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12.冷遇令嬢は見てしまった

「今日はこのくらいにしておきますかな」



と、老博士の仰られる声で、我に返った。



「……コルネリア様にしては珍しく、上の空のご様子」


「あ……、申し訳ございません」


「いえいえ、構いませんよ。エイナル閣下のご到着が遅れております。物思いに耽られることもあるでしょう」



老博士はエルヴェンの総督府まで同行し、毎日1時間、わたしへの講義を続けてくださっている。



――学のないお姉様。



と、いつも義妹フランシスカに蔑まれていたわたしは、公式にも、学があっておかしくない状態へと着実に進んでいた。


けれど、それは軟禁されたまま急な病を得て、冥府に旅立ってしまったお母様のことを思い起こさせ、わたしの身を硬くする。


フランシスカのように『学がある』と、自分を誇ることは、わたしには到底出来ない。


老博士に失礼なことをしたと、何度もお詫びして、わたしの部屋からお見送りした。


わたしが上の空になってしまったのは、エイナル様のことを思っていた訳ではない。


昨日、遊覧船の試験運行で目にしてしまったものを何度も思い返しては、考え込んでいたのだ。


遊覧コースは上流へと遡り、折り返し、川を下ってエルヴェンに戻ってくる。


行きには死角になっていた、堤防の修復工事が目に入り、ひと目で気が付いた。



――構造計算が……、間違ってる。



恐らく6年前の大氾濫で決壊した箇所なのだろう。大勢の人夫が土嚢を運び、基礎からやり直していた。


場所は、エルヴェン総督府の統治範囲。


わたしは、総督代理として工事をストップさせるべき立場にある。



――だけど、そんなことをしたら……。



船着き場に戻ると、クラウス伯爵に声をかけられた。



「表情がお暗いようにお見受けしますが……、遊覧船の運航に何か問題でも?」


「あ……、いