Dの幻影ー米丸兄妹シリーズ掌編ー
昔思いついたもののあまりにもくだらなくて長年放置していたネタで、何をとち狂ったか掌編を一本仕上げてしまいました。
どうか広い心で読んでやってください。怒っちゃイヤ……
ゴールデンウィークを間近にひかえた、とある夜。
時計の針が午後10時半を回っても睡魔がおとずれず、自室のベッドに寝ころがりながら天藤真『大誘拐』を読んでいると、階下からとつぜん悲鳴が聞こえてきた。
「無い、ないないないない!!!!」
声の主ははっきりしている。我が米丸家の家長、俺の親父どのだ。つい15分ほど前、正体をなくすほど酔っぱらって会社から帰宅し、ロビーのソファで高いびきをかき始めたのは知っていたが、どうやら目を覚ましたらしい。
「そんなバカな、どうしよう、明日のプレゼンがあ!!」
まるでこの世の終わりを迎えたかのような慌てようだ。さすがに何事かと気にかかり、ベッドを降りる。
俺が2階ろう下に出ると同時に隣室のドアも開き、中から妹の小夜乃が姿をあらわした。
彼女もまだ就寝前だったらしく、切れ長の眼がぱっちり開いていた。日本人形のように美しい妹が簡素なルームウェアを着用しているのは、どこかアンバランスだった。
「一体何事でしょう」
「さあ」
聞かれても、こっちが教えてほしいくらいだ。
小夜乃はその件については一旦置いておくことにしたらしく、俺が手に持ったままの文庫本に眼を向けると、
「それは『大誘拐』ですね。今度貸してください」
「読んだことないのか」
ちょっとした優越感をおぼえる。
妹が――それも高校では同じ探偵小説研究会の後輩でもある妹が未読のミステリ小説を自分が読んでいる、というだけで勝ちほこるのは情けない気もするが、この点では普段から敗北を重ねているのだから仕方ない。
「ちょっと、どうしたんですか。近所に聞こえるわよ」
階下から、今度は女性の声が聞こえてきた。
ミステリ狂の息子と娘が2階でモタモタしている内に、母上どのが父のもとへ行ってくれたらしい。
「明日のプレゼンに使う資料を入れた封筒が、見つからないんだ。今日の午後エクセルで急いで作って、退勤直前までかけて仕上げたんだ。会社を出る時たしかにかばんの中に入れたのに!」
「まあ……印刷した書類の他に、データは持ってきてないの?」
「エクセルデータを入れたUSBも、いっしょに封筒に入れてたんだよ!」
リスク分散の配慮は、退社時の父の頭にはなかったようだ。
「きっと帰ってくる途中でどこかに忘れてきたんだ。どうしよう、これからチェックして明日に備えないといけないのに」
「そんな酔っぱらって帰ってくるからですよ。いつもが飲まないのに」
母の言うとおり、父は下戸だった。すぐ酔いがまわってしまう体質のため、普段はほとんど酒を口にしない。
それが今日に限って、夕方退社しようとしたら「たまには付き合え」と同僚から強引に飲み会に誘われた。で、その飲み会が予想外に盛り上がってしまい、ついつい酒を過ごしたということらしい。
人付き合いが難儀なのは、高校生も社会人も変わらないようだ。これから社会に巣立つ予定のひな鳥としては、気が重くなる話である。
「その飲み会があったお店に忘れてきたんじゃないの?」
「いや、あの店では一切かばんは開かなかった」
まだ酔いが回りきらない内の記憶は、比較的はっきりしているようだ。だが店を出る頃に至ると、どうもいけない。
飲み会が行われたのは、会社近くの大衆酒場である。店先で二次会に向かう同僚たちと別れた父は、千鳥足で近くの小さな地下鉄駅へ向かった。
そこから自宅最寄のI駅まで3駅分ほど地下で揺られてたどり着いた……はずなのだが、その頃になると記憶が大分ぼやけている。まるでフィルムが擦り切れた映画のようだ、とは親父どの自身の述懐。
「ええと、俺はかばんを持ってI駅で降りた。そこまでは確かだ。それから、それから……そう、またどこかの店へ入ったんだ!」
「お店へ入ったって……そんなべろべろで?」
母があきれたような声をあげる。
「下戸なあなたが、まだ飲む気だったんですか?」
