241.冷遇令嬢は握り返せない
「思いっきり動揺しておけ……、ってことだと思うよ?」
と、エイナル様はわたしの手を握りしめたまま、やさしく微笑んでくださった。
私室の窓際。椅子をふたつ並べ、ふたりきりで見詰め合う。
「……カーナ自身も説明に来るって言ってるのに、先に書簡に書いて寄越したのはそういう意味だと思うな」
「そう……、ですわね」
わたしがエイナル様と離婚することで、戦争が回避され、多くの命を救う。
ロアンの要求に、わたしは確かに激しく動揺している。
――離婚がイヤだから、戦争を……。
とは……、言えない。
一度訪れたソルダル大公領で領民たちは沿道に出て、わたしとエイナル様に笑顔で手を振ってくれた。
市街は賑わい、活気にあふれ、子どもは駆け回って、夕飯の献立を教えてとお母さんにぶら下がって笑っていた。
ロアンの大軍がなだれ込めば、わたしが目を輝かせたあの景色は、みんな血の色に染まる。炎に焼かれる。
侵攻は、ソルダル大公領で喰い止められるだろうか。リレダルの王都ストルムセン、ブロム、エルヴェン……。
果物屋のおかみさんが、ふたたび家を失い、商いを失い、戦地と化し荒れ果てたエルヴェンの街で呆然と座り込む姿を思い浮かべてしまう。
わたしはエルヴェンの領主として、おかみさんのパートナーになった燻製職人のおじさんを、兵士として徴発せずに、大軍の侵攻を止められるだろうか。
旦那さんと息子さんを戦争で失い、やっと巡り合えたパートナーを、また戦争が、わたしが、おかみさんから取り上げるのか。
――生き残ったからには、せめて幸せにならないとね! 姫様のエプロンのお陰で、新しい旦那をつかまえられそうだよ!
おかみさんの笑顔。思い出すだけでも涙がこぼれそうになる。
知力をふり絞り、軍略を駆使して理不尽な侵攻に立ち向かうとしても、多くのものが失われる。命も笑顔も暮らしも……。
損耗率。兵の命があまり失われなかったねと喜ばなくてはならない日々が訪れる。
ひとつも失いたくはないというのに。
戦争は始まらないに越したことはない。
だけど、エイナル様と離れ離れになることもまた、考えられない。
わたしの手をやさしく握り締めてくださるエイナル様の手を、……わたしは握り返すことができない。
握り返せば、多くの血が流れる気がした。
いや、握り返すことが、お別れの挨拶になってしまうのではないかと恐れた。
「う~ん……、カーナは交渉場所の国境地帯でコルネリアへの書簡をしたため、早馬に託した」
「はい……」
「早馬は軍用高速船で大河を下り、書簡を届けてくれた。で、カーナ自身も早馬を追いかけるようにして、馬車を飛ばしたと思うんだ」
「そうですわね……」
「だから、早馬と馬車の速度の差しか違いがなくて……、たぶん、カーナも今日の夕方くらいには到着すると思うんだ」
確かに、ことの重大さに比べ、早朝と夕方とは、わずかな差でしかない。
カーナ妃殿下が、ご自身の言葉でわたしに伝えたい内容が別にあるはずだ。
そして、それまでに心を決めよという、カーナ妃殿下の意志が読み取れた。
「ボクが、この手を放すことはないよ」
エイナル様はわたしを見詰め、やわらかに微笑まれた。
「……わ、わたしも……、ですわ」
「ありがとう。……バーテルランドとの戦争を終わらせるための結婚だったけど、もう、ボクにはコルネリアのいない人生は考えられない」
「そ、そんなに簡単に……、仰られると、困ってしまいます」
「どうして?」
エイナル様は、ずっとやさしげに微笑み続けてくださっている。
「……た、民を戦火に晒すことになります」
「うん、それでもだ」
「そ……、そうはならないと、……お考えなのですわね?」
「……カーナと父上からの連絡が途絶えた2日間。ふたりが、この条件を一方的に受け入れたとは考えにくい」
「それは……、たしかに」
「書簡では伝えにくい、なにか別の条件を突き付けられたか……、あるいは突き付けたか」
カーナ妃殿下は、その別の条件に触れる前に、
――ふたりの絆を確認しておきなさい。
と、仰っているのだ。
エイナル様の手を、ギュッと、ありったけの力を込めて握り返した。
「……好きです。離れたくありません」
「うん、ボクもだ」
「ズ、ズルいです……」
「ズルい?」
「……わたしの言葉に『ボクも』ではなくて……、その……」
「ごめんね。……ボクも好きだよ。愛してる。ずっと一緒だ。離れたくない」
「はい……」
手を握り合い、見詰め合った。
エイナル様のエメラルドグリーンの透んだ瞳には、わずかな揺らぎもなかった。
ただまっすぐに、わたしを見詰めてくださっている。
ゆっくりと、心の強張りが解けていく。
