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たぶんホラーの短編集

フローチャート症候群

 夕食を食べ終え、リビングのソファーでのんびり本を読んでいるときだった。顔を上げ、食器を洗っている妻に男は投げかけた。


「今年の誕生日は何がほしい?」


 妻の誕生日のちょうど一ヶ月前の、今日の、この時間に訊ねようと男は決めていた。 それは毎年恒例になっていて、答えは必ず、「なんでもいい」と返ってくる。 そのはずだった。


「犬がほしいです」


 眼の前のローテーブルにお茶をおいて、妻の低く抑揚のない声に男は耳を疑った。


「犬がほしいだって?」


 驚きのあまりつい声が裏返ってしまった。 「なんでもいい」以外の答えなど、微塵も考えていなかったからだ。 しかも、よりによって犬がほしいなんて。先日、この夫婦は愛犬のコムギを失ったばかりだ。子どもたちが独立して、家に二人だけになった夫婦にとっては、精神安定剤のような癒やしの存在だったのに。


「君はどうしてそんなことを言えるんだ?」


 思わず言葉がこぼれ出た。

 散歩用のリードだってまだ玄関の壁掛けにかかったままだ。次の犬なんて考えらる時ではない。長年一緒に過ごしたコムギは家族同然の存在だったのだから。


(コムギの死が受け入れられないからこそ、こんなことを言い出したのだろうか)


 主に世話をしていた妻は、心の穴を埋められないのかもしれない。 男がそう思い始めた矢先、


「犬がほしいのは、予定が狂うからです」


 妻はそう冷たく言い放った。


「予定? どういことなの?」


「予定は予定です。朝起きて、コムギの世話をするという予定が消え、作業リストが埋まりません」


「何を言っているんだ?」


「作業リストの話です」


「作業って。コムギが死んだというのに悲しくないのか」


「悲しいです」


 妻は白々しくも答える。男は何も言えなくなってしまった。


 前の妻はこんなじゃなかった。もっと表情豊かに笑い、愛情深い人だった。

 それに、基本はいい妻なのだ。

 朝は男のためにきちんと和食の朝御飯と昼飯用の弁当を作ってくれる。男の出勤を見送ったあとに妻も仕事へ行くが、男が帰る頃には夕飯の支度から掃除、洗濯まで完璧に終えた状態になっている。

 昔は一緒に夕飯と晩酌をしていた。そして、今日あった出来事や、子どものこと、気になったニュースなんかを他愛もなく話せたのに。今は別室へ行ってしまう。

 いつからか。妻は変わってしまった。


(もう、あれしかない)


 男はかねてから考えていた特別なプレゼントをすることにした。



 妻の誕生日当日、妻は仕事で男は休みだった。サプライズにはもってこいだ。

 妻が帰宅すると、ダイニングに見知らぬ女が座っていた。


「お帰り」


 女の隣で、男は妻に微笑みかける。 妻は訝しげに訊ねた。


「誰ですか?」


「これはロボットだよ」


「ロボットですか?」


「よくできているだろ?」


 近づいてみると、確かにそれは人型のロボットだった。見た目は綺麗な女性だが、首から下は服ではなくて黒い布が巻かれていて、白いプラスチックのような素材がその隙間から見えている。


「君へのプレゼントだ」


「嫌です」


「なぜ? 犬がほしいといっただろう?」


「これは犬ではありません」


「そうだけど、精巧にできたロボットなんだよ?」


 妻は上着も脱がずにただ黙って男を見ていた。無言で投げかけられた妻の視線の中に戸惑いと怒りを感じ、男は弁明を始める。


「試作品をもらってきたんだよ」


「試作品ですか」


「取引先から頼まれたんだ。テストを兼ねて使ってみて欲しいって」


「取引先ですか」


 男は医療関係の仕事をしている。果たして取引先に人型のロボットを作るような相手がいただろうか。自社には研究室があるけれど。あんまり話すとボロが出そうなので、男は立ち上がって、妻の背を押してロボットのそばに無理やり立たせた。


