65.侍女伯爵は雨中を駆ける
ハンカチを出して、顔を拭く。
恍惚とするペーチ男爵の、まっすぐな瞳を見詰めた。
「……素晴らしい情熱をお持ちですね。感銘を受けました」
「そう仰っていただけますか!?」
スッと、飛沫を避ける。男爵の背後に並ぶ、仲間の貴族たちが苦笑した。
仲間は3人。いずれも下級貴族。
決して多くはないけれど、この危急の時に行動を共にしてくれる者がこれだけいることは注目に値する。
「テンゲル王政の問題点、よく理解できましたわ」
「まったく! わずかな期間、ご滞在されただけのカリス殿でさえお解りいただけるというのに、この国の貴族ときたら……」
「次は、ペーチ男爵。……行動に移すべきではございませんか?」
「……行動?」
「男爵のご高説を心地よく聞いてくれる者たちだけに囲まれていても、事態は何も動きません」
「そ、それはその通りなのですが……」
「耳を傾けてくださいませ」
と、ペーチ男爵を見詰めた。
ネルが人を動かすのは、類稀なる知性のためばかりではない。
エルヴェンの民。大河院の博士。リレダル貴族の取次。
皆の中に分け入り、話を聞き、目を輝かせて、深く共感してきたからこそだ。
ただ自説を滔々と述べて、押し付けてきた訳ではない。
「他国より参った我らが耳を傾けても、それは一時の憂さ晴らしにしかなりません」
情熱あふれるペーチ男爵とはいえ、これまではテンゲル王の粛清から身を潜め、陰で熱弁を振るっていたに過ぎない。
残念なことに、いまテンゲルに残る貴族は、皆そうだろう。
反乱を起こした下級貴族たちにしても、まずは王都の民を扇動して盾にした。暴動が失敗に終われば、素知らぬ顔をして元のままでいるつもりだったのだ。
民を盾にするような貴族に、次の権力を握らせたくはない。
それが、ネルの冷徹な願いだ。
「……ペーチ男爵に、民の盾となるお覚悟があるならば、我が主君コルネリアは必ずやお力になるでしょう」
「民の盾……」
「暴徒に武器を置くよう、ご説得ください」
ペーチ男爵、そして背後に並ぶ3人の仲間が息を呑んだ。
下級貴族の反乱軍は、暴徒を保護する動きを見せていない。
仮に反乱が成功したとしても、暴徒を処罰する腹積もりなのだ。権力に従順な民だけを残し、新たな苛政を敷くつもりなのは明らかだった。
暴徒を説得するにしても、自分たちの命に代えても免罪を勝ち取ると約束しない限り、武器は置かないだろう。
ただし、それはペーチ男爵たちが暴徒を庇ったと見做される言動だ。
王政側にしても反乱側にしても、王都を制した者が暴動の責を問うなら、ペーチ男爵たちにも疑いが及ぶ恐れが出てくる。
仲間のひとりが立ち上がり、ペーチ男爵の肩に手を置いた。
藍色めいた黒髪。肩幅が広く無骨な顔立ちながらも、知性も感じられる。
「……やろう」
「子爵……」
と、ペーチ男爵が顔を向ける。
「……ペーチ男爵よ。この先、テンゲルがどこに行き着くにしても、こうして荒れた王都の片隅で息を潜めてクダを巻いていた……、とだけ子孫に語り継ぐことなど、俺には出来ない」
仲間の貴族たちは次々に立ち上がり、ペーチ男爵に決起を促していく。
皮肉な見方をすれば、彼らとてペーチ男爵の情熱が頼りなのだ。
やがて、ペーチ男爵が、黙って頷いた。
表面の熱は鳴りを潜め、行動を問われる緊張で表情を硬くしている。
「武器を置けば、暴徒ではなく民です。我らの陣への避難を受け入れます」
わたしの言葉に、皆が頷く。
ペーチ男爵たちにも、まだ水没策や国王退位を目指すことは打ち明けられない。
飽くまでも、事態収拾のため王政と反乱軍との対立に構図を収れんさせた上で、ネルが仲裁に動くと伝える。
ネルにしてもわたしにしても、いつまでもテンゲルにいる訳ではない。
テンゲルの民、そして貴族が自分たちで収拾させたという状況をつくらなければ、なにも終わらないだろう。
必要があれば、わたしも暴徒を説得する場に赴くと約束して、修道院を出た。
