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240.冷遇令嬢はまっすぐ歩けない

朝の鍛錬は続いている。



「……目を閉じて、その場で前後に体重を移動させてみて。はい、前に……、後ろに……」



エイナル様のお声に合わせ、ゆっくりと身体を動かしてみる。



「……足の裏の、どの部分に体重が乗ると、身体がどう傾くか」


「はい……」


「その〈物理法則〉が感じられる?」


「あ、はい……、なんとなく」



ロアンの動きが激しく、夕刻の鍛錬は行えない日が増えた。


カーナ妃殿下を特使とした〈和平交渉〉は続いており、その進捗の報告が届くのが、だいたい夕刻あたりになるという事情もある。


情勢を分析し、各国と共有して意見交換をしていると、深夜に及ぶことも多い。


だけど、



「朝はきちんと起きた方がいいぞ!」



というユッテ殿下のお言葉もあり、早朝の鍛錬は続けることにしている。


ユッテ殿下がイグナス陛下に想いを打ち明ける勇気を得るために始まった鍛錬は、すっかりわたしの『運動音痴克服大作戦』になっている。



「……目を閉じたまま、そっと片足をあげてみて?」


「はい……、あっ」



転びそうになったわたしを、エイナル様が抱き止めてくださる。



「ふふっ。大丈夫?」


「あ、ええ……」


「怖かったよね?」


「……はい」


「目を閉じると、人の身体はこれほど不安定になるんだ」


「はいっ!」



初めての体験に、思わず目を輝かせた。


自分の身体なのに、こんなに思う通りにいかないものかと、初めて気が付いた。



「……コルネリアの『運動音痴』は、単にこの感覚に不慣れなだけなんだ」


「慣れ……、なのですね」


「うん、そうだよ。こればかりは、頭で理解するだけじゃ上手くいかないよ? 身体にゆっくりと覚えさせるしかない」


「へぇ~、はいっ! 分かりました!」



エイナル先生のご教授は分かりやすい。


ゆっくりと、だけど確実に、わたしの理解の歩みに合わせてくださる。


そう、出会ったばかりの頃、わたしが自分の生い立ちについて話せるようになるまで、ジッとお待ちくださったように――、



「そう、上手! ……コルネリアのお母上は運動神経抜群だったんでしょ?」


「……わたしにお見せくださったことはなかったのですけど……」


「ふふっ、大丈夫。ちゃんと身体には受け継がれているよ?」


「そうですか……?」


「うん、間違いない。……コルネリアは、自分の身体を知らなかっただけだ」



わたしが転ばないよう、エイナル様はわたしの手を握ってくださっている。


その、手の平の温もりに、どれほど助けられてきたことだろうか。



「うむ! コルネリア陛下の上達ぶり、見違えるほどだぞ!?」



と、ユッテ殿下も胸を張ってくださる。


昇ったばかりの爽やかな朝陽に照らされた中庭は、わたしのすべてを祝福してくれているかのように輝いて見えた。


目を閉じる。


そっと片足をあげる。


グラつく重心を感じて、それを補うように動く。


ピタリと止まれる。



「……目を閉じて、遠くカーナ妃殿下のことを思うときにも、わが事のように感じられるようにと、エイナル様は仰っているですわね」


「あ、え? ……いや、ボクはコルネリアが馬に乗れるようになったらいいなって……」


「え? ……さ、賢しらなことを申しました……」


「ううん。……ひとつの学びから、様々に思索を広げる。とても、コルネリアらしいと思うよ?」



薄目をあけると、エイナル様はやさしげに笑っておられた。


余計なことを言ってしまったと、すこし気恥ずかしい。


大河流域の全域が緊張に包まれる中、穏やかな時の流れに、張り詰めた神経を解きほぐしてもらう。


ソルダル大公領から西方につながる狭隘(きょうあい)な交易路。その両脇にそびえる山はごつごつとした岩山で崖だらけ。馬は通せない。


だけど、かろうじて人なら通れる秘密の通路が確保されており、そこを通じて密偵からの報せが届く。


執務室に入り、分析を続ける。


密偵は目にしたもの、耳にしたものに、自分の主観を交えることなく、雑然としたまま生の情報を書き送ってくれている。


