41.冷遇令嬢は丘に登る
モンフォール侯爵家領に入った。
まだ、どこもぬかるみと水たまりだらけで、馬車では入れない。エイナル様の馬の前に乗せていただく。
王都に向かう前に状況を確認しておきたかったのだけど、想像以上の惨状だった。
ぬかるみに腰を降ろす領民の目は虚ろで、瓦礫を撤去する者たちも無気力に引きずり、さながら幽鬼のごとく。
ときおり悪臭が鼻をつき、流出を免れた樹の枝には絡まったゴミが垂れさがる。
侯爵家累代の墓地も水に浸かり、伝統ある礼拝堂は流されたらしい。無惨な跡地に眉をしかめた。
決壊した堤防跡にも足を運ぶ。
――どうすれば、堤防がこういう壊れ方をするのか……。
と、わたしは久しぶりに扇で口を覆った。
長年、水防施設にはなんの手入れもせず、6年前に受けたダメージで限界を迎えていたのだろう。
なのに、税収のほとんどが、お母様とわたしを軟禁するために使われていたのだ。
父が、お母様の宰相就任を妬んで吐いた「産後の肥立ちが悪い」という小さな嘘は、保身と保留を、重ねに重ね、ついには、ここまでの惨状を招いたのだ。
「……嘘は吐かず、本当のことだけ話しましょうね」
と、つい、頭上にエイナル様のお顔を見上げてしまった。
旅の途中、ポツリポツリと、わたしの生い立ちをエイナル様に聞いていただいた。
エイナル様は穏やかに受け止めてくださり、わたしの話すこと以上にお尋ねにはならなかった。
ただ、やさしく聞いてくださった。
――コルネリア殿がコルネリア殿である限り、ボクは愛するよ。
お言葉が胸に蘇り、頬を紅くした。
どこまでご存知だったのか、わたしも聞かなかった。馬上、エイナル様に背中を預け、わたしは〈初めての故郷〉に訪れた。
水没を免れた、小高い丘に登る。
カリスの祖父である執事長が待ってくれていた。
「……旦那様は、テレシア様を侯爵家の墓地に埋葬することを拒否され、私がこちらに……」
と、執事長の建ててくれた、木製の墓標に祈りを捧げた。
執事長の配慮のおかげで、お母様の眠りは洪水に妨げられなかった。
「テレシア様は、ここからの眺めがお好きでしたから……」
「そう……」
「……私が、テレシア様を旦那様に引き合わせたのです」
と、執事長は、荒れ果てた領内を見渡しながら呟いた。
領内のところどころから、炊煙が昇るのが見えた。エルヴェンから運び込んだ救援物資で、カリスとばあやが中心になって、炊き出しを始めてくれている。
モンフォール侯爵家の家臣は、ほとんどが逃げ出していた。
執事長が残った者たちをまとめ、民の救援にあたっているけど、手が回っていないのは明らかだった。
執事長の老いた顔には深い悔恨が刻まれ、口惜しさと、やるせなさが隠せていなかった。
かつて、母国よりさらに大河の下流、テンゲル王国の宿場町で、執事長は若き日のお母様に出会ったそうだ。
酒場で働くお母様は威勢がよくて機転が効く。働きぶりに感心した執事長が、侯爵家のメイドにスカウトした。
「え、ええ~っ!?」
と、お母様は大口を開けて驚き、そして、喜んだ。
「いいわね~! 私、いろんな国を旅してみたかったんだよねぇ~!」
と、身寄りのない孤児だったお母様は、ふたつ返事で了承されたらしい。
「連れ帰り、磨いてみれば類稀なる美貌。旦那様の目にとまり……。先代の旦那様の反対を押し切る手伝いを……、私もしたのですが」
「そうだったのね……」
それ以上は、わたしの心が整ってから、また聞かせてちょうだいと、執事長に微笑んだ。
王都に向かう。
道中も洪水の爪痕が残り、馬車がひどく揺れるので、またエイナル様の馬に乗せてもらった。
「わたしも、乗馬を覚えた方がいいですわよね……」
と、エイナル様を見上げたら、難色を示されてしまった。
「えぇ~。馬は覚えないでほしいなぁ」
「……そうですか?」
「こうして、コルネリア殿と寄り添う理由がなくなってしまう……」
「ま」
そばでは、護衛にあたる赤髪の女騎士ビルテさんと白銀のルイーセさんがヒソヒソと苦笑いしている。
ふたりは、エルヴェンの騎士団を再編するにあたり移籍してくれたのだ。
ビルテ騎士団長と、ルイーセ親衛長のもと、エルヴェン騎士団を無事に発足させている。
お留守番のクラウス伯爵も、しばらくは政務総監を務めてくれる。いずれはカリスに引き継いでもらいたい。
敵国の地に、わたしは根を降ろそうとしていた。
