218.冷遇令嬢は夢を語る
雄大な大河を下っていく。
軍船は堤防修復時にも訪れたブラスタ領内を抜け、ポトビニス王国の領内に入った。
ヨジェフ陛下よりの親善使から拝礼を受け、ふたたび大河を下る。
河幅が徐々に広がり、一見すると河の水には流れがないかのように静かに佇む。
河岸の葦原では多様な水鳥が羽根を休め、時折、大きな魚が跳ねては、静かな水面に波紋を描く。
大河は様々な顔をわたしに見せてくれる。
すべてが初めて目にする光景で、目を輝かせながら、エイナル様と、カリスと、ナタリアと、みんなと一緒に眺めた。
ながい戦争で、リレダルから出国したことのなかったエイナル様にとっても初めて目にする景色。
カリスやナタリア、そして、カルマジンの〈聖域〉に幽閉されて育ったウルスラにとっても初めてだ。
大河に沈む夕陽を並んで眺めた。
クランタスへの国境を越える前に、船を大河の真ん中で停泊させた。
甲板にテーブルを出してもらい、ちいさな酒宴を張る。
夏の夜風が心地いい。
エイナル様が微笑んでくださる。
「……やっぱり、〈お出かけ〉してるときのコルネリアは活き活きしてるね」
「は、はい……、隠しようもなく」
わたしを包む、みんなの優しい視線に照れ笑いを返す。
あの高い壁に囲われた別邸の中で、お母様から教わり、知識としては知っていた景色を、直に見て、直に触れられる。
河風が頬を撫でてくれる。
エイナル様と微笑み合える。
カリスとも、ナタリアとも、ばあやとも、ウルスラとも、ルイーセさんとも、メッテさんとも……、みんなが一緒に感動を分かち合ってくれる。
やっと訪れた、至福の時間だ。
この旅は、闇組織との戦いで大活躍だった、わたしの侍女たちの休暇と慰労も兼ねている。
みんな、侍女という枠には収まらない働きを見せてくれた。
なので、みんなで一緒にテーブルを囲む。
透んだ夏の夜空は、一面の星空で、それを見上げながら甲板でいただくお料理は、格別に美味しい。
「……でも、わたし。旅人になりたい訳ではないのです」
わたしの言葉に、皆が微笑んでくれた。
「ただ、たくさんの人に会って、たくさんの笑顔を見て、一緒に何かを頑張って、また笑顔になって……、ずっと、それを夢見てきてたんだなぁって、……思います」
お母様に授けていただいた学問を、世の人のために役立て、みんなをもっと豊かにしたい。
どんな手段でもおカネが欲しいという、闇組織の者たちのような価値観は、わたしには理解できない。
工夫して、ひとを笑顔にして、自分たちも豊かになる。みんなで豊かになる。
ときには、悪い人たちと戦わなくてはならない。いまや、わたしの家族と言ってもいいテンゲルの民を、大河の民を守らなくてはならない。
だけど、できれば争い事はないに越したことがない。
豊かな恵みをもたらしてくれる大河を、平和の河にしたい。
キレイごとを言うようだけど、わたしだけが幸せになっても、わたしが幸せでない。
「これからも、あがき、もがき、悩みながらの道になると思うけれど……、みなさん、よろしくお願いしますわね」
「ふふっ。ネルに、こき使われる覚悟はできてるわよ?」
と、カリスの返事に、みなが笑った。
翌朝は、とても頑張って早起き。
大河を照らす荘厳な日の出に、エイナル様と一緒に目を輝かせた。
「……わたしも、すこし身体を鍛えるべきですわね」
「ん? ……どうしたの、急に」
「睡眠不足進行は、エイナル様も一緒でしたのに、もうすっかり回復されてて……」
と、我慢しきれない欠伸を噛み殺す。
そして、クランタスから出迎えの軍船が姿を見せる。
乗っているのは前王となられた、イグナス陛下。新王サウリュス陛下より「陛下」の尊称を奉られた「前王陛下」であられる。