そのどこかに、ロアン帝国の治政、もしくは新帝バスチアンの〈弱み〉は潜んでいないかと、慎重に精査する。


ひとつ気になる情報もあった。


ソルダル大公領を抜け出し、行方が分からないままになっている、テンゲル前王の元第2王子マーティンらしき者の姿を目にしたという報せだった。



――豪商が取り巻きの無頼を従えて街を歩く一群のなかに、似た風体の者が……。見間違いかもしれませんが、念のため書き送ります。



新帝バスチアンの猥雑な国づくりにおいては、目端の利く無頼が成り上がる例が多くみられるようだ。


悪事に手を染めれば首が飛ぶとはいえ、ギルドなど旧来の商慣習にうるさい者たちが排されたことで、一獲千金を狙う者が集まり始めていた。



――おたずね者が生きられる場所も広くなっていそうね……。



マーティンの居場所はいずれ突き止めるにしても、いまは重要ではない。


ロアンがソルダル大公領領との国境地帯に展開させる『東方遠征軍』の大軍に関する情報分析に集中する。


軍勢のおおよそ正確な数字が届き、万一、開戦した場合の戦況を予測する。



「……これだけの大軍。狭隘(きょうあい)な交易路を抜かれたら、かなり苦しいな」



と、ルイーセさんが不愛想に呟く。



「交易路を突破するため、人海戦術で昼夜を別たず攻めてくるでしょうね……」


「うむ。……岩や板で交易路を塞いでも、相手が兵の命を気にしなければ、いくらでも取り除かれてしまうな」



狭隘な交易路は天然の要害だ。突破されたら、大軍は思うがままに大河流域へとなだれ込んでくる。


大河流域国家の全軍で迎え撃てば、まだ勝機をつかめるかもしれないけれど、いまのところ、その目途は立たない。


開戦したなら、交易路を守り抜くことが初戦の勝敗を分ける。


深夜。目立たないように、密かにカリスと髭ヅラの騎士ゼンテを私室に呼んだ。



「……気乗りはしないのだけど、そうも言っていられなくなったわ」



と、ふたりの前に図面を広げる。



「ボウガンの改良をお願いしたいの」



闇夜の森での戦闘で思い付いていた。


いまよりもずっと扱いやすくて強力。新兵でも、わずかな訓練でたちまち熟練の弓兵部隊に仕立てられる。



「……狭隘な地形の上から、それも両側から大量の矢を降らせたら、大軍でも足止めできる……」


「頭上に盾をかまえて突撃されたら?」



と、ゼンテが顎ヒゲを撫でた。



「……この改良に成功すれば、軽い盾ならば、鉄製でも矢が突き抜けます」


「なんと……」


「重装の盾をずっと頭上に構えて進軍させるのは現実的ではありません」


「……そうですな」


「連射も可能です……」



気の重い話だ。より手軽に敵兵を倒せる方法……、つまり、より手軽に人の命を奪える方法について議論している。


だけど、この議論を避けたら、ロアンの兵に大河流域を蹂躙されてしまう。


そうなれば、より多くの命が失われることになる。それも、わたしの大切な家族のような、大河の民の命が……。



「……あまり、この技術の存在を広めたくないの。カリスが兵器の開発に関わってるとは誰も思わないから……」


「うん、分かったわ」


「ロアンの意図はまだ読めないけど、交渉を長引かせにかかってる。……開戦までに開発が終わればベストなのだけど……」



ロアンの要求は二転三転している。


ソルダル大公領を割譲せよと言ってみたり、リレダル王国全体に臣従を迫ったり。


カーナ妃殿下が毅然と対応されているけど、ロアンに翻弄されているというのが実際だろう。


交渉が長引けば長引くだけ、こちらの軍備が整うだけだというのに、ロアンの真意がつかめないまま時が過ぎていた。



「……大軍を相手にするとき、こちらに近寄せないのは、まずは常道。距離をもって攻撃できるボウガンの改良は、やっておきたい備えなの……」



開発には限られた最低限の人員しか関わらせないようにと念を押し、図面をふたりに託した。


お母様の考案した〈輸送手形〉が闇組織を肥え太らせる〈悪の種〉になってしまったように、わたしのつくる新型ボウガンもまた、あらたな悲劇を生みはしないか。


それでも、平和を守りたい。


戦争が避けられないものなら、できるだけ早く終結させるだけの、圧倒的な戦力をそろえるしかない。


ロアンが主力とする騎兵に、強力な弓兵部隊は天敵となる。


窓の外に、鋭利に尖った三日月を見上げた。


