143.侍女宮中伯は見ていたい
Ψ Ψ Ψ
軍用高速船の焦げたにおい漂う埠頭で。
涙をこらえるネルの顔に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
こんなに激しく動揺したネルを見るのは、いつ以来か分からない。
それでも、女王という立場に相応しくあろうと背筋を伸ばし、皆に動揺を広げないよう努めている。
なんと愛らしく、気高い姿か。
と、しばし見惚れる。
抱き締めてあげたい気持ちを抑え、そっとネルの二の腕に手をあてた。
わたしも、ネルの威厳を損なわないよう、宮中伯にして女王侍女長に相応しくあらねばならない。
正直、船に火の手があがったとき、もうダメかと思った。
けれど、随行の騎士たちは、微塵も狼狽えることなく適切な対処を始める。
「ご案じ召されるな。我らは元はリレダルの騎士にして、いまはコルネリア陛下の騎士にございます」
胸板の厚い髭ヅラの騎士が、豪快に笑ってわたしを落ち着けてくれた。
襲撃から急速離脱するため、船が揺れるから船室に籠っているようにとの献言に素直に従う。
リレダルの騎士は強く、それと互角の戦いを展開した母国バーテルランドの騎士も同様に強いのだろうと、投石が打ち鳴らす鋭い音に耐えながら考えていた。
河賊を振り切った後、わたしも甲板に出て消火作業に加わる。
炎が燃え移らないようドレスを脱いで、厚手の布を水に浸ける作業を手伝った。
その間も、船は高速に移動し続ける。
バランスを崩し手を突いた鉄具がまだ冷めておらず、かるい火傷を負ってしまった。
「宮中伯閣下! このようなことは我らがいたしますので……」
「いえ、皆の活躍をコルネリア陛下に伝えるのはわたしの役目。出来ることはさせてくださいませ」
船に乗る随行の料理人やメイドたちまで消火作業に加わっているのだ。
わたしひとり、船室でのうのうとしているのは、どうにも性に合わない。
鎮火が確認された後、髭ヅラの騎士がわたしの手に包帯を巻いてくれた。
ごつごつとぶ厚く大きな騎士の手。
「はははっ。これは、役得というものですな」
「あら、得がございますか?」
「宮中伯閣下のお手を握れる機会など、そうそうあることではございませんからな」
「ふふっ。そんなにいいものでもございませんわよ?」
「それはまた、随分なご謙遜を」
軽口を交わし合うのは、危機を乗り越えた解放感に加えて、付き合いが長いからだ。
騎士は、元はエルヴェン総督府の所属で、豪雨対応時に編成された水防師団にも加わっていた。
ネルの配下では最古参のひとり。
テンゲル動乱時は、ネルに従いコショルーにも行った。
「宮中伯閣下は、コルネリア陛下がもっとも大切にされる宝物。その玉のようなお肌に傷を負わせてしまうとは、痛恨の極みにございます……」
「あの業火から皆を生還させてもらった。きっと陛下は、大いに喜ばれますわ」
「……お言葉に救われますな」
厳つい顔をした髭ヅラの騎士は、心からの忠誠をネルに捧げてくれている。
わたしにとっては、それが最も嬉しい。
ネルは周辺を固める側近集団だけではなく、数多くの者たちからの敬愛を集める。
髭ヅラの騎士も、ネルとの思い出を楽しげに、そして誇らしげに語って聞かせてくれた。
「公爵になられた後のことですが……、エルヴェンで護衛につかせていただいた折りに、我らにまでお気遣いくださり、果物を分けてくださいました」
「ふふっ。ネルらしいですわね」
「はははっ。……年甲斐もなく、あのときのコルネリア陛下の『はい、どうぞ』と仰る笑顔が忘れられぬのです」
「ふふふっ」
「お陰で肝心の果物の味をサッパリ覚えておりません。そもそも、何の果物だったのかも……。いや、惜しいことをしました」
頬を赤くし、頭を掻く騎士が微笑ましい。
テンゲル王都の港へと帰港し、ネルから授けられた褒詞に、髭ヅラの騎士が大きく息を吸いこみ目を見晴らせ、高揚を隠せない姿に頬を緩めた。
ネルが膝を突く。
重傷を負った漕ぎ手の手を取り、感謝の言葉を授ける華奢な背中を、皆が誇らしげに見守る。
――この主君のためなら、何でもできる。
皆の視線がそう語り、わたしの心を満たしてくれる。
ネルの執務室で、急きょデジェーからと思われる投げ文について検討した後、ばあやが包帯を巻き直してくれた。
「……やっぱり、ネルは強いですわね」
わたしの呟きに、ばあやが微笑む。
「ええ、そうですわね」
「曖昧な状態に耐える力が、人一倍強い」
「……カリス様のお支えがあればこそですわよ?」
「わたしなど……」
わたしもばあやも、口にはできない。
ネルの『曖昧さ耐性』は、長きに渡る監禁生活で養われたものに違いない。
あの頃のバーテルランドにいた者で、いまもネルの側にいるのは、わたしとばあやしかいない。
