77.冷遇令嬢は壁の外を見詰めた
雨はシトシトと降り続いている。
高い城壁から見渡す遠景には靄がかかり、鮮やかな新緑に包まれているはずの山々が灰色に見えた。
わたしの前をゆっくりと歩くコショルー公の背中は広く、鶯色をしたベルベットの上着には長く大切に着てきた風合いがある。
クラウスが持たせてくれた傘には、いざというとき剣刃を防げる特別な布が張られていて、わたしが使うにはすこし重たい。
城壁につながる石がアーチ状に積まれた入口では、クラウスとナタリアが控え、わたしたちを見守っている。
クラウスよりナタリアの方がハラハラとして見えるのは、わたしが足を滑らせないか心配してくれているのだろう。
わたしが長老と夜遅くまで話し込んでしまったとき、ナタリアは雨の中、小屋の外で黙って待ち続けていてくれた。
意を決したわたしが小屋から出たとき、ナタリアの見せた笑顔に、
――この娘は、信じられる……。
と、思った。
コショルー公の履く、ブラウンの革靴が止まった。
視線をあげると、コショルー公の瞳が遠く灰色をした山々を見詰めていた。
わたしも並んで、おなじ方に顔を向ける。
「ステファニアからは……?」
と、コショルー公が唇をほとんど動かさずに、しわがれた声をあげた。
「……なにも。お名前もわたしが知ったのは昨日のことです。母はわたしにはテレシアと名乗っておりました」
「そうか……」
名を捨てる。それは、ここコショルーの地では、単なる改名に留まらない、特別な意味を持つ。
哀切な響きを帯びたコショルー公の声からも、それが察せられた。
「余は……」
と、コショルー公が語調を変えた。
感傷にとらわれ過ぎず、わたしにお母様のことを正確に語って聞かせたいという意志の表れだと受け止めた。
「……この地を開きたかった」
「はい……」
「テンゲルと国交を結び、臣従の礼をとり、第一王女レナータを妃を迎えた」
コショルー公の声は、ことさらに感情を押さえ込んでいるように聞こえる。
「……ステファニアが生まれ、……余は可愛がった」
「はい……」
「……テンゲルとの友好を象徴すると、期待した」
「ええ……」
「だが、皆がそう思っていた訳ではないことに、余は気が付かなかった」
お母様が生まれて1年後。反乱が起きた。
内乱の火の手は瞬く間に公国の全土に広がり、大混乱に陥ったのだと、コショルー公は淡々と語った。
「テンゲル王家の血を引く公女が、コショルー公の座を継承するようなことがあってはならないと、反乱軍の勢いは強く、……ついにはテンゲルから送られた援護の大軍まで退けてしまった」
「はい……」
「それでも、5年持ちこたえ、ステファニアが6歳になった頃……、とうとう城を反乱軍に囲まれてしまった」
持ちこたえたということは、その間、国中が戦火に包まれていたということだ。
犠牲になったのは、民の生活だ。
長老が育てた戦災孤児の数を思うだけでも、その悲惨さがうかがい知れる。
公国内に割拠する豪族たちが敵味方に別れて覇を競い、5年もの間には、反乱軍同士の内輪揉めの戦いもあったことだろう。
そして、城を包囲した反乱軍を、コショルー公は夜襲で討ち破って平和を取り戻したのだと、炭焼きの村で教えられた。
「余は、諦められなかった。……ステファニアは聡明な娘に育っていたし、国を開き、国を富ませることに固執した」
「ええ……」
「……籠城し、包囲する敵に反撃する機を待ち続けた」
「はい……」
「だが……、ある晩」
と、コショルー公の視線が、時を遡り、過去の景色を見詰めるかのように、険しく細められた。
「余は、信じられないものを見た」
「……はい」
「……戦闘の収まった夜半過ぎ。暗い新月の晩だった。夜襲に備え、城壁上で盛大に焚く篝火が……、妃の姿を照らしていた」
「公妃様の……?」
「それを、城の部屋から見ていた余が、窓から身を乗り出したとき……」
「……ええ」
「妃が……、抱いていたステファニアを、城壁の外に投げ落した」