「驚きましたわ、急なご譲位」
と、わたしの軍船に出向いてくださったイグナス陛下をお出迎えする。
「わが兄サウリュスとは、心から満足のいく絵を描き上げるまで、私が王位を預かると……、そういう約束だったのです」
「まあ、そうでしたの……」
「ふふっ。……それをコルネリア陛下にお知らせしては、サウリュスを急かすことにもなりましょうし……」
「あ、ええ……、そうですわね」
「なにより、その約束を知ったコルネリア陛下を描いて、果たして、サウリュスが満足したかどうか……」
と、イグナス陛下は首を傾げ、困ったように苦笑を漏らした。
「……ええ。サウリュス陛下には、すっかりすべてを見抜かれたような絵を描いていただきましたわ」
「そして、サウリュスは、稀代の名君、コルネリア陛下のご治政を間近で、つぶさに拝見し続けたのです」
「い、いえ……、そのような」
「……偏屈さは鳴りを潜め、なかなかの統治ぶり。コルネリア陛下には一国の王を育てていただきました」
と、声だけは感無量といった風情のイグナス陛下を見守る女性陣の視線が、次第に生温かいものになっていく。
イグナス陛下の目が、チラチラとメッテさんを探し続けているのだ。
――い、いいこと……、仰ってくださってるんだけどな……。
イグナス陛下の「いいお話」は、いつまでも終わらず、サウリュス陛下の統治ぶりをコンコンとお聞かせ下さるのだけど、あからさまにメッテさんが現われるのを待っている。
なお、メッテさんは、
「来るのがイグナスなら、私が出る必要はないだろ」
と、ご自分の船室で爆睡中。
「……イ、イグナス陛下? このまま、わたしの船に乗っていかれますか?」
「おお! それは、光栄なこと。私の船に先導させますので、まずは河口へ」
イグナス陛下の声が弾み、女性陣の視線が下がった。
急きょ、甲板にテーブルを出し、イグナス陛下とエイナル様とお茶にする。
船はゆっくりと進みはじめ、要するにわたしは、メッテさんの起床を待ってるんだけど、そのままイグナス陛下にお伝えするのもどうなのか……。
こういうとき、ゲアタさんがいてくれたら良かったのだけど、闇組織の壊滅にともない再審庁への出頭や問い合わせが急増。
ゲアタさんはお留守番で、再審庁の業務を取り仕切ってくださっている。
なお、メッテさんがブラスタ6王家の当主を引き受けたことも、
「……いまさら、ブラスタのために働くなど……」
と、ゲアタさんは気に喰わないらしい。
メッテさんは眉を寄せ、困ったように笑われていた。
「まだ、ゲアタには、ブラスタの駐カルマジン大河委員会大使を引き受けたことも、言えてないんだよなぁ……」
おふたりは固い絆で結ばれていながら、こういうところが、なんともいじましい。
だんだん、世界でただひとり、メッテさんの頭があがらないのがゲアタさんであるということが分かってきた。
メッテさんにとってゲアタさんは、子分で臣下で、戦友で親友。なにより、命懸けの逃避行を一緒に駆けてくれた、大切な〈幼馴染のお姉さん〉なのだ。
イグナス陛下は、わたしとエイナル様に、実に熱心にサウリュス陛下のご治政を語り聞かせてくださる。
ご自分がわたしの船に乗る理由を証明しようとされるかのように。
視線はチラチラと、メッテさんを探しながら。
「……私の即位で、クランタスは多くの血を流しました」
「ええ……」
「クランタスに蔓延っていた佞臣どもを根こそぎ刈り取り、王位の権威を回復させましたが……、やはり、私は怨まれている」
「……それをご自身でお認めになられるイグナス陛下もまた、相当な名君であられると思いますわ」
「コルネリア陛下よりそのように仰っていただければ救われます……。ですが、私が平らかにした王国を、まっさらなところからサウリュスに治めてもらいたい」
