206.冷遇令嬢は手紙を開く
緋布の天幕の中は、炎が燃え移ることのないよう、ちいさなランプがいくつも並べられ、とても荘厳な空間になっている。
全体的には薄明りなので、執務には別に手元明かりが必要だけど、王都の照明作家の設計らしく、暗がりはなく、気持ちの和らぐ穏やかで落ち着いた空間でもある。
メッテさんがイグナス陛下を抱き締めたときには、おふたりが神秘的なまでに美しく照らし出されて感動的だった。
だからこそ、そこに通されたジイちゃんの姿に、息を呑んだ。
顔は真っ青で、見たこともないほど険しい表情。それはまるで、冥府から抜け出した幽鬼のようだった。
「ジ、ジイちゃ……」
と、わたしが声をかけるや、ジイちゃんは両膝を床に突き、額をこすり付けるようにして平伏した。
何事があって、遠くこの地まで駆け付けてくれたのかと椅子から立ち上がり、歩み寄ろうとしたら、ルイーセさんがわたしの前に腕を伸ばした。
ルイーセさんのお顔を見ると、ジイちゃんに鋭い視線を投げかけていた。
「……謁見は、この距離で」
と、凪いだ海のように穏やかな口調だったけれど、有無を言わせぬ気迫を放たれる。
わたしは静かに頷き、背筋を伸ばした。
ジイちゃんは平伏したまま、身じろぎひとつせずにいた。
「……今日はどうしたの? ジイちゃん」
わたしの言葉にもジイちゃんは反応せず、ただ天幕を打つ小雨の音だけが微かに響き続ける。
ルイーセさんが冷えた声が沈黙を破った。
「女王陛下の御意である。応えぬ非礼の訳を申せ」
「……コ、コルネリア陛下が追われる、秘密結社……」
と、ジイちゃんが絞り出すような声を、顔を伏せたまま床に響かせた。
「儂も、その一員でした……」
クッと、息が詰まった。
ジイちゃんは動乱時、わたしをコショルーに送り出してくれ、動乱平定、ひいては即位にもつながる道を拓いてくれた。
即位したわたしから『祖父と孫娘の付き合い』を許されても、淡々と高潔に生きる、自慢のジイちゃん。
そのジイちゃんが、秘密結社――、つまりは闇組織の一員だったと告白している。
呼吸を整え、ルイーセさんに目配せした。
頷きを返してくれたルイーセさんは腕を下げ、ジイちゃんに歩み寄るわたしにピタッと寄り添ってくださる。
腰をかがめ、ジイちゃんのシワだらけの手に、そっと指先を乗せた。
顔は、自分で上げてもらいたい。
「でした……、ということは、いまは違うのね?」
「へ、へいっ……。20年ほど前、道を別ちました」
「よく打ち明けてくれましたね」
わたしの言葉に、ジイちゃんは軽く身体を震わせた。
告白は決死の覚悟だったのだろう。
我慢しきれず、ジイちゃんの手を握り、顔をあげさせた。
険しく、悲痛な表情。老人のこんなに悲しげな表情は、胸にこたえる。
椅子を勧めたけれど、ジイちゃんはふたたび顔を伏せて動こうとしない。
「……汲んでやれ、覚悟を」
と、ルイーセさんの囁きに促され、わたしひとりで椅子に腰を降ろした。
罪人を引見するような構図。
――フランシスカを相手にさえ、おなじ視線の高さを許したというのに……、
と、苦いものを感じる。
けれど、いまはジイちゃんの気持ちを優先したい。
できるだけ、心中の動揺を表にださないようにと心がけた。
「……詳しく、聞かせてくれる?」
「へい……。儂は無頼でした」
と、ジイちゃんは淀みのない声で、けれど顔を伏せたまま語り始めた。
かつて、テンゲル諸侯の兵が、コショルーの反乱軍に大敗を喫し、恐れをなしたテンゲルの前王は、祖母レナータの奪還を断念した。
前王の権威は地に落ち、それを挽回しようと王政が乱れ始めた。
「……調子に乗ったのは、王の直臣や、王家領の代官どもです」
ジイちゃんは、吐き捨てるように言った。
兵を失った諸侯を武力で威嚇し、民には理不尽な税や手数料を課す。
「……別嬪の若い嫁などがいれば、『お前にはもったいない、妾に寄越せ』と民を脅す代官まで出る始末……」
わたしの即位直前よりも、もっとテンゲル国内は荒れていたという。
義憤に駆られたテンゲルの無頼たちは、正業に就き、民の中に紛れた。
「……無頼ごときに、王政を左右するような力はありやしません。仕返ししようにも、相手は兵隊や騎士に守られてる……」
「ええ……」
「せめて、理不尽な目に遭った民や、濡れ衣を着せられた民を逃がしてやろうと、テンゲルの無頼が団結して、地に潜ったんでさ……」
わたしが即位した頃、テンゲルには無頼という存在がいなかった。
いるのは悪辣な犯罪者かチンピラばかり。
彼らをテンゲルの裏社会から駆逐するためには、メッテさんをエルヴェンから呼び寄せなくてはならなかった。
無頼には裏社会に秩序をもたらすという側面がある。
その無頼の不在が、元はといえば、義侠心に駆られた無頼たちが正業に身を潜め、地下に秘密結社をつくって民のために働いていたからだったとは……。
「……その頃、王都を中心に王家領を縄張りにしてたのが〈柳の〉で、フェルド伯爵領を取り仕切っていたのが儂でした……」
ジイちゃんが〈柳の〉と呼ぶのは、若く壮年期だった〈柳のじいさん〉のこと。