「きっと気に入るよ」


「無理です」


「日常会話もできる人型のスマホと考えればいいよ」


「考えたくありません」


「コムギの代わりなんだよ?」


「でも、これは犬ではありません」


「予定を埋めたいだけなら、犬である必要はない」


 男はきっぱりと言った。妻は反論できず、黙っている。


「このロボットはお世話オプションがついているんだ。毎日話しかけて、身の回りの世話をしてやると、学習して親密になれる。食事オプションもつけたから一緒に食卓を囲めるんだよ」


「気味が悪いです」


「すぐに慣れるよ」


「扱い方がわかりません」


「説明書ならスマホで見られるんだから調べればいい。君の手で育ててくれ」


 夫は妻の意見を聞く気など微塵もなかった。


「さあ、夕飯にしよう。今夜は外食にしようか」


 妻はわかっていた。


 夫が決めた、「このロボットの世話を妻がする」ということは、もう揺らぐことはない。



 次の日からロボットの世話が始まった。


 ロボットは『ムギ』と名付けられた。夫が購入時につけた名前だった。妻が犬を望んでいたのだから、死んだ愛犬『コムギ』と似た名前がいいだろうという理由で一方的に決定した。


 妻はすぐに使い方を覚えた。


 夜のうちに充電を済ませたロボットはキッチンの入口のそばにおいた椅子に、電源が切られたまま座っている。ちゃんと妻の買ってきた服を着て、背筋を伸ばしたまま瞼を閉じている。


 妻がロボットの右耳の後ろについている電源を入れると水琴窟みたいな音が低く鳴り、ゆっくりと目を開いてロボットは起動した。


「おはよう、ムギ」


 妻が言うと、ロボットは2回瞬きをしてから、


「おはようございます」


 と、高く澄んだ声で返した。


 起動したら、必ず挨拶をしなければならなかった。


 妻は朝食の準備をしながら、ムギに話しかける。


「ムギ、今日の天気は?」


「今日の天気は晴れ、午後から風が強くなる予報です。洗濯物が飛ばされないようにご注意ください」


「ムギ、今日の予定は?」


「今日の奥様の予定は、5時00分起床。6時00分、雨戸を開け、軽く掃除。朝ごはんと弁当を作る、ゴミ捨て、今晩の夕飯の下準備、夫への朝ごはん提供、食後は食器を下げる。洗濯物を干す。風呂掃除。自分の身支度。夫の見送り。8時30分、お仕事へ出発。17時30分頃、帰宅。夕飯を作る。夫へ提供。風呂、眠る、です」


 ムギは流暢に答えた。


「ありがとう」


 妻は答えてから、ムギのそばにダイニングの椅子を引き寄せ腰掛ける。


「ムギ、食べて」


 妻の言葉にムギは精巧にできた唇をゆっくりと開ける。真っ暗な口の中に朝ごはんのたまご焼きを入れると扉は閉まった。


 ムギは黙り込む。ムギの中のデータと今日のたまご焼きが照らし合わされ、たまご焼きの出来具合を調べている。


「今日もとてもおいしいです」


 ムギは微笑んだ。それを聞いた妻も微笑む。スマホには栄養素やカロリーなどのデータと、塩分が多くないかなどの注意点の他に、妻のたまご焼きを褒めちぎる文言の入ったメールが送られてきているはずだ。

 ムギがたべたものは一日体内に溜められ、特別な薬品と圧力でキューブ状になって排出される。それを庭のコンポスターへ入れれば堆肥になってくれる。ゴミは一つも出ない。

 その代わり、妻は毎日部品を洗わなくてはならない。週に一度内蔵された薬品の詰替を行わなければならない。


 もちろん、毎日服を取り替える。そのために妻はムギの服を何着か買ってきた。寒い日は上着を着せ、暑い日は半袖シャツ。夜はきちんとパジャマを着せる。妻は喜んでいるように見えた。女は服が好きなはずだから。


