196.冷遇令嬢は目を覚まされる
サウリュスの前に座る。
大きな窓には、小さな雨粒がいくつも張り付き、やがて、互いに寄り添い合うようにして結ばれ、重みに耐え切れず、スッとひと筋の線を引いて、伝い落ちていく。
その軌跡を、後から続く別の滴が、またなぞって落ちていく。
無数の水の筋が、生まれ、流れ、消えていく。その様を、ただ視線で追う。
「俺たちは、やはり漁師なんです。いけるところまでは、親から受け継いだ小舟で食っていければ……、と思っております」
港町の漁師、ラヨシュの輝くような褐色の肌と、白い歯が思い浮かぶ。
最後に会ったのは、祖母レナータのもとに向かうとき。桟橋から軍船に、小舟で運んでもらった。
その後、クラウスに任せた幹線道路が開通し、ラヨシュたちに会うこともなくなった。
――まだ……、分からない。港町の皆が前王政の目を盗んで貯めた、なけなしのおカネを、できるだけ有利に運用したいというだけかもしれない……。
エイナル様とメッテさんに流してもらった偽情報に、柳の組合は喰い付いた。
先入観なく受け止め、わたしは公正に判断しなくてはならない。
クラウスには内偵を命じたし、明日にも動き始めるだろう。その結果を冷静に待つべきだ。
だけど、わたしにとってラヨシュたちは、
『前王の暴政に耐え続けた、名もなき善良なテンゲルの民』
で、あり続けた。
闇組織に関与しているとは信じたくない思いが、どこかにある。
非効率だと思いつつ、彼らが担ってきた、小舟による伝統的な輸送方法を保護した。
いまも、緋布は彼らの小舟で王都に出荷されていく。
緋布の真正性を証明する〈鑑定紙〉の材料である、コショルーの紙は、彼らが輸送を請け負ってくれている。
扱いは丁寧で、専門性の高い小口輸送は再評価されつつある。
漁師が本業と認める彼らのために、網の改良も手伝った。
『……不当な裁きも全部、調べ直していただきたいのです』
最初に出会ったときのラヨシュの言葉。
それは、水没文書を守り抜くことにつながり、再審庁の設立、さらには資金洗浄スキームの解明へと繋がるひと言だった。
――無実の罪を着せられた民を逃がしたり、匿ったりしていた。
元船乗りだという老爺、〈柳のじいさん〉の、腰の低いふる舞いも印象深い。
市井にあって、旧王政下の暴政から民を守ってきた男の風格を感じた。
「また、ぜひお運びくださいませ」
「ええ、必ず。……次はもう少しゆっくりとお話を聞けると思いますわ」
「それは、この老い先短い身に、素晴らしい楽しみを賜りました」
「ふふっ。長生きしてくださいね」
そういえば、あの約束をまだ果たしていなかったなと、かすかに顔が上がる。
雨音にまじり、頭の中では、ギィ~、ギィ~と、ラヨシュの漕ぐ風情のある櫂の音が響き続けている。
舟仕事に自然と鍛えられた、褐色の引き締まった腕。屈託のない笑顔。
すべてが、わたしが愛して守りたい、善良な民の姿を描き出していた。
ふと、サウリュスの両腕が天に向かって大きく伸び、次の瞬間には握った絵筆がキャンバスに大きなバツ印を描いた。
――だから……、人の顔に、本人の目の前で……。
と、腹筋を鍛えられる。
ふつうの女王なら、そのまま縛り首にされるところですわよ? ……と、プルプル震えてしまう。
「……今日は、終わりにしますか?」
「い、いや! あと5分、いや6分ある。もう一枚……」
と、イーゼルのキャンバスを架け替える。
そして、また射るような視線で、わたしを睨み付ける。
なにが、この優れた画家の目を曇らせ、わたしの肖像画がいつまでも完成しないのか、わたしにはよく分かっていない。
ただ、諦めることなく挑み続ける姿に、深い共感を覚えてしまう。
真実を見極めたいのだと苦悩している。
いかんせん、対象のモデルがわたしであるというところに、なんとも面映くさせられるし、
――ん? ……わたしのせい? わたしがモデルとして不甲斐ない……?