「わ、わからん。久しぶりに酔って、気が大きくなっていたのかもしれん……そ、それで、そう、思い出した。そこの椅子に座って、俺はたしかにかばんを開けた。資料を出した! 家に帰る前にも、一応目を通しておこうと思ったんだ。きっとあそこに置き忘れてきたに違いない!」
地獄で蜘蛛の糸を見つけたカンダタのごとく、父の声が華やいだ。よほど明日のプレゼンが不安らしい。
「それで、おなたが入ったお店はなんて名前なんですか?」
「それがどうも、おぼえてないんだ」
母の大きなため息の音が、階上まで届いた。
「あきれた、それじゃ何の意味もないじゃありませんか」
「いやいや、そう急かすな。今思い出すから。ええと……」
父は急に静かになった。記憶の海にダイブし、必死に目的の宝石を探しているらしかった。
30秒ほどの沈黙を経て、
「そ、そうだ、店の入り口の看板に、Dの文字が列をなしていたぞ。これは大きなヒントだ!」
「でぃー? アルファベットの「D」ですか」
「他に何がある」
「Dの文字がならんだ……DDD……」
独り言のようにつぶやくうちにも、母の声にとげが生えてくるのがわかった。
「あなた、あんないやらしい店に入ったんですか!」
「は? 何を言って……」
父の言葉が急に途切れた。おのれの失言に気づいたらしい。
「ま、待て待て、誤解だ、お前は誤解をしているぞ!」
「この近くでDのつくお店なんて、他にないじゃありませんか!」
階下で険悪なムードが高まる中、傍らの小夜乃がささやいてくる。
「兄さん、"DDD"って……」
「キャバクラだな」
I駅東口前に鎮座する5階建ての雑居ビル、その3階に店を構えるキャバクラだ。おそらく大手の系列店なのだろうが、その業界のことはよくわからない。
ビルの屋上には案内の看板がかかげられている。どこかの夜景をバックにけばけばしい化粧をほどこしたキャバ嬢たちが数人ならんで立っている、という画像がプリントされた看板だ。
その下部前面には、「DDD」の三文字で構成されたロゴが極彩色ででかでかと描かれていた。
俺や小夜乃も、通学には電車を利用している。毎朝登校の際には、そのビルのわきを通り抜けて駅へ向かう。派手な看板は、イヤでも目につくわけだ。
「DDDって、どういう意味なんでしょうね」
「あくまで略称だな。看板の下の方に、小さく正式名称が書いてたはずだ。ええと、たしか『D何とか、Diamond、Dimension』……」
「よく覚えてますね。実はああいうお店に興味があるんですか?」
小夜乃の声は、朗らかとは言いがたかった。
「そ、そんなわけないだろ! お前だって毎朝、看板の前を通ってるじゃないか」
「私はそんな箇所まで見てませんので」
潔癖症の小夜乃からすれば、たしかにあの手の看板はあまり目に入れたくないだろう。
妹兼想い人の少女に白い目を向けられ、しどろもどろになってしまう俺だったが、階下では父と母が更なる修羅場に発展していた。
「たとえ酔っぱらって我を忘れたって、俺はあんな店には入らん。お前、亭主を信用できないのか!?」
「先にDのつく店って言ったのはあなたでしょうが!」
……ヒートアップするほどに、話が本題からズレていく。
せっかく資料を置き忘れた場所の候補が浮かび上がったのだからとりあえず「DDD」に電話で問い合わせてみればいいのに、とも思うのだが、今の2人はそこまで頭が回らないようだ。それにそんなことをすれば、父は自分の容疑を認めることになる。
もっとも俺としてもよく言えば人畜無害、はっきり言えば気弱な父が、酒の勢いがあるとはいえあの手の店にひとりで入るとは、ちょっと思えなかった。
ため息をひとつついて、小夜乃へ向き直る。
「少し出かけてくる」
「もう11時近いですよ!? あぶないですし、悪くすれば補導されてしまいます」
「そんな遠くまでいかないから大丈夫だよ。息子として、親の夫婦げんかを放置するわけにもいかんだろ。今日中に資料がもどらないと、親父も困るだろうし」
小夜乃は目を丸くした。
「ということは、兄さんはお父さんがどこに資料を忘れてきたか、わかったんですか?」
「まあ確実とは言えないが、ちょっと思いついたことならある」