雨足は強くなっており、そばを流れる排水路の水位が上がっている。
「……まったく、恵みだけをもたらしてくれたらいいものを」
と、ルイーセさんがボヤくように言って、傘を開いた。
「敵になったり、暴れたり、壊したり……、付き合いにくい相手だ」
「……ですから、味方にすれば心強いのでは?」
「なんだ? コルネリア様の受け売りか?」
「ええ、もちろんそうですわ」
と、わたしも傘を開く。
雲間が茜色に染まっている。予定通り進んでいれば、いまごろネルは王弟の水軍基地に到着しているはずだ。
ネルはきっとまた、アッと驚かされるような秘策をつかんで帰ってくるだろう。
思い出深いグレンスボーでさえ、王国全体のために水没させるという秘策をひねり出したネルのことだ。
決して私情に流されることなく、冷徹に民のことだけを想う策を持って帰る。
そのとき、ネルが行動しやすいように、わたしが地ならしをしておく。
雨中の宵闇が迫る中、下級貴族の兵が集結する被災地へと、慎重に歩を進める。
そして、エマに教えられた、孤児たちの溜まり場へと向かう。
「……想定より、浸水が早いのではないか?」
と、ルイーセさんの言葉に足を止めた。
地盤沈下している大河側の排水路から、すでに水があふれ始めている。
「……エマによると、悪ガキたちの溜まり場は地下室。水没が心配です。……急ぎましょう」
「そうだな……」
雨が本降りになる中、荒れた街並みからはさらに人影が消えている。
慎重に様子を窺いつつ、最短ルートを駆けた。
薄暗くなる中、明かりは使えない。頭に叩き込んだ地図を頼りに、ぬかるんだ路地を進む。
下級貴族たちが張る陣幕が、遠くに見えた。
煌々と篝火を焚き、けれど人の出入りは確認できない。
ルイーセさんの表情を確認する。
「……進軍させる気配は見えない」
「はい……」
「……後背を突かれることが、よほど恐いらしい」
「剣聖ルイーセに」
「そ……、そうだな」
と、ルイーセさんが顔を背ける。
ニヘラと笑う顔を、わたしにも見せてくれていいのに。
歴戦の騎士であるルイーセさんの分析を聞き、下級貴族の動向を予測する。
「答えはシンプルで、あの下級貴族たちも一枚岩ではない」
「……なるほど」
「誰が先陣を務め、誰が殿を務めるのか。おおかた、陣幕の中では喧々諤々の議論をしていることだろうよ」
軽蔑するような口調のルイーセさんだけど、眼光に油断は見られない。
下級貴族の率いる兵は、数だけなら、岩場に陣取るわたしたちの手勢よりも多い。ルイーセさんは侮る訳でもなく、冷静に敵情を分析して見せてくれた。
「……篝火の数が多い。主将クラスではなく、実戦の指揮をとる副将クラスが、今夜の戦闘はないと見ている」
ネルのとった膠着策が功を奏していると判断し、悪ガキたちの地下室へと急ぐ。
倒壊した家屋の貯蔵庫だった地下室。
明かりのない中、足を踏み外さないように気を付けて階段を下りる。
ノックして、エマの友だちだと伝えると、扉が開いた。
雨漏りがして、石畳の床にはところどころ水たまりができている。
ロウソクやランプが置かれ、幾重もの影が伸びる地下室で、子どもたちが十数人、いくつかの木箱の上にパラパラと座っていた。
中央の大きな木箱に座る少年。いっちょ前に親分面をしているけど、年のころは13か14といったところ。
濃い茶色の髪は、しばらく洗えていないのだろう。ロウソクの灯りでツヤツヤに照らし出されていた。
わたしが、岩場の陣に避難するようにと伝えると、少年は大きくため息を吐く。
「そんな話、信じられるかよ……」
「あのね……」
「……いや、おばさんたちの立場も分かるぜ?」
「おばっ……」
少年よ。この男装の女伯爵は、まだ19歳だ。もうすぐ20歳だけど。
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