などと、わたしが悩んでもあまり意味のないことで悩んでみたりもする。
こうしたら描きやすいのかしら……? などと素人考えで、すこし気取って座ったりすると、たちまちサウリュスから叱られる。
「そんな、……可愛らしいマネをされては困る! ますます描けなくなる!」
わたしの〈本当〉を描きたいサウリュスの邪魔をしてしまったのだなと、すこし小さくなって座りなおしたものだ。
「……魂の歪み、だな」
と、サウリュスが言った。
ふと気になって、真実を見詰める目を晦ませるものは何かと尋ねたのだ。
「過去は魂を歪ませる」
「過去……、ですか?」
「……悲しかったこと、ツラかったことだけではない。嬉しかった過去、楽しかった過去も魂を歪ませ、目を晦ませる」
サウリュスは、約束の時間を過ぎたら、わたしを描こうとはしない。
絵筆の手入れをしながら、物憂げに語る。
「……妹君との向き合い方。見事だったと思う」
「え?」
「あれだけの過去をお持ちでありながら、魂を歪ませることなく、公正な裁定をくだされた」
「……あ、ええ……」
唐突にフランシスカの話題を持ち出されてて、面喰う。
わたしの過去を隠したことはないのだけど、「あれだけの過去」というサウリュスの言い回しには違和感があった。
「わが国王……、異腹の弟だ」
「あ、ええ……、はい」
「……魂を歪ませたイグナスを憐み、私は宮廷画家の職を受けてしまった」
サウリュスの視線があがる。
わたしの前で、イグナス陛下が異母弟であることを、サウリュス自身が語ったのは初めてだ。
「……私の志のとおり自由に遊学することを唯一の条件として、宮廷画家を受けた。各国を旅し……、バーテルランドで、コルネリア陛下のお姿を初めて目にした」
「バーテルランドで?」
「モンフォール侯爵領で復興の指揮を執られるお姿は気高く……、美しく……、この世に女神が降りてきたのかと……」
侯爵領で指揮を執っていたということは、父やフランシスカの起こした領地の腐敗を追及していた頃か。
「……なんとか描かせてもらいたいとツテを探すうちに、コルネリア陛下はテンゲルで即位され、イグナスに頼み込み、生誕祭の使節に加えてもらった」
「そうでしたの……」
「なにが、私の魂を歪ませているのか。……異母妹、フランシスカ殿への公正な裁定を拝見し、やっと分かった気がしている」
「え?」
サウリュスは、グッと身を乗り出し、わたしにその麗しい中性的な顔を近付け、指で自分の瞳を大きく引っ張り伸ばした。
真正緋布と茜緋布をひと目で見分けた、優れた瞳。こい青紫の桔梗色をした瞳は、どこまでも透んでいた。
「過去は変えられない」
「……ええ、そうですわね」
「私は、初めて見たときから、コルネリア陛下に負けていたのだ」
「そうですか……」
「だが、諦めない。……この目に映る陛下の姿だけを、もう一度見詰めたい」
「ふふっ。過去や思い込みに囚われず、今、目にしているものだけを信じよ……、と仰っているのですわね?」
「……おおむね合っている」
「おおむね?」
サウリュスは姿勢をもどし、また絵筆を手に取った。
「……すべて話せば長くなる」
「あら」
「イグナスには迷惑をかけた。私は近々、絵筆を折るだろう」
淡々とした口調。物憂げな響きのなかにも、たしかな決意が感じられた。
優れた芸術家が自分で出した自分への結論に、わたしが口を挟むことはできない。
モデルがわたしであることは、一旦、脇に置こう。気恥ずかしくて思考が止まる。
ただ、サウリュスは「これが最後の絵」だと決めなければ、本当に描きたいものを描くことはできないと覚悟したのだ。
描き上がったら、すぐに創作意欲が湧いてきて、あっさり次の絵に取り掛かるのかもしれない。
だけど、きっと現時点において決意は本物で、気負いも悲壮感も見受けられない。
わたしも、すべてを捨てる覚悟を持たなければ、ラヨシュたちの真実を見極めることなど叶わないのだろう。
「……クランタスの優れた宮廷画家殿に教わりましたわ」
と、頭をさげる。
エイナル様と晩餐にして、穏やかに語り合った。
「ふたりのときは、お仕事の話はやめておこうね」
と、エイナル様から言われている。
カルマジン公を受けてくださり、枢密院に議席を持つ身として、また王配陛下として、王政の表舞台に立っていただいた。
隣の執務室には、いつもエイナル様がいらっしゃる。
だけど、朝餐と晩餐、それに寝室では、政治向きの話はしない。
「……子どもの頃、厨房から焼き立てのパンを盗み食いしてね」
「まあ、エイナル様がですか?」
「ふふっ。西方由来の独特なパンで、ボクはそれが大好きで、我慢できなかったんだけどね……」
「ふふっ。西方と陸上交易でつながる、ソルダル大公家ならでは、ですわね」
「それが、父上も大好きだったんだ」
「……叱られました?」
「高貴な者が、食べ物のことで争うのではありません! って、ふたりして母上から雷を落とされるくらいには」
「まあ。……ふふっ。エイナル様も大公閣下も、やんちゃだったのですわね」
他愛もない話に、目を輝かせる。
寝室ではエイナル様に後ろから抱き締めていただき、ぐっすり眠る。
目覚めると、雨雲越しの薄い朝陽に照らされた旦那様の美しい笑顔に、微笑みを返す。
この瞬間が、一日でいちばん好きな時間かもしれない。
そして、朝餐をともにし、お互いの執務室に入る。
闇の中にとっぷり浸かり、見えない景色に目を凝らす気力を、エイナル様からいただいている。
いまの、わたしの執務は、ルーラント卿と狷介博士との打ち合わせから始まる。
テロ対策の進捗を確認し、今日やるべきことを決めていく。
この会合に、今朝は初めてエイナル様にも加わっていただいた。
チラチラ横顔を見てしまわないように気を付ける。
おふたりからの報告が終わると、エイナル様が、ふふっと笑われた。
「敵は……、コルネリアだ」
悪戯っ子のような笑みの意味も、お言葉の意味も分からず、ただ、ルーラント卿と狷介博士と、顔を見合せた。
わたしの大切な旦那様が、やさしくわたしの目を覚ましてくださった。
本日の更新は以上になります。
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