 そうして、世話をするという「予定」はしっかりと埋めることができたのだ。


 世話をするとムギもそれを覚えていて、妻に感謝をするようになる。お世話をしたら「ありがとう」といわれるのを繰り返し、ちいさな成功として妻の心に積み重なっていく。


 話しかければ話しかけるほど会話の内容から情報を蓄積していくため、妻の好みなんかも覚えていく。


 ネットに繋いであるから、わからないことを質問すれば、検索した結果から答えを導き出してくれる。仕事のスケジュールも管理してくれる。


 妻はきっと満足しているだろうと、男は思っていた。



 ある日のことだった。 妻が風邪を引いた。高熱が出て、起き上がることができないほどだった。


「僕のことは心配しないで」


 男はうなされている妻の枕元にスポーツドリンクと解熱剤を置くと、仕事へと出かけていった。

 三日間寝込んで、妻の熱は下がった。


 その間、ムギは起動しなかった。


 これまで毎日起動して、毎日話しかけていたから、三日も休ませたらどうなるのか、誰にもわからなかった。妻はまだ微熱が残る中、寝室からムギのいるダイニングへと移動した。


 ムギはいつも通りの座っていた。目を閉じて、姿勢正しく。


 右耳の裏側にあるボタンを押し、妻は起動音に耳を澄ませる。たった三日ぶりだというのに緊張した面持ちでいた。きっと心拍数が上がるのを感じながら、じっとムギを見つめているのだろう。 そして、ムギはゆっくりと瞼を上げた。


「ムギ、おはよう」


 ムギは2回瞬きをしてから、


「おはようございます」


 いつも通り、高く澄んだ声たった。いつもと変わらない朝の挨拶だ。


 しかし、その両目から水と思われる透明な液体が流れ落ちている。


「ムギ、どうしたの?」


「嬉しいのです」


 ムギはいつもの声で言った。


「奥様にまた会えて嬉しいです」


「目から出ているのは何?」


「奥様に嫌われたのか、あるいは何かあったのかもしれないと思いました。もう会えないかと思いました。でも、会えた。そうしたら、目からこぼれ落ちました」


 妻はテッシュで水を拭き取りながら、じっとムギを見つめた。


「水が出るなんて、説明書にはない」


「きっと、奥様が心を育ててくださったから。ありがとう」


 妻の頬に音もなく涙が流れた。そして、嗚咽を堪えながら、やがてうずくまって泣き始めた。 ムギは自分を心から心配してくれた。 そして、妻を思う心が涙を流すということを覚えさせた。

 ロボットが心を覚えた。

 そのことに感動しているに違いない。


(妻もようやく、人間らしい心を取り戻したようだな)


 ムギの目に内蔵されたカメラの向こうで男は満足気に微笑んだ。


 職場のパソコンには妻の姿がしっかりと映し出されている。妻とムギとの会話も記録され、試作品の実験データとして蓄積されている。


 ムギは近頃社会問題になっているフローチャート症候群の改善のために開発された医療用ロボットだった。男の勤める会社の研究開発部による試作品だ。効果が曖昧で商品化への見込みは薄かった。


(妻が回復した様を見せれば、商品化間違いなしだ)


 フローチャート症候群は、一見、何もかも器用にそつなくこなす有能なタイプに多い。 プライドが高く、目標達成のためになんでも合理的に行うことを追求するような人が陥りがちだ。


(ロボットを使って自力で治せるなら、きっと喜んで買うだろうよ) 


 とにかく失敗をしないように、恥をかかないように、世間一般の正解や、そつなくやり過ごす方法をネットやハウツー本などで必死に学ぶような人間に多いのだから。 自分の意志や感情が麻痺し、自己の心が凍りついていき、優等生的であり、機械的になる。言葉だけ見たら成立しているし、内容的には思いやりがあって心がこもっているのに、相手に全く伝わらなくなる。 無表情で振る舞っていることにも気づかなくなるらしい。自分で決めた最善のフローチャート通りにやっているのにうまくいかなくなり、人間関係が破綻していく。


(まさか、自分の妻がなるなんて)


 医者に行ったわけではないが、男はそう信じていた。ネットや本で調べたのだ。 そんな妻のような人のために開発されたのが『ムギ』だった。接触を重ねていくうちに、笑ったり、泣いたり、怒ったりして、患者の心を揺さぶり、凍った心を刺激するようになるのだ。


(このロボットはきっと売れるぞ。フローチャート症候群が世間に飽きられる前に売り出さないと)


 その時、カメラの向こうで妻が立ち上がった。そして、ムギに向かって微笑みかける。


「これで満足?」


 声の冷たさに男は凍りついた。その笑顔の狂気は画面からさえ伝わった。 妻はなぜ、ムギに向かって言ってこんなことを言うのか。


「気づいていないとでも思っていたの?」


 妻は微笑んだまま椅子に腰掛ける。


「どうせ見ているんでしょ?」


 男は無意識に後ずさっていた。恐ろしくて声も出ない。


「断りもなく妻を実験台にしてプライベートを晒している、あなたのことですよ。会社からの謝礼金はいくらかしら」


(なんでバレたんだ?)


