56.冷遇令嬢は胸を満たす
早朝の黄色い陽光に照らし出される岩場には、既に地形に沿った陣が布かれていた。
中心には数多くの避難民。
それを守れるように騎士たちが配置され、一部では天幕が張られ始めていた。
軽やかな活気さえ感じる。
馬を降り、エイナル様と歩くと、避難民たちは口々に感謝の言葉を投げかけてくれた。
遠くでカリスが手を振っているのが見え、大きく振り返す。
カリスがジェスチャーで子どもたちが寝たことを伝えてくれ、わたしは両腕で大きく丸をつくって応えた。みんな無事らしい。
本陣の帷幕に入る。
「疲れたでしょう? はい」
と、ビルテさんが木のカップにお茶を淹れてくれた。
「……陣形構築の素晴らしい手際に、感服しました」
「ははっ。……エルヴェン陥落時の撤退戦に比べたら、どうということはありませんでしたよ」
指先に微かな震えを感じながら、お茶をいただく。
舌に、喉に、温かいもの通るというだけで、こんなにも気持ちが落ち着くことがあるのかと、目を輝かせてしまった。
カーナ様が姿を見せる。
鎧を脱がれ軽装だ。
「桟橋を焼かれた時に軍船を脱出してから、ずっと潜伏してたのよ?」
と、笑われた。既に小川で沐浴を済まされたらしい。
ながい銀髪がサラリと風に揺れた。
「よし。コルネリアは、すこし休憩だ」
と、エイナル様が後ろから、優しく抱き締めてくださる。
「ちょ……、カーナ様も、みなさんもいるところで……」
と、狼狽するのだけど、背中の温もりが心地いい。みなさんも微笑ましげに見守ってくださっている。
ぶるっと、震えがひとつきた。
「さあ、ボクたちの天幕を張ってくれている。すこし眠ろう」
「いえ……」
「どうして?」
「……まずは、王宮に使者を」
「王宮? ……避難民の保護を求める?」
「いえ。厳重に抗議します」
と、エイナル様の胸の中から一歩前に進むと、足下がふらついた。
帷幕の中心に置かれた机に、手を突いて身体を預ける。
「……抗議?」
「はい。……他国からの特使であるわたしたちの安全を図らないとは、大変に遺憾であると……」
「なるほど」
と、カーナ様がわたしの顔をのぞき込まれた。優しげに微笑んでくださっている。
「それで『避難民を保護してるけど、何か文句ある?』と、突っぱねる訳ね?」
「……そうです」
「使者は? 私が行こうか?」
「いいえ。……カリスに、護衛の騎士を付けて……」
「なるほど。カリスなら、豪雨対応の功績で伯爵に叙爵された爵位持ち。正式な使者として遜色ないわね」
「それから……、えっと」
と、わたしの言葉が途切れるや、ふわりと身体が浮いた。
「……え?」
「カーナ。……いや、カーナ妃殿下。後のことはお任せしてよろしいか?」
と、微笑まれるエイナル様のお顔が、すぐそばにある。
気付けば、両膝の裏と背中に、エイナル様の腕があった。
カーナ様のお声がいちだんと軽くなった。
「ええ。こう見えましても私、王立学院を首席で卒業した才媛でございますのよ?」
「ははっ。ビルテとルイーセと仲良くな」
軽やかに笑われるエイナル様を呆然と見上げ、為されるがままに帷幕を出た。
「ふふっ。コルネリア?」
「は、はい……」
「おかしいのは、ボクたちだからね?」
「え……?」
「……戦場っていうのは、本来、正気でいられるような場所じゃない」
と、エイナル様は、わたしを抱きかかえたまま、ゆっくりと歩いていかれる。
目に差し込んで来る朝陽が妙に眩しい。
「……コルネリアは、ひと呼吸いれるべきだ」
「ですが……」
「なに?」
「わたしは……」
「うん」
「……エイナル様を差し置いてまで、正使の立場にあるのですから……」
「その荷物は、みんなで一緒に背負わせてくれないかな?」
と、エイナル様が天幕をめくられた。
薄暗い天幕の中では、隙間から陽光が線になって差し込んでいた。
床にわたしを降ろし、エイナル様はそのまま後ろから抱き締めてくださる。
「……深呼吸して」
耳元でするエイナル様のお声は、どこまでも優しい。
お言葉の通り息を吸い込もうとして、自分が深く呼吸できないことに気が付いた。
「……焦らず、ゆっくり」
「はい……」
吸って。吐く。吸って……。
身体が吸い切るのを、待ってくれない。
エイナル様がわたしを抱きしめたまま、右に左に、ゆっくり身体を揺らし始める。
その、波間に漂うようなゆったりとしたリズムに、
――わたし……、頭と心が……、別々に動いてる……。