不意にエイナル様が、ふふっと笑われた。
「……カーナは、こんなボクたちを見たくなかったのかもね」
「まあ……。それは、ちょっと意地悪な想像ではありませんか?」
「あれ? コルネリアは違うと思う?」
「そ、それは、…………ちょっと?」
カーナ妃殿下には悪いのだけど、エイナル様とクスクスと笑い合う。
だけど、カーナ妃殿下でなくても、たとえカリスであっても、こんなにまっすぐに愛を確認し合うところに居合わせたら、目のやり場に困るというものだろう。
案外、エイナル様の読みは当たっているのかもしれない。
大きく深呼吸して、心を平静に戻した。
カーナ妃殿下が、はるばるカルマジンにお運びくださってまで、わたしとエイナル様にお伝えになる和平の条件を冷静に判断できるよう、心を整えていく。
カリスとユッテ殿下には口外無用とお願いして、各国の大使にはまだ情報が漏れないように手配した。
メッテさんにだけは相談したい気持ちを、グッとこらえる。
まずは、わたしとエイナル様だけで受け止めるべきだ。
通常の執務を粛々とこなしながら、カーナ妃殿下のご到着をお待ちする。
いただいたご書簡には『一切の出迎えは無用』と書かれており、儀仗など本来なら王太子妃殿下のご訪問に必要な儀礼はすべて手配せず、街道に騎士を待たせた。
目立たないように清流院にご案内する。
受け入れはカリスに委ね、ほかの侍女にも知らせない。
わたしとエイナル様とだけで、カーナ妃殿下のお話をおうかがいする。
「え~っ!? ……そ、それは、どうなの?」
と、カリスの報告に大きく驚いてから、声を潜めた。
「でも、ネル。……あのお部屋がいちばん、誰にも気付かれないわ」
「そ……、そうだけど……」
「貴賓室だと各国の大使のどなたかが、ひょっこり顔を出すかもしれないし、そもそも清流院は人の出入りが多い施設だし」
カリスは、サウリュス陛下が残した〈コルネリアの部屋〉で、カーナ妃殿下と会うようにと言ってきたのだ。
「なんだか……、一気に肩の力が抜けちゃわない?」
「それでいいんじゃないの?」
「そ、そうかもだけど……」
わたしもだけど、カーナ妃殿下もどんな顔をしたらいいかお困りになられるのではないか。
壁の全面を、52枚のわたしの笑顔が飾っているのだ。
ただ、たしかに最も密談に適したお部屋ではある。
わたしが清流院を動けば、それだけで目立ってしまう。
密会場所は清流院の中が望ましく、なんの命令も出さなくても、絶対に誰も出入りしない場所としては、あのお部屋しかない。
わたしとエイナル様の寝室ですら、ハウスメイドが来ないとも限らない。
すでに、わたしもカリスも、ハウスメイドの動きまでは把握できていない。
情報漏れを防ぐなら、メイドに特別な命令を発するのも避けておきたい。
「とほほ……、って、生まれて初めて口にしたわ」
「ふふっ。カーナ妃殿下にもご覧いただいたらいいじゃない。サウリュス陛下の描かれたネル、とっても素敵よ?」
「……これ以上なく真面目な話をするんだけどね」
と、口を尖らせた。
果たして、ご到着されたカーナ妃殿下は〈コルネリアの部屋〉で、実に優美に微笑まれた。
「これは、どういう圧力のかけ方なのかしら?」
「い、いえ……、圧力とかではなくてですね……」
エイナル様は苦笑いされるばかりだ。
「まあ、なんという美しさと悔しがって、ハンカチでも噛めばよいのかしら?」
「そ、そんなのでは……」
「ふふっ。分かっておりますわよ。……どれも素晴らしい絵画ですこと。惚れ惚れいたしますわ」
と、カーナ妃殿下はお部屋を見渡された。
相変わらず流麗にして優雅な所作。まっすぐ伸びる背筋のお美しさは、メッテさんとカリスに並ぶ。
「……あのサウリュス陛下の作なのですわよね?」
と、目をほそめられた。
カーナ妃殿下とサウリュス陛下は、ユッテ殿下にお誘いいただいた『第一王女の世襲庭園』でのピクニックで面識がおありだ。
「さすがの筆致。コルネリア陛下の美を描き尽くしておられますわね」
「きょ、恐縮です……」
「……本当に素敵な笑顔。心が惹き込まれてしまいますわ」
そして、ふり向かれたカーナ妃殿下は、憂いに満ちたお顔を、窓から差し込む夕陽の赤に染められた。
「その笑顔を曇らせてしまう報せを、お伝えせねばなりません……」
「はい。おうかがいいたします」
カリスが部屋の真ん中に用意してくれていた小さなテーブルをはさみ、カーナ妃殿下と向かい合った。
わたしの隣にはエイナル様。
テーブルの下で、そっとわたしの手をやさしく握ってくださった。
本日の更新は以上になります。
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