「……夢が、叶われましたのね」
「夢……、そうですね。父王が本当に愛した女性の子息であるサウリュスに王位を返すことは、私の夢でした」
「きっと、サウリュス陛下であれば、イグナス陛下から引き渡された真っ白なキャンバスのような国に、見事な治政を描き出してくださいますわ」
「お、おお……、まさに、まさに、その通りにございましょう」
と、万感の思いがこもる感無量のお声で、視線は甲板の上を泳ぎ続けている。
どう受け止めたらいいのか、まったく分からない。
いっそ、目を閉じ、お声だけを聞いていたいのだけど、そうもいかない。
微笑を浮かべ、うんうんと頷きながら、お茶のお相手をする。
エイナル様も何とか仰ってほしい。
やがて、日が中天に昇り、そろそろお昼ご飯の時間だけど……、と思った頃。
「……迷惑だろ、イグナス」
と、寝起きのメッテさんが現われ、わたしとエイナル様が、ホッとする。
「い、いや……、メッテ殿。かつて、ふたりで歩いた海岸を、コルネリア陛下とエイナル陛下にもご案内しようと……」
「自分の船で行けばいいだろ」
「あ……、はい」
「……まったく、飯でも食ってくか?」
と、メッテさんが、チョイチョイッと、わたしに手で合図を送られた。
「……なんか、すまねぇな」
「あ、いえ……」
「あとは、私が相手して、よく言い聞かせとくから」
「ふふっ、承知しました」
「……退位して身軽になったからって、好き放題やりやがって……。食堂、貸してもらうぞ?」
「え? 貴賓室なり……」
「そんな上等なのいらねぇよ。……水兵の安酒でもてなしてやるさ」
と、メッテさんは、イグナス陛下を誘い、船橋へと向かわれる。
なに食わぬ顔を装って、メッテさんに付いて行くイグナス陛下のお背中は、かるく弾んで見えた。
「色々、仰ってましたけど……」
と、エイナル様に囁く。
「……ご退位は、メッテさんを追いかけるためでしょうか?」
「ふふっ、どうだろうね。追いかけはされそうだけど、そのためのご退位だったかどうかまでは、まだ分からないね」
「ふふっ、ほんとですわね」
ヒソヒソと噂話に花を咲かせる。
恋のナタリア先生を接遇役で送り込んでみたのだけど、メッテさんから早々に追い返された。
ナタリア先生の瞳がキラリと光る。
「メッテ様も、おふたりでお話したいのですわね」
「まあ……」
「ざっくばらんな中にも、なかなか良い雰囲気でしたわ」
とまあ、急にわたしの軍船が華やぐ。
ふたたび、大河が夕陽の茜色に染まるころ、メッテさんが甲板に姿を見せた。
「……とりあえず、酔い潰しといたから」
「あら……」
「河口に着く頃には起きるだろ」
「船室をご用意……」
「いい、いい。食堂で寝かせとけ」
「いや、前王陛下にそういう訳にも……」
と、同行の騎士たちに、イグナス陛下を運んでもらう。
「……まあ、本人は王位を無事にサウリュスに引き継げて、大きな仕事をやり遂げられたって気持ちなんだな……」
と、メッテさんもお酒で紅く染まったお顔を、さらに夕陽で染めた。
王太子として生を受けられ、若き日のご婚約から、ダギス家の悲劇を経て、政変による逆クーデター。
イグナス陛下の半生も波瀾万丈だ。
きっと、そのご心情を本当に共感してさしあげられるお相手は、メッテさんしかおられなかったのだ。
「……まったく、甘えるなって言うんだ」
と、ボヤかれるメッテさんのお声にも、慈愛の響きが乗っていた。
そして、翌朝。船はついに河口に至った。
本日の更新は以上になります。
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