95.冷遇令嬢は滑り込みたい
夜明け前の薄明り、隣で眠られるエイナル様の髪をそっとかき上げた。
穏やかな寝顔。
寝ていても優しげで柔らかで、麗しく端正で、いつまでも見ていられる、わたしの旦那様。
身体を起こし、自分の両膝を抱いた。
窓の外では、昇る朝陽を隠す山の稜線が、うっすらと輝き始めている。
デジェーから「陛下の寵臣に」と求められたことは、誰にも打ち明けられなかった。
言えば、デジェーの首が飛ぶ。
カリスの監査は続いているし、カルマジンの政庁が関わる不正の正体は、まだ明らかになっていない。
その不正にデジェーが関わっていないとは言い切れない。
わたしの甘さや優しさだけではなく、いまデジェーの首を飛ばせば、不正を闇に葬ることになりかねないという側面がある。
そう考えると、デジェーが自ら「この地の不正」を匂わせたのも、何かの罠か駆け引きなのかもしれない。
ただ……、あれほど剥き出しの愛情をぶつけられたのは、わたしにとっては初めての出来事だった。
――嬉しい? ……いや、そんなことはないわね。すこし、怖いくらい……。
心の収まりどころが悪い。
エイナル様に、後ろから抱き締めていただきたい。背中を委ねたい。
けれど、近頃は、エイナル様も少しだけ、ほんの少しだけ、わたしとは違うものを見ていらっしゃるような気がして仕方ない。
言葉にするのが難しいほどの、ささやかな視線のズレを感じる。
――デジェーのことを話したら……、怒ったりされるのかしら?
そんなお姿は、想像もつかない。
『コルネリアの好きにしたらいいよ』
と、いつものように微笑まれたら、なぜかわたしが傷付いてしまうような予感がして、ギュッと膝を硬く抱き寄せる。
そのとき、スッと窓から朝陽が差し込んだ。
眩しくて、思わず目を閉じる。
「あれ? ……起きてたの?」
「ええ……、なんだか……、ウ、ウキウキしてしまって。今日の視察に」
「ふふっ。……おはよう、コルネリア」
強張った身体をほどき、スルリとエイナル様の胸の中に滑り込んだ。
「あれ? もう少し、寝る?」
「ええ……。すこし落ち着かないと……、輝く目も、輝きませんわ……」
「ふふっ。そうか……」
エイナル様が、わたしの背中に腕を回し、ポンポンっと叩いてくださった。
「じゃあ、ボクも一緒に朝寝坊しようかな……」
「ええ、一緒に……」
と、首を伸ばして、エイナル様に唇を重ね、微笑み合った。
Ψ
常緑樹のオークが硬くてトゲトゲの葉を、光沢のある濃い緑色にキラキラと輝かせている。
牧草地を越えた深い森に登った。柵で囲われた一帯を衛兵が守っていた。
「これが、ケルメスオークですわね!」
と、わたしの目が輝く。
同行する王領伯が、横に長い丸顔のシワを深くして、胸を張った。
「左様にございます。この地、カルマジンの宝でございます」
葉の鋭いトゲを、チョンと触ってみる。
ばあやと交代でわたしに随行してくれるナタリアが、色っぽい顔立ちの眉間に、かるくシワを寄せた。
「この木は……?」
「虫がいるのよ!」
「む、虫! ……に、ございますか」
「ふふっ。……ごめんなさい。今はいないの」
と、枝につく、小さな小さな黒い点を指差した。
「これが、卵よ」
「そ、そうでございますか……」
「ふふっ」
腰の引けたナタリアに微笑んで、もう一度、よく観察する。
カイガラムシの仲間であるケルメスは、布を鮮やかな緋色に染める、染料になる。
春に孵化して、定着すると口吻を樹皮に突き刺し、そこから動かずに一生を過ごす。
夏場、産卵を終えたメスの体と卵には赤色の色素が豊富に含まれていて、ヘラで慎重に枝から掻き落として採取する。
トゲだらけの枝葉をかき分けながら、小さなケルメスを探しながらの作業は、どこまでも地道で骨が折れる。
そうした努力があって、王侯貴族が買い求める高級な緋色の布をつくれる。
王領伯が、何度も頷きながら語る。
「……採取が早すぎれば色素が充分ではなく、遅すぎれば卵が孵化して色素が失われてしまいます」
「なるほどぉ……」