「……不確かな状況が続いても、結論を急がない。だけど、決して諦めない」
「そのコルネリア陛下のお力が、リサ様をはじめ、多くの方を救って参りました」
「知性や決断力や行動力にばかり目を惹かされますけど、ふとした瞬間、ほんとうのネルのすごさは〈耐える力〉にこそあるのだと、しみじみ驚かされます」
一国のあまねくを司る、至高の玉座に就いてもなお、分からないことがある。
持てる知性と権力を総動員しても、いまだに〈敵〉の正体がつかめない。
けれど、ネルは自棄になることも投げ出すこともパニックを起こすこともなく、いま出来ることを着実に進めていく。
曖昧模糊とした闇を見詰め続ける。
もっとも対照的なのは、クランタス王イグナス陛下だ。
英断といえば英断だけど、王権の一部を他国の女王に委ねることなど、性急で結論を急ぎ過ぎだともいえる。
それに武断的でもあり、反対勢力を武力で制圧する統治も、ネルとは正反対だ。
ただ、そのイグナス陛下の登場にさえ、ネルは柔軟に対応してみせた。
現状維持に固執しないことは、強靭な『曖昧さ耐性』の証左。不確実な状況の変化にも臨機応変に対応できるのは並外れた芯の強さがあればこそだ。
そして、その強さがどこから来たものなのか、体感として知っている者同士、ばあやと少し寂しげに微笑み合った。
カルマジンの政庁に戻り、ネルの執務室でエイナル様の机が並んでいるのを見て、
「……ほんとに諦めないわね。ネル」
と、クスリと笑った。
「ねえねえ、カリス?」
「なに?」
「エイナル様のお仕事ぶりがすごいのよ」
「へぇ~」
「こう……、全然バタバタされないって言うか……、急いでる感じをまったく感じさせられないのに、とっても速いのよ」
「ふふっ。それは見習いたいわね」
「そうなのよ!」
目を輝かせるネルに、思わず微笑む。
愛情と尊敬の入り交じった視線に、発見の喜びが乗っている。
可愛らしくて美しくて、わたしがいちばん見ていたいネルの姿。
そして、わたしがリレダルとバーテルランドから持ち帰った資料を手に取り、ネルは丁寧に目を通していく。
「自惚れるつもりはないのだけど……、私がこれだけ調べても、まったく手がかりがつかめないっていうのは、やっぱりおかしいと思うのよ……」
わたしがリレダルに発つ前、ネルから託された密命は、過去20年間の犯罪記録を収集することだ。
「公開されてる内容だけで充分。……お母様が別邸に軟禁された後、私もお母様も知らない、新種の犯罪が起きていなかったか。特に不正な資金や物資の隠匿にまつわる犯罪記録に目を通しておきたいの」
リレダルでは老博士に、バーテルランドでは宰相閣下に助力を仰いだ。
戦時下にあった両国で、物資隠匿や資金の横領は散発的に起きていた。
その手口を学んでおきたいというのがネルの要望だった。
「とはいえ、バーテルランドならルーラント卿がいらっしゃる訳だし、おさらいしても無駄かもしれないのだけど」
「ううん。知っておくことは無駄にはならないと思うわよ?」
「そう?」
「ええ、とってもネルらしいし」
「ふふっ。……でも、気持ちが落ち込んじゃうわね。悪いことする人って、いなくならないんだな~、って」
苦笑いを交し合う。
そして、リレダル、バーテルランド、クランタスの各国から、国内調整が完了した旨の連絡が届く。
ブロム大聖堂の創建祭にあわせ、ブロムの地に四王が集っての締結式と決まった。
実質的にはネルが四王国の頂点に立つことにも等しい、秘密協定も締結される。
風が微かに春の訪れを告げる頃、ネルは女王在所としてのカルマジンを引き払った。
レーエン子爵は水没文書の復元を終えた。
ナタリアは、ゲアタさんとともに資料の精査を完了させた。
各国の機密情報にアクセスできるようになれば、最後のピースが埋まる。
ウルスラは、ばあやからの指導の甲斐もあって、メキメキ成長している。
エイナル様は相変わらず泰然とにこやかだけど、ネルの後ろに下がろう下がろうとはされなくなった。
どこに行くにも常に腕に手をかける、ネルの粘り勝ちかもしれない。
「……陛下は旦那の躾に成功したな」
無表情に呟く、ルイーセさんには苦笑い。
ネルが嬉しそうなので、わたしは満足。
ひとり、元気のないのがサウリュス殿だ。
どうしても、思い描くネルの姿を描くことが出来ないらしい。
「……ブ、ブロムの芸術家たちと交流されてみては? なにか気分転換になるかもしれませんわよ?」
と、ネルが恐る恐る提案すると、億劫そうに頷いた。
かつて自分がこき下ろした者たちにさえ縋りたいほどのスランプなのだろうか。
素直についてくる。
大河の河風がネルのプラチナブロンドの髪を揺らし、一路、ブロムを目指す。
本日の更新は以上になります。
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