「……まさか資料探しにかこつけて、キャバクラに入りたいだけじゃないでしょうね」
「ちがうよ! 別に俺は興味ないって言ってるだろうが」
そもそも今の時間、高校生がひとりでそんな店に行っても、門前ばらいを喰らうのがオチだろう。
「わかりました。では、私もごいっしょします」
「はあ!? なんでそうなるんだよ。やめとけって、危ないから」
「それは兄さんも同じでしょ。それにひとりよりふたりの方が、まだしも安心じゃないですか」
「いや、でもお前は女の子だし……それにお前じゃ、どの道そこには入れないぞ」
「私じゃ入れないって……やっぱりいかがわしいお店に、」
「ちがうって! あーもう、わかったよ」
一度言い出したらきかない妹である、俺は降参して妹の同行を認めることにした。本人にしたら、お目つけ役のつもりかもしれない。
数分後、各自部屋で身支度をととのえた俺たちは、再びろう下で落ち合った。俺はポロシャツの上からジャケットを、妹はブラウスの上にウインドブレーカーを羽織っただけという、どちらもラフな服装である。
階段をおり、いまだ父母が喧々諤々と言い争っているリビングのわきをコソコソ通り過ぎると、玄関ドアを開けて夜が広がる街へと向かった。
I駅は高架線路をとおる在来線と地下鉄が乗り入れている、いわゆる接続駅だ。
俺や小夜乃が通学に用いているのは在来線で、父が出勤に使っているのが地下鉄の方だ。どちらも同じ駅舎を経由するわけだが、毎朝俺たち兄妹はそこから階段を上がって高架ホームへ向かい、父は階段をおりて地下鉄ホームへおもむく、という真逆のルートをたどっている。
同じ駅といっても特に利用する機会もないので、俺は地下鉄スペースに降りたことがほとんどない。おそらく小夜乃も同様だろう。
駅の出入り口としては、西口と東口のふたつがあった。西口方面には繁華街が広がっていて、チェーン店やレンタルショップなども密集していてそこそこ賑わっている。
一方反対の東口――米丸家がある方面は住宅街となっており、夜も深まれば実に閑散としたものだ。
植樹された欅がまばらにならぶ大通りを、小夜乃とふたりで歩いていく。たまに車道を通る車が走行音を立てる以外はこわいくらい静かで、月明かりに照らされただけのうす暗い路に俺たち兄妹の足音が反響していた。
「寒くないか?」
「ええ」
俺の問いかけに小夜乃が平然とした態度で応えたが、強がっているだけかもしれない。
4月末といっても、この時間になればまだまだ外は冷える。シャツの上からウインドブレーカー1枚羽織っただけの妹が風邪をひいてしまわないか、やや心配ではあった。
心配といえば、やはり補導の懸念もなくはない。繁華街は駅の反対側なのでさすがにこんな処までは見回りの警官や教師もこないだろうとは思うものの、油断はできない。
我が家からI駅までは歩いて10分ほど。その間特に目立った建物もなく、公共施設といえば小さな公園が2、3点在する程度。ショッピングモールはおろかスーパーマーケットも見当たらず、買い物できる店といえばコンビニが1軒あるだけだ。
飲食店はちらほら建っていたが、いずれも10人も客が入れば満席になってしまいそうな慎ましい規模の店だ。そしてそのどれにも、「D」の文字が並んだ看板はかけられていなかった。
俺も小夜乃も、あまり口を開かなかった。闇夜にうごめく犯人の気分に浸っていたわけでもないが、元々2人とも必要以上に多弁を弄するタイプではない。
加えて俺の方では、想い人と並んで暗い路を歩くことに若干の緊張をおぼえていた……つくづく実の妹に対して抱く感情ではない。
「私は兄さんが好きですから」
ひと月ほど前に聴いた、小夜乃の声が頭の中でリフレインする。
妹との今後をどうすればいいか、というのはなぜか時々俺たちの元に舞い込むささやかな謎解きや事件の何倍も、俺の頭を悩ませる問題だった。お互い好き合っているからと言って、兄妹で「じゃ、付き合おう」というわけにもいかない。
一体小夜乃は、その辺りをどう考えているものだろう。ふと気になって、妹の方を向くと……妹も、俺を見ていた。
暗がりで、目が合った。
「……どうしました、そろそろ着くんですか?」
「あ、ああ、そうだな」
