17.冷遇令嬢は握り返した
「はぁ~、そういうことだったのね」
と、夜中のテラスで頬杖をつき、憧憬のため息を吐いた。胸がいっぱいになって、星空を見上げる。
カリスが、エイナル様とカーナ様のことを聞き込みしてきてくれたのだ。
「なんだか……、ネルは嬉しそうね?」
「嬉しいっていうのとは、ちょっと違うんだけど……。長年の恋心に終止符を打たれる、カーナ様。素敵だったじゃない?」
「まあ、そうとも言えるか」
「あれ? わたし、何か変なこと言った?」
「ううん。ネルが感じたままでいいと思うわ」
「……エイナル様のひとつ年下ということは、今年24歳。王立学院を卒業されて、6年? そんなに長い間、一途に想われ続けたのよ? 切なくて、甘酸っぱくて、でも、凛としてらして、最後はわたしにも優しいお言葉をかけてくださったわ」
「ふふっ、そうね」
「貴族令嬢たるもの、ああでなくてはならないわね」
「……学生時代は、随分エイナル様にご迷惑をかけたみたいよ?」
「それも含めてよ! ……情熱的な恋心。きっと、ご自分も振り回されたんだわ。それが、大人になられて、踏ん切りをつけて、別の女性との婚約を優雅に微笑んで祝福して見せる。はぁ~、憧れちゃうなぁ~」
「ま……、いっか」
「ええ、なによ?」
「……カーナ様は、ネルのエイナル様を奪いに来てたのよ?」
「やぁ~ん! わたし、闘っちゃうわ! カーナ様と、エイナル様を奪い合うだなんて、恋物語みたいじゃない~っ!」
「はははっ。……ネルが楽しいなら、良かったわ」
「ふふっ。……なにもかも初めて。なにもかも楽しいのよ、わたし」
「ほんとうね」
「うん」
わたしがテラスの手すりにもたれると、カリスも横に並んでくれた。
「でも、ネル? どうやら、世界でひとつだけ、ネルが体験できそうにないことがあるわよ?」
「ええ~っ!? なになに!?」
「なんだと思う?」
「う――っ。分からないわ。意地悪しないで教えてよぉ」
「ふふっ。失恋よ」
「あっ……」
「エイナル様は、深く深くネルのことを愛してらっしゃるわ。……どう? 残念? 失恋を経験出来なさそうで?」
「も、もう! カリスの意地悪! ……そ、そんな訳ないじゃない」
と、カリスに急にほてらされた頬に、両手をあてる。
遊覧船の真ん中で、エイナル様に囁いていただいた甘い声を思い返してしまう。
――なにがあっても、コルネリア殿を手放したくない。
人の顔が、あんなにも近くにあったのは、お母様以外に経験がない。
しかも、エイナル様の整った美しいお顔。
真剣な眼差しに吸い込まれそうだった。すべてを忘れて、すべてを信じられた。
――わたしもです!!
と、お返事できなかったことが、悔やまれてならない。
驚いて大口開けてる場合じゃなかった。
次はいつ、わたしに愛を囁いてくださるだろう。次こそ、ちゃんとお返事しないと。
「ネルから言ってあげたらいいじゃない? きっと喜んでくださるわよ?」
「ええ~っ!? ……そ、そんなの、恥ずかしいわ……」
カリスとは、お母様から学問を授けていただいてることを打ち明けてから、さらに何でも話せるようになっていた。
クズ父と、義妹フランシスカのことも。
「……やっぱり、公式にはテレシア様ではなく、ヘルダ様の娘ってことになってるみたいね。ネルは」
「そっか……」
ヘルダとはフランシスカの母、わたしの義母の名前だ。
クズ父にいつも、
――さすが、旦那様は物知りでいらっしゃいますわね。
と、媚びへつらい、お母様亡き後、クズ父の正夫人に収まった。
別邸に姿を見せることはほとんどなく、わたしは数えるほどしか会ったことがない。
「……クラウス閣下に探りを入れてみたけど、大きな問題にするつもりはなさそうね」
「う~ん……」
父の所業への憤りのあまり、わたしの身上書の誤り、あるいは偽りを理由に、エイナル様との婚約が破棄される可能性にまで、頭が回っていなかった。
あの場をクラウス伯爵が収めてくれなければ、カーナ様が大騒ぎにして、政治問題化していた可能性は多分にあった。
それでも、
「わたしは、テレシア・モンフォールの娘です」
と、皆の前で宣言したことに、悔いはない。
結果的に、エイナル様が変わらぬ愛を囁いてくださり、カーナ様はわたしをお認めくださり、ことなきを得た。
「どうしようかな……、結婚式」
義母ヘルダが、わたしの生母として立ち会うことに、わたしの気持ちは耐えられるだろうか?