と、気が付かされた。
頭は膨大な量の策を次々に立案し、検証し続けているのに、心は動きを止めようとしていた。
エイナル様が耳元で、甘く囁かれる。
「……コルネリアがすごいなぁって、ボクがいつも思わされるのは、学才でも知識でもないんだよ……?」
「え……?」
「出来ないことは任せられるところだ」
「……はい」
「自分より出来る人には、素直に任せてしまう。自分より知ってる人には教えを乞える……」
「だって……、出来ませんから」
「うん。すごいよね。……測量はギーダに任せてしまうし、騎士団の指揮はビルテに任せて、豪雨の予測も博士たちを頼った」
「ええ……」
「大丈夫。……ひと眠りするくらいの間、みんなが助けてくれるよ?」
「……はい」
「でも、コルネリアの代わりに眠れる人は誰もいないんだ」
「ふふっ。……わたし、初陣に興奮しているのですね?」
「はははっ。さすが、コルネリア。賢いなぁ~っ! その通りだと思うよ?」
と、エイナル様から頬ずりされる。
「もう……。くすぐったいで……、んむ」
唇を塞がれる。
エイナル様のゆったりとした呼吸を感じ、それに合わせて、吸って、吐いて……。
鼻から吸った息が、胸を満たす。
天幕の外から、ザワザワと聞こえる、みんなの声が遠くなっていった。
「……おやすみ」
というエイナル様の優しい声に、たぶん、夢の中で答えた。
Ψ
真夜中に、エイナル様の腕の中で目が覚めた。
天幕の外も静かだ。
見張りだろう。騎士らしき足音だけが聞こえる。
うっすらとエイナル様の寝顔が見えて、
――ずっと、そばにいてくださったのだ……。
と、顔がにやけた。
身体を起こそうと、わたしの腰を抱いてくださっている腕を触ると、
「……コルネリア、起きた?」
と、エイナル様の目が薄く開いた。
「すみません。……起こしてしまいました?」
「ううん。大丈夫」
チューをチュッとして、微笑み合ってから、ふたりで天幕を出た。
陣を囲むように篝火が焚かれ、哨戒の騎士たちが寝ずの番をしてくれている。
避難民を収容しているエリアには、簡易の小屋らしきものが建ち並んでいた。
「……あの林から、木と葉っぱを調達したんだね」
と、エイナル様が指差した先には、樹々がシルエットになって見えた。
「バーテルランドとの戦争は常に一進一退だった。難民収容のノウハウも蓄積されてるんだよ」
「恐れ入りましたわ」
この手際の良さには、さすがに舌を巻いて苦笑いでもするほかない。現場の知恵と技術に学問では太刀打ちできない。
皆を起こさないよう、そおっと歩く。
すこし離れた場所で、ふたり腰を降ろして星空を見上げた。
やっぱりエイナル様は後ろから抱き締めてくれて、わたしは背中を預ける。
最初に出会ったときから、エイナル様はこうしてわたしの背中を抱いて、どこにでも連れて行ってくださった。
わたしを本当に信頼し、尊敬してくださっていることが伝わる。
エイナル様の〈いい奥さん〉になりたいと背中を預けたのは、カーナ様の招きに応じてブロム大聖堂へと旅立った時だったか。
「……コルネリア?」
「は、はい?」
「今、コルネリアが考えてることを、全部、教えてくれない?」
「……全部ですか?」
「うん……」
「あの……、いい奥さんになりたいなって……」
「あ……、うん」
「あれ? ……違いました?」
「ううん! とても嬉しいよ! ボクもいい旦那さんになりたいよ!?」
「……違うのですね?」
「……はい」
「ふふっ」
「ふふふっ」
微かに虫の声だけが響く夜闇の中、ふたりでクスクス笑ってしまった。
「……コルネリアの考える、ベストな策を教えてくれる?」
「ベスト……、ですか?」
「……迷いがあるんじゃない?」
ある。迷いはある。
ベストな策は、過酷な策でもある。
「ボクはコルネリアがコルネリアである限り、どんなコルネリアであろうとも、……愛するよ」
「……はい」
やや離れて広がる王都の市街も、寝静まっている。
いや。実際には思惑を持った者たちが、あの闇の中を暗躍し続けているだろう。
夜の風が生ぬるく、湿り気を帯びている。
雨期が近い。
「エイナル様に……、隠しごとはいたしません」
「うん。嬉しいな」
誰にも聞かれぬよう、エイナル様にしか聞こえない小声で、わたしは囁く。
本日の更新は以上になります。
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