とっさにごまかして、顔をあげた。
急に静寂が重たく感じられてきて、頭の中で無理やり話題をさぐる。
「そ、そういや歳をとった女の人に使う敬称に、「刀自」っていうのがあるらしいな。知ってたか?」
「? ええ、知ってますけど……それが何か?」
先ほど『大誘拐』を読んでおぼえたばかりの知識をひけらかしてみたが、見事不発に終わった。
「そ、そうか……なんで刀に自ら、と書いて女の人をあらわすんだろうな? どっちかというと男を連想させられる字面なのに」
「「刀自」は当て字ですね。元々は「戸主」の意味らしいです。家を守る女性の方を、経緯を込めてそう呼んでいたんじゃないでしょうか」
「……そういうの、一体どこでおぼえるの?」
俺が妹に対して知識マウントをとるのは、あきらめた方が良さそうだった。
いつの間にか、I駅の東口前まできていた。夜のカーテンが降りたロータリー広場には人気がなく、周囲の建物もほとんどが消灯している。唯一の例外は雑居ビルの屋上にかかげられた「DDD」の看板で、派手にライトアップされ闇夜に浮かび上がったその様は、昼間よりも一層ケバケバしく見えた。
俺は心持ち歩みを速めた。小夜乃も無言で追随する。
駅前ロータリー広場のわきに伸びる鋪道に足をかけ、その通りに面した「DDD」の看板が立つ雑居ビルにさしかかると……その前を素通りする。
心なしか、背後から小夜乃のホッとしたような気配が伝わってきた。
だからあんな店に用はない、と最初から言っているではないか。俺は心中で愚痴をもらす。
現在俺たちが向かっているのは、今日の朝夕も学校の行き帰りで通ったI駅の駅舎なのだから。
「幸い、だれも持ち去ったりはしなかったみたいだな」
俺は外で待っていた小夜乃に、戦利品をかかげてみせた。
中に何枚かの書類が入った、角型2号の茶封筒。裏側の左下には、小さく親父の会社名が判してある。一箇所だけ微かに膨らんでいるのは、下にUSBが入っているのだろう。
「……よくここがわかりましたね」
「さっき言ったとおりお前が入れないとこ、だったろ?」
俺たちが今立っているのは、地下鉄I駅構内にある男子トイレの前だった。今し方この中から、父の資料が入った封筒を回収してきたのである。
泥酔し地下鉄でI駅まで帰ってきた親父は、駅の公衆トイレに寄った。個室に入り資料を確認し、そのまま置き忘れてしまったのだ。そして個室の便座に腰を下ろしたことを、記憶が混濁する内「どこかの店の椅子に座った」と勘違いしてしまったのだろう。
「どうしてわかったんですか? お父さんははっきり「店」と言っていたのに」
「親父は店の看板には「Dが列をなしていた」と言っていた。ちょっと周りくどい表現だろ? 横文字で書かれているなら単に「Dが並んでいた」と言えばいい」
アルファベットの店名なら、普通は横書きで店先に記されるものだろう。実際、東口前の雑居ビル屋上でライトアップされている看板には、「DDD」と横文字で大書されている。
「親父は退社直前まで、エクセルで資料作成していたという。エクセルでは横の並びを「行」、縦の並びを「列」と呼ぶ。それが頭に残っていた親父は、ひょっとしたら"縦方向に並んだ"Dの文字をイメージして「列をなしていた」と表現したんじゃないか、と思ったんだ」
だとしたら父が目撃した店の看板には、Dが縦向きに書かれていたことになる。飲食店の看板としていかにも不自然だし、ましてDのつく店は近辺には「DDD」しかない、との母の証言もある。
そこで俺は、全く別のことを思いついた。
ポケットから取り出したガラケー(俺も小夜乃も、未だスマホを持っていない)を開き、メモアプリを起動する。
「小夜乃、これ何に見える?」
差し出した画面には、Dの文字が縦に4つ並んでいる。
D
D
D
D
「何、と言われましても……」
妹はまだ要領を得ないようだ。
「では今度は、仕切りをはさんでみよう」
俺はメモ画面に並ぶ各Dの間に仕切り……に見立てた漢字の「一」の文字を差しはさみ、再度小夜乃に提示する。
D
一
D
一
D
一
D
あっ、と小夜乃が声を上げた。
「トイレの見取り図、ですか」
「正解」
