい、この人を知りたいという、抑えきれない衝動を感じた。それは、プログラムされた運命でも、呪いでもない、純粋な個人の選択だった。
千年の因縁は、彼らの自由な意志による選択と引き換えに、時間軸から消滅した。彼らは全てを失ったが、その代わりに、何にも縛られない「再会」という、真の贈り物を得たのだ。
「私、アヤメと言います」
「俺は、ヒロトです」
アヤメとヒロトは、穏やかに、しかし未来への強い期待を込めて、握手を交わした。
彼らの物語は、今、**「デジャヴュの先の未来」**で、再び始まった。
終わり