小雨の傘を打つ音だけが響いた。
わたしは、恐る恐る城壁を見下ろす。決して低くはない。
「慌てて城壁に駆け降りた余に、妃は平然と言い放った。……あの娘がいるから反乱が収まらないのだ……、と」
なにも、応えられない。相槌も打てない。
ただ、足下の城壁と、その下の地面に雨水がつくる幾重もの筋を見詰めた。
「妃を責めるどころではない。余が城壁に張り付くと、公女はこっちだ、公女が逃げたぞと、敵兵の怒鳴り声が夜闇の中から響いてくる」
「……はい」
「すぐに救出のために出陣しようとし、側近たちから羽交い絞めに止められた」
「え……?」
夜襲に討って出たのではないのかと、コショルー公の顔を思わず見返した。
歯噛みをするような、悔しげな表情。
「……外では、反乱軍の怒声や罵声が響き続け、……余は、側近たちに押さえ付けられたまま……、静かな夜明けを迎えた」
「はい……」
「反乱軍は……、全滅していた」
「……え?」
「……僅かな生き残りを探し出し、事情を聞くと、……同士討ちだった」
「同士……討ち……」
「ステファニアが……、あの幼い、あの6歳の幼女に過ぎなかったステファニアが、……流言を飛ばして駆け回り、同士討ちを誘っていたのだ」
言葉が出ない。
夜間の戦場で混乱を誘う流言飛語。やり方は、お母様から教わった。
眼下に広がる地形を見れば、どこでどんな声をあげればいいか、自分の声が幼女のものだということを加味して、頭の中では、すぐに作戦の立案ができる。
だけど、実行できるかと言えば別の話だ。
――神話級の天才。
その言葉が、重たく、切なく、悲しく、脳裏に響いた。
「……城を囲む一面の死屍累々。ステファニアを探させたが、見付からなかった」
「はい……」
安心して抱かれていた母親の、その手で投げ捨てられた直後に、頭を回し、落下の衝撃を最小限にとどめながら、駆け回る。
大軍勢を手玉に取って壊滅させる。
そして、お母様は母親のいる城には戻らず、炭焼きの村に落ち延びていた。
「余は……、妃が許せなかった」
コショルー公は、公妃を北の尖塔に追放して幽閉し、罰を与えた。
「……テンゲルの王女が憎く、テンゲルの血を引くステファニアが不憫でならなかった……」
公女ステファニアの不在は明らかにされず、共に幽閉されたものだと皆が思った。
魔法のように、一夜にして反乱軍を全滅させたのはコショルー公だと皆が思い、英雄視され、威厳を回復した。
「……誰が信じると言うのだ。ステファニアが、6歳のステファニアが反乱軍を全滅させたなどということを……」
「はい……」
「反乱軍に敗れたテンゲルは、よりにもよって余に賠償を求めてきた」
「……え?」
「……使者を追い返し、国交を断った。妃の返還にも応じなかった。妃は余が罰せねばならない」
コショルー公にとって、テンゲルは可愛い娘を奪った敵になった。
もう一度、城壁の下を見下ろした。
夜闇の中に落ちていくとき、幼いお母様は何を思い、何を考えていたのだろう。
篝火に照らされる母公妃の、ちいさく遠くなっていく顔を見詰めていたのだろうか。
落ちながら、すでに流言飛語策の立案を始めていたのだろうか。
お母様は決してわたしの手を放すことはなかった。いつも優しく微笑んで、最期まで深い愛情で包んでくださった。
壁は。
守ってくれる壁の中は、お母様をひどく安心させるものだったことだろう。
少なくとも父は、お母様を捨てはしなかったのだから。
「……コルネリア……殿」
と、コショルー公の声と一緒に、小雨降る音が耳に返ってきた。
「はい……」
「……余はステファニアに償いたい。余に出来ることであれば、いや、出来ないことであっても、何でも言うてくだされ」
祖父の深海のような深い青色をした瞳の奥は、愛情と悔恨の色に染められていた。
本日の更新は以上になります。
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