公衆トイレの入り口付近には見取り図がかけられていることが多い。そこでは便座は簡略化したイラストや記号で示される。
日本の洋式便座は半円状で背中側がタンク、という形状が一般的だから、トイレの見取り図内に半円、つまり「D」に近い記号が並んでいればほとんどの人は「これは便座のことだな」と認識できるだろう。
親父はトイレの入り口付近で見取り図を目撃した。そこには同じ方を向いて縦に並んだ便座記号が描かれていた。それを店の看板であり、「D」の文字が縦に並んでいたものだった、といつの間にか記憶違いしてしまったのだ。
「私は地下鉄はほとんど使いませんから、ここのトイレの見取り図がそういう風に描かれているとは知りませんでした……兄さんはご存知だったんですか?」
「いや、全然」
父が「列」と認識したくらいだから、便座は最低3つ以上、それも同じ向きに並んでいたと考えられる。
だが駅から我が家に向かうまでのルート上に公衆トイレが設置されているような公共施設はほとんどなく、小さな公園が2、3ある程度。あれらの中に設置されたトイレでは、便座はせいぜい1つか2つだろう。
仮に途中のコンビニや飲食店でトイレを拝借したとしても、その規模は公園以下と思われる。条件を満たすほど広いトイレを構えてそうな店は、家からここに来るまでの間に見当たらなかった。
よってI駅に到着してから寄れる公衆トイレの中では、駅のものが最有力候補となる。
I駅のトイレは階上と地下に一箇所ずつ(いずれも改札を潜らずに使える)、上のものは普段俺も利用しているから見取り図にDに似た記号が使われていないのは知っている。
以上からおそらく地下鉄のトイレだろう、とあたりをつけたのだった。
もちろん推理としては大雑把すぎる。親父が駅から普段と同じルートを通って帰宅したとは限らないし、一旦西口の繁華街に出た可能性もある。正直ダメ元でここまで来たのだが……幸いビンゴだったようだ。
「案の定、ここの見取り図は便座をDみたいな記号で表していたし、同じ方を向いた便座も四つ並んでいた。1番奥にある個室の荷台の上に、封筒が投げ出されていたよ」
「たったあれだけの情報で……さすがですね、兄さん」
「……偶々だよ」
妹にほめてもらえるのはうれしいが、場所が場所だけにいささか馬鹿馬鹿しくもあるのだった。
「ま、これで親父もひと安心だろう。帰ったら、臨時のこづかいくらいは期待できるんじゃないか?」
「その前に、こんな時間に外出したことを怒られると思いますよ」
黙ってリビングのテーブルにでも封筒を置いて、さっさと部屋にズラかるしかないようだった。
「手袋をしてくれば良かったですね」
駅からの帰り道、小夜乃はむき出しの両手をこすり合わせながら、息を吐きかけている。息は夜の中で、白く浮き上がった。
「手をつなごうか?」
とっさにそんなことを言ってしまった。
正直自分でもおどろいたが、今更差し出した手を引っ込める気にもなれなかった。
俺の申し出に、小夜乃は目を丸くしたりはしなかった。数秒間俺の顔を見つめていたかと思うと、ニッと笑みを浮かべ手を伸ばしてきた。
「お願いします、兄さん」
……ひょっとして、暗に誘導されたのだろうか?
俺は左手で封筒を持ちながら自分の右手と小夜乃の左手をからめると、ジャケットのポケットに突っこんだ。そのまま暗い路を歩き始める。
「……どうだ、少しは温いだろ」
「はい、ありがとうごさいます」
心臓の音がうるさかった。もはや寒さどころではない。
幸い辺りにはまるで人気がなかった。誰かが近づいてきても、俺の緊張で真っ赤に熱った顔も、小夜乃のうれしそうにはにかんだ表情も、夜のカーテンが隠してくれるはずだった。
たまには夜遅く出歩くのも悪くない、と思った。
(了)
⭐︎シリーズ一覧⭐︎
『くれぐれも誤解のないようにー米丸兄妹シリーズ①ー』
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『番長はどこへ消えた?ー米丸兄妹シリーズ②ー』
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