王家領と諸侯領では、縄張りにする無頼の〈一家〉が異なっていたらしい。
そして、王家領で理不尽な目に遭った民を、〈柳の一家〉が諸侯領に逃がしてやる。逆もまたしかり。
秘密結社は、そうして生まれたそうだ。
「……王様がひどいとは聞いてましたが、民が王様に直接会うことなんざ、まずありません。直接に民を虐げるのは代官どもやその手下でさ……」
柳のじいさんは、代官の弱みを握ろうと奔走した。
不正な蓄財を見付けては脅して巻き上げ、逃がす民にカネを握らせてやった。
「儂らも、まっとうな人間なんかじゃありません……。悪い代官からカネを脅し取って、民に渡してやれるならいいことじゃないかと、義賊気取りでおりました……」
「……褒めることはできないけど、それで命をつないだ民も多くいました……」
「へっ……。いまとなっては、それだけが慰めで……」
ジイちゃんは、自嘲するような笑いを漏らした。
「……その頃でさ。テレシア様がコショルーから逃れてきたのは」
炭焼きの村で養女にしてもらった幼き日のお母様は、さらにコショルーから離れようと、ジイちゃんの醸造所に引き取られた。
明るく元気よく働く母テレシアは、ジイちゃんをはじめ、皆から可愛がられた。
「もう、当たり前になっちまってたんで忘れてましたが……、テレシア様には、ずいぶん醸造のやり方を改良してもらったんです……」
「お母様が……」
「どこで覚えたのか、要領が良かったのか……、こまかなところまで、やりやすくしてくれて、皆で驚いたものです」
たどれているお母様の足取りから考えて、どこかで教わることも習うこともなかったはずだ。
きっと、真実を見極める目と知性が、ズバ抜けて高かったのだろう。
神話級の天才とは、そういうことだ。
だけどやがて、お母様はさらにコショルーから遠く離れることを希望した。
「……皆で可愛がっていましたから、随分惜しい思いをしましたが……、儂は〈柳の〉に頼んでやったのです」
「柳のじいさんに……」
「ええ……。〈柳の〉は快く引き受けてくれて、王都の酒場に仕事まで紹介してくれたんでさ」
「……や、柳のじいさんは、お母様に会っていたのですか?」
「へい。それも、目端の効くテレシア様を気に入り、テレシア様も〈柳の〉に、よく懐いておりました……」
愕然とした。
ジイちゃんもそうだけど、テンゲルに入ってからお母様を知る者たちは皆、わたしの顔を見て、お母様だと見間違えた。
柳のじいさんだけが、気が付かなかったのだろうか……?
「ですが、ふた月ほどして……」
と、ジイちゃんの口が急に重たくなった。
後悔を噛み締めるような険しい表情になり、その沈黙を、わたしは静かに待った。
やがて、ジイちゃんは呻くような声を出しながら天を仰いだ。
「テレシア様から……、自分は大変なことをしてしまったかもしれないと……、手紙が届いたんでさ」
「……大変なこと?」
「へい。……無実の民を逃がすという秘密結社の理念に共鳴したテレシア様は〈柳の〉を手伝っていたらしく……」
お母様は、柳の組合の水運事業者としての活動を助けるため〈輸送手形〉の運用を考案されていた。
船乗りたちの資金繰りが安定し、ひいては生活を安定させることができる。
民を救う活動に専念しやすくなる。
だけど、それを悪用したのが〈幽霊船荷〉の原型であることは明らかだった。
「……慌てて王都に駆け付けテレシア様の話を聞いたら、最近は夜道を歩いていると、変な連中に後をつけられることがある……、と」
不正な資金洗浄の原型を考案したお母様を消そうとしたのか……、脅しだったのか。
「民のためを思って考えたことが、巨悪の種を播いてしまったかもしれないと、悔し涙を浮かべておりました……」
「そう、お母様が……」
「……そのまま王都に置くのは危険だと判断して、ちょうどバーテルランドの貴族様からメイドに誘われてるっていうんで、そのまま行かせました」
酒場でお母様の同僚だったヴェラは、お母様は急にいなくなったと教えてくれた。
その背景に、当時の闇組織の脅威があったとは……。
「……あとは儂に任せておけと、テレシア様に大見栄を切って送り出したのですが、事態は儂が思っていたより、はるかにひどいものでした……」
「ええ……」
と、そのとき、ルイーセさんの大剣が素早く動き、鞘に収められたままジイちゃんの右腕を制した。
ジイちゃんは、手を懐に入れようとしていた。
「……ゆっくりだ」
「へい。……騎士様、すみません」
懐から取り出されたのは、古びた手紙。
「……これは、テレシア様が儂に書き残してくれたものです」
「お母様が……?」
「儂には難し過ぎて、書いてある内容の意味がまったく分からず、そのまま引き出しの奥にしまっていたのを……、思い出しました」
ルイーセさんが受け取ってくれた手紙を、手元明かりに照らして、そっと開いた。
お母様の字が踊っていた。
本日の更新は以上になります。
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