「この地に伝承されてきた長年の知恵と経験から、オークとケルメスの状態を見極め、最適なタイミングで採取いたしますのでございます」
ケルメスは、どこにでもいる虫ではない。
オークの中でも、ケルメスオークと呼ばれる特別なオークにだけ寄生する。
まさに、カルマジンの宝として大切にされてきたのだろう。衛兵を立て、柵で囲み、厳重に保護していることも頷ける。
側には水路が流れ、オークの栽培にも慎重を期している様子が窺えた。
エイナル様がトゲのある葉を、ザッと引き上げてくださって、ふたりで、さらによく観察させてもらった。
デジェーには監査への立ち合いを命じ、王領伯に同行してもらった。
いま、どんな顔をしてデジェーに会えばいいのか、さっぱり分からない。
――月に焦がれ、一夜で命を終える蜉蝣の栄誉をお与えくださいませんでしょうか
ふっと脳裏に蘇る真剣な眼差しを、かるく首を振ってかき消す。
「ん? 虫でもいた?」
「いいえ。……なんでもございませんわ」
エイナル様に微笑みを返す。
デジェーは、とてもいいことも言ってくれた。
――エイナル殿下という太陽の隣で、コルネリア陛下という月が輝いているのは存じております。
ほんとうに、その通りだ。
エイナル様の存在なくして、今のわたしは考えられない。
わたしが輝けているのだとするなら、すべてはエイナル様が照らし出してくださっているからだ。
ケルメスオークの繁みの奥に目をやった。
下草も刈られず生え放題にされた深い森が、うっそうと生い茂る。
王領伯が神妙な表情を浮かべた。
「……あちらは、聖域としていかなる者の立ち入りも禁じております」
「そうなのね」
「恐れ多いことながら、コルネリア陛下であられましても……」
「もちろん! 皆が大切にしてる場所に足を踏み入れたりいたしませんわ」
聖域として崇められるようになった謂れを王領伯から聞いて、何度も頷いた。
土地に根差した伝承は、学問としても収集し切れていない。こうして、その地に生きる者たちから聞くしかないのが現状だ。
そして、とても興味深い。
夜。テラスで、カリスと語り合う。
「とても能天気に頑張っているわ!」
「もう……。ネルったら、根に持たないでよね」
「ふふっ。……とても興味深いのよ」
「今日は、何に目を輝かせたの?」
「……アカネが、生えてなかったのよ」
アカネは繁殖力が強く、雑草として扱われることも多い草だ。
「水路を流れてくるアカネの根は、どこから来てるのかしら?」
「……不思議ね」
「ええ、不思議だわ」
「私も不思議なものを見付けたの」
「うん……」
声を潜めたカリスに合わせ、わたしも声を落とす。
「……ミョウバンの在庫が多いのよ」
「ふ~ん……。安かったから、沢山買い込んでおいたってことじゃなくて?」
染色に欠かせないミョウバンは、結晶性の化学物質で、腐ることはない。
カリスが、首をひねる。
「……そうとも考えられるんだけど、どうにも不自然なのよね」
「そう……」
「デジェーが……」
と、カリスの言葉に、一瞬だけ身を硬くしてしまった。
カリスにも気付かれないくらいに。
「……ほんの少しだけ、言葉を濁してるような気がしたのよね」
「それは……、変ね」
物言いが挑発的だったり、皮肉を含んでいたりしても、デジェーの言葉はいつも率直だ。濁したり曖昧だった覚えはない。
――その率直さに……、困らされてる訳だけど……。
かるく苦笑いして、カリスとの語らいを終えた。
今日は一日、サウリュスの顔を見なかった。
わたしの絵に取り組むのだと言って、部屋に籠り切りだったらしい。
――私の頭の中にいる貴方様を、どうしても描きたい。
この行幸の始まりのサウリュスの言葉と一緒に、昨日のデジェーと話すわたしを見ていたサウリュスの、射るような視線が思い起こされる。
どうにも、胸の周りの皮と骨の中間あたりがモキュモキュするような、経験のない居心地の悪さがする。
はやく、エイナル様の胸の中に滑り込みたかった。
本日の更新は以上になります。
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