そもそも、義母はこのことを知っているのだろうか?
エイナル様には、まだフランシスカのことも打ち明けられていないというのに、さらに憂鬱な気分にさせられる。
――貴族女性でいたいなら、バカでいる方がいい……。
お母様の遺言が、繰り返し繰り返し頭の中で反響して、複雑な響きを帯びてくる。
どうして、父はお母様のことをこうまで疎んでいるのだろう。亡くなった後にまで。
あんなに美しく、あんなに聡明で、あんなに慈悲深いお母様だったのに……。
Ψ
カーナ様にお誘いいだたいたブロム大聖堂への訪問は、なかなか実現しなかった。
学生時代からの因縁で、エイナル様が乗り気でないのかと思ったけれど、
「……ソルダル大公の世子とその婚約者が、ホイヴェルク公爵家領に足を踏み入れるとなると、それなりの手順が必要なのです……」
と、朝食を摂ったあとの温室で、エイナル様に頭を下げさせてしまい、かえって恐縮した。
「申し訳ございません。……わたし、何も分かっておらず……」
「いえ。こればかりは、言葉では言い表しにくい、機微のようなもの。……正式には王家領であるエルヴェンに、カーナが無遠慮に押し掛けたようにはいかないのです」
「な、なるほどぉ~」
と、思わずメモを取ると、エイナル様に笑われた。
「ほんとうに、コルネリア殿の向学心は底なしですね」
「あ、いえ……」
「いつか……」
「えっ?」
「……いつか、コルネリア殿が話したくなられたら……、そのときにはお聞かせください。お母様のことも……、コルネリア殿ご自身のことも」
と、エイナル様が微笑まれ、
――この方は、すべてをご存知なのでは……?
と、背筋が凍った。
リレダル王国で第一の権門。ソルダル大公グリフ家の嫡男、世子であられるのだ。
敵国バーテルランド王国の内情など、すぐにも調べ上げられるのではないか?
「あ、あの……」
「はい」
「……わたしの口から言わせることに、何か意味が?」
「もちろん。……ボクは、コルネリア殿の仰られることだけを信じたい」
ご存知なのだ。お母様のことも、わたしのことも。
その上で、父の偽りに乗って、偽りの人生を歩むのかどうか、わたしが決めろと仰られている。
――ボクは喜んで騙されよう。
わたしはエイナル様の真意を測りかね、まるで深淵を覗き込むように、透んだエメラルドグリーンの瞳を見詰め返し続ける。
わたしを求めてくださっているのは、両国和平のため……? そのためには、お母様の存在を消そうとする父の偽りに乗れということ……? お母様が生きた唯一の証であるわたしに……?
つい先ほどまで、すべてを信じられると思っていたエイナル様のお心の内が、急に見えない。足元がグラつく。
――あるいは、わたしから婚約を辞退させ、停戦合意違反の責は、わたしが負え……、ということ?
すでに、平民の血が半分流れていると、わたし自身が宣言した。
だというのに、あの時まではご存知なかったエイナル様のご様子に、変わったところは見られない。
厳しく問い詰められることもない。
大公家のお血筋に……、
と、そのとき、エイナル様が、なんとも言えない表情で頭を掻かれた。
「老博士の仰られる通りだった」
「…………えっ?」
「こじ開けようとした、ボクが間違っていた」
「な……、なんのお話でしょう?」
エイナル様が、テーブルの上で堅く組んでいたわたしの手を、ふわりと両手で包んでくださった。
「ボクが、焦り過ぎた」
「……え? え?」
あたたかい温室。春の花、夏の花が咲いている。
けれど、それよりも温かい、エイナル様の大きな手が、優しくわたしの心を繋ぎ止めてくださった。
「ボクが、この手を放すことはないよ」
「え、ええ……」
「信じてくれる?」
「はい……」
「今は、それだけ信じてくれたら、とても嬉しいな」
「……光栄に存じます」
「あっ」
「え?」
「たとえだからね? ……放すよ? ご飯食べられないし」
「ぷぷっ。そのくらいは、分かります」
「ふふっ」
「ふふふっ」
「……良かった。コルネリア殿が笑ってくれて」
そう仰られ、わたしを真っ直ぐに見詰めてくださるエメラルドグリーンの瞳には、安堵の色が浮かんでいた。
――あっ!!
と、気が付いたわたしは、慌ててエイナル様の手を握り返す。
「コルネリア殿?」
「わたしもです!!」
「……えっ?」
「わたしも……、この手を放すことはありません。……たとえですけど」
「ふふっ。……嬉しいよ」
しばらく、ふたりきりの温室で手を握り合い、見詰め合った。