そして、数日が過ぎた。


さすがに、ロアンの狙いが戦争ではないのではないかとの疑念が生じる日数だ。


カーナ妃殿下やソルダルのお義父(とう)様からのご連絡も2日途絶えている。


交渉が佳境に入っているのだろう。


大軍の動員が、外交交渉を有利に進めるための仕掛けでしかなかったのだとしたら……、ロアンの真の要求はなんなのか。


そんなことを考えながら、朝の鍛錬に励む。


エイナル様が地面に引いてくださった一本の線を、はみ出さないように歩く。



「……コルネリアの知性で、コルネリアの足を、完璧にコントロールするんだよ」


「は、はい……。思った以上に、まっすぐ歩けないものなのですね」


「うん。でも、大丈夫。コルネリアなら、きっと出来るよ」



そして、階段や段差を音をたてずに、ゆっくりと昇り降りする。



「……これは、実は小舟から降りるときとおなじなんだよ?」


「お、おんぶしてもらわなくても、転ばずに降りられるようになれますか……?」


「ふふっ、焦らないで。身体の中心をどう動かしたら足が自然についてくるのか。その〈解〉を、自分なりに見付けてみよう」


「は、はいっ!」



早朝の風には、肌寒さを覚えるようになっていた。


日の出も遅くなり、まだほの暗い夜明けの直前から鍛錬を行っている。


エイナル様の親身なご指導の意味を、ようやく理解しつつあった。


ふり返れば、極めて論理的で段階的なカリキュラムを組んでくださっていた。


わたしの知的好奇心を刺激し、学問として身体操作が学べるように考えられている。



――エイナル様は、わたしのことを隅々までよくご存じなのだ……。



という、なによりの安心感に包まれる。


もう一度、段差の昇り降りをやってみようと足をあげたとき、カリスが駆けてくるのが目に入った。



「……カーナ妃殿下からの急使」



息を切らせるカリスから、カーナ妃殿下直筆のご書簡を受け取った。


その場でご書簡を開くと、最初に、



――詳細を説明するため、私は急ぎテンゲルに向かいます。それに先駆け、概要のみをお伝えさせてもらいます。



と、カーナ妃殿下の美しい文字が踊っていた。


内容は間違いなく、ロアンとの和平条件についてだろう。


だけど、カーナ妃殿下自らがテンゲルにお運びになられるとは、どのような条件を突き付けられたのかと眉を寄せながら書簡に目を通した。


そして、視界が真っ白になる。


ありとあらゆる可能性に考えを巡らされる。たしかに、これなら戦争を避けられるのかもしれない。


多くの命が守られるだろう。


民も兵も、血を流すことなく、傷付くこともなく……。


だけど、わたしは……。


と、途方に暮れたとき、ふわりと両手があたたかい温もりに包まれた。



「……コルネリア。ボクが、この手を放すことはないよ」



やさしい眼差しがあった。



「エイナル様……」


「大丈夫。一緒に考えよう……」


「わたし……」


「……大丈夫。ボクは〈コルネリアの騎士〉だ。コルネリアの側から離れることはない。この先ずっとだ」



ロアン帝国からの要求。それは、



――ソルダル大公世子エイナルと、ロアン帝妹ソレーヌの婚姻。



だった。


当然、帝妹ソレーヌを、エイナル様の正妃に迎えることを要求。


それは、わたしとエイナル様の離婚を意味する。



――コルネリア陛下は、ロアンが保護するテンゲルの正統を継ぐマーティン王子をあらたな王配に迎えればよい。



強大な武力を背景にした理不尽な要求。


だけど、それで当面の戦争は回避されることになる。民の平穏な暮らしは守られる。


動揺するわたしを、エイナル様がキツく抱き締めてくださった。


カリスとユッテ殿下が、励ましの声をかけてくれるのが遠く聞こえた。


エイナル様が耳元で、ゆっくりハッキリとしたお声で囁いてくださった。



「……まずは、カーナの到着を待って、詳しい話を聞こう」


「はい……」



まっすぐ歩けなくなったわたしを、エイナル様が抱き上げてくださり、私室へとやさしく運んでくださった。



本日の更新は以上になります。

お読みくださりありがとうございました!


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