お義父さん
里帰りから帰ってきたら、家の中で異臭がした。鼻をつく焦げた肉のような臭い、それに饐えたような臭いが加わった獣の臭いがする。
台所に入ると、何となく全体に油っぽく、揚げ物をした後のようなベタっとした感じがした。
炊飯器の蓋を開けて、思わず顔をしかめた。出かける朝に炊いた白米が乾き、黄色くなって、所々青カビを生やしていた。義父は1週間ずっと、これを放置していたということになる。
「男ひとりだったんだから、カップ麺と惣菜で済ませてたんだろ。父さん、昔からそういうの平気だし」
夫は呑気にそう言う。
確かに、義父は何でも自分でやるタイプだ。でも、こんなふうに乱れた生活を見せたことは一度もなかった。
冷蔵庫を開けると、野菜室のトマトが真っ赤に熟れ、潰れたところから汁が垂れていた。
義父は毎朝トマトを1つ食べるのが日課だった。なのに、一つも減っていない。
1週間、彼は何を食べていたのだろう?
私は炊飯器の中の米を捨て、内釜を洗い、冷蔵庫の中を拭いた。
洗濯物が異常なほど柔軟剤臭い。吐き気を催すほどに甘ったるく、鼻の奥にまとわりつく。
義父の柔軟剤好きには以前から辟易していて、ついにお願いしてやめてもらったはずだった。
言い出しづらく、十年我慢した末のことだった。
フェイスタオルを手に取ると、柔軟剤の臭いの奥から生乾きの雑巾の臭いが立ち上る。
濡れた何かを、無理やり乾燥機にかけたような臭いだった。思わず全てを洗い直すことにした。
義父に直接聞けばいいが、そうするには義父と私の間には距離がある。気安い関係ではない。
同居しているが、義父は洗濯をはじめ、自分の食事や身の回りの事は自分でする。
とても良いお義父さんだ、あなたは感謝しなくてはいけない、と今回の帰省でも母に言われた。
とはいえ、他人と生活するのだ。耐え難いことはある。
例えば急いで夕食の支度をしようとしている時。夕食だけは私が義父の分もつくるのだが、気まぐれに義父は自分の食事の支度を始める。
私が食事を並べているテーブルで掃除機をかけ始める。
義父は同じ物を食べ続ける癖があり、私たちにも食材を買ってくる。特に牛肉が好きで、すき焼きが3日にあけず続いた時は、家族みんながすき焼きを受け付けなくなった。
義父のすき焼きブームが去ってくれた時は本当に助かった。
それでも息子は牛肉を食べると吐き気がするようになってしまった。
私はそんな時、いつも何も考えないようにしている。義父が料理を始めれば黙って台所が空くのを待ち、鬚を剃ったり掃除機をかけ始めれば、料理をさりげなく義父から遠ざけ、何度でもすき焼きを作り続ける。
義父は私の薄味の料理だと物足りないので、自分で料理をしているだけ、私の掃除が行き届かないから掃除機をかけてくれるだけ、息子夫婦は金が無いだろうから、高価な食材を買ってきてくれるだけ、これは有り難いことなのだ。
感謝しなければいけない。
それ以外の考えを言語にしてしまうことは危険だ。言語化すると認識してしまう。それはいつか口に出てしまう。
私は、私が鶏肉を切った後のまな板で、途中から義父がキュウリの漬物を切り始めても何も言わない。
私は、義父がコンロの火を消し忘れていても何も言わない。
ところで、やはり濡れた犬のような臭いがずっとしているのだけれど、どこからかがわからない。里帰りの間に何があったのだろう。ここまで臭いのに義父は気にならないのだろうか?
臭いの問題はデリケートだ。義父には聞きづらい。私は考えるのをやめた。
廊下を歩いていると、靴下の裏に黒いベタベタとした液体がついている。見ると、黒く粘ついた液体が点々と続いている。床板の隙間に染み込んだそれは、まるで足跡のようだった。
義父の部屋の前で立ち止まる。閉まった障子の向こうから音がする。
ぐちゅ、ぐちゅ……という、何かを咀嚼する音が。
「……お義父さん? お夕食ですよ」
返事はなかった。ただ、咀嚼音が止まっただけだった。
台所に戻ると娘が言った。
「じいじにね、旅行中、電話したの」
「そうなの?」
「うん……。でも、なんか……じいじ、変だったよ」
娘は天井を見上げるように目をそらしながら、小さく眉をひそめた。
「出たけど、声が変だった。なんか……遠くから聞こえるみたいで、がさがさしてて……」
「……がさがさ?」
「うん。あとね、『熱い、熱い』って、ずっと言ってた。でも……声、笑ってたの」
娘はそこで言葉に詰まり、首をかしげながら、眉を寄せた。
「熱いって言いながら、ずっと笑ってた」
私は思わず娘の顔を見つめてしまった。
冗談には思えなかった。
「それは、後であなたからじいじに聞いてみて?」
「うん」
「じゃあ、みんな、ご飯にしましょうか」
私は家族にそう言うと、醤油差しを手に取った。
「お義父さんは濃い味が好きだから」
そして、義父の食事に醤油をたっぷりかけた。
お読みいただきありがとうございました。