執事長の案内で、王都のモンフォール侯爵邸に到着する。
ほぼ初めて見る本邸は、傾いていた。
6年前の氾濫で傷んだ建物を、ろくに修繕していなかったのだろう。恐らく、取り壊すしかない。
そして、その隣に建つ、異様な筒。
高く、不恰好に、上から何度も塗り固めた跡のある、壁。
水に浸かったはずなのに、ビクともしていない。
「あの中で……」
と、思わずといったご様子のエイナル様が呟かれ、そして、絶句してしまわれた。
ずぶずぶに、ぬかるんだままの庭を通り、壁の中に入った。
別邸は完全に倒壊していた。
わたしとお母様が暮らした痕跡は、なにも残っていない。屋根を残してほぼ原形をとどめない瓦礫の山は、小さな丘のようになっている。
そして、わたしも存在を知らなかった屋根裏部屋が露出していた。
瓦礫の丘に板を渡し、ビルテさんとルイーセさんが安全を確認してくれ、慎重に登って、天井の低い屋根裏部屋へと入る。
そこには、お母様の日記が遺されていた。
倒壊が起きたのは水が引いた後だったらしく、日記は濡れていない。
パラパラとめくり、すぐに閉じた。
薄々気が付きながら、わたしがどうしても認めたくなかった事実が記されていた。
お母様は、最期まで父を愛していたのだ。
自分を見付けてくれ、恋に落ち、愛してくれた父を、最期まで愛していた。お母様は、父の側にいたかったのだ。
わたしは、お母様が父を悪く言うのを一度も聞いたことがなかった。
「ふふっ。これは、さすがに……、保留ね……」
遺されていた日記はすべて、大切に保管するため馬車に載せた。
お母様にとってのエイナル様が父であったことは、今はちょっと受け入れられないけれど、いつの日か、ゆっくり読ませていただきたい。
そして、屋根裏部屋に何冊かの学問の書物が隠されているのを見付け、お母様が〈カンニング〉していたことに気が付く。
見付かれば取り上げられる書物を、大切に隠し持っていたのだろう。お母様の字でたくさん書き込みしてある中に、
〈私の愛しいネル、賢い! 置いて行かれたら、母の沽券が!〉
という走り書きを見付け、指で撫でた。
「ズルいわね……、お母様。わたしは全部、頭のなかに収めてたのに」
と、苦笑いした。
ドレスやイヤリングなんかより、わたしにとっては遥かに価値のある形見に触れ、お母様の優しい笑顔を想った。
なにより、お母様の肉筆がわたしの手に戻ったことが嬉しい。お母様の生きた痕跡。
お母様との日々は、幸せだったと思う。
まだフランシスカの嫌がらせもそれほどではなかったし、いつも、お母様とふたり、笑っていた。
だけど、外の世界に出たくてたまらなかったことも本当だ。
別邸を後にする。
わたしが初めて目にする王都には、まだ水が残り、家屋から泥を掃き出す人たち、流木を撤去する人たち、皆、疲労困憊して見えた。
すべて父の罪だと、胸が痛んだ。
宿舎には離宮を用意してくださっていて、わたしは王宮に入った。
宰相閣下が出迎えてくれる。
「コルネリア大河伯閣下のご助言により、他の堤防はすべて無事。侯爵家領に近接していない地域の被害は軽微。皆、感謝しており、とても、モンフォール侯爵と同等には扱えません」
と、深々と頭を下げられても、なんと挨拶を返せばいいか分からない。
とりあえず、父の所業を詫びた。
「……やめてくださいませ、コルネリア閣下。わけて、ソルダル大公家におかれては、故地を水に沈めてまで洪水を防がれたとか」
「ええ……。大公閣下には快くご了承いただきました」
「下流にあたるわが国も、その恩恵を受けております。……コルネリア閣下を、複雑なお立場に置いてしまうのは、我らの不甲斐なさがゆえ」
と、宰相閣下はふたたび深々と頭をさげられた。
翌日。初めてお目通りする母国の国王陛下の御前で、父モンフォール侯爵に対する裁定の場が開かれた。
わたしは、エイナル様と並び、侯爵家継承権第一位の長女として立ち会う。
獄から連行された、父と義母、そしてフランシスカと再会する。
手枷のつけられた、無惨な姿。表情は虚ろで、打ちひしがれている。
フランシスカは、チラとわたしを見たけど、衛兵に背を押され、跪かされた。
立ち並ぶ母国の群臣から向けられる、父たちへの冷たい眼差しと、わたしへの敬意と感謝。
わたしとお母様を軟禁し、世間から隠し続けた愚かな一家が、裁きを待っている。
救いの手を差し伸べるつもりは、一切ない。