 男の疑問を見透かすように、妻は唇の片端だけで笑う。


「毎年、誕生日のひと月前に『プレゼントは何がいいか』きいて、絶対に『花とケーキ』になる。それ以外の答えをあなたは許さない。『妻に毎年プレゼントをあげるいい夫』という証拠がほしいだけだから。それを他人に言いふらしたいだけだから。それなのに、ロボットが来たということは、何かの思惑があなたにある。そう感づいてもおかしくないでしょ?」


 饒舌な妻の視線が画面の向こうから突き刺さる。


「きいている?」


 妻の声に、男は目をそらした。


「きこえてる? 高熱で倒れた私を置いて、さっさと仕事へ行った、あなたのことですよ? スポーツドリンクを枕元においただけで、妻の看病をしたと思っているあなたに言っているんですよ」


(だって、どうせ家にいても役に立ちやしないじゃないか。だったら僕はいないほうがいいだろう? あえてだよ、あえて)


 男は黙って奥歯をくいしめ、妻の言葉を聞くことしか出来ない。


「あなたはコムギの世話を全くしなかった。散歩もしつけもトリミングも何一つも関わらなかった。水もエサもあげなかった。病院にも私一人で連れて行った。エサ代も病院代も一度も出さなかった。毛が散らばるから掃除をしろと私に命令するだけ。そのくせにまるで何もかも全部自分がしていたかのように、最も自分がコムギを愛していたかのように、愛犬の死を悲しむことができる厚かましい人」


 コムギの死は本当に悲しかったのだ。言い返そうとする男より先に、妻の大きなため息が響く。


「あと、私が毎日作る弁当に感謝の言葉はないけれど、文句だけは言ってくる人、妻が寝込んでいる間、掃除も洗濯もしない。台所のシンクに食べ終えた食器をそのままにして、どうせ妻がやってくれると信じている人」


 妻がじっと画面越しに男を見つめている。


「そして、一番重要なのは、私が何か言っても、何も聞いてくれないってこと」


 妻の目は失望と悲しみに潤んでいる。「私の要望も、意見も、何もかもきかず、あなたは自分の思うことしか認めない。自分の思う正しい妻を私に求める。だから、私は感情を必要としないロボットになった。私が人間に戻れるのはコムギと、生きている犬と、二人きりで外を散歩をしている時だけだった。それなのに、今度はロボット開発の実験台にならなくてはいけないの?」


 画面の向こうで妻がカメラに近づいた。


「あなたは、奥様にまた会えて嬉しいですとか、奥様が心を育ててくださった、ありがとうって、そんなようなセリフを言えば、私が感動して泣いて喜ぶと思っていたわけね。茶番も大概にしてほしい」


 近づいた妻が虚ろにこちらを見た。


「私の心を殺したくせに」


 妻がそう言った途端、画面が暗くなった。


(電源を切ったのか?)


 男は真っ暗になった画面の前でしばらく動くことができなかった。

 自分を責め立てる妻は、病み上がりの妻の姿は、悪魔のようにも見えた。自分を正しさでねじ伏せる悪魔。

 男はそれでも、あの家に帰らなくてはならない。 

 ムギを回収しなくては。

 会社が多額の投資をして開発したロボットなのだから。

 悪魔のような妻が怒りに任せて壊してしまうかもしれない。


(帰宅したら、どうしたらいい)


 謝る? 何を謝る? 謝るとしたらどう謝る?


 土下座?


 男は何が正しいのか自分ではわからない。スマホを持つ手が急いで動き始める。


「最善の方法を検索して、謝罪のフローチャートを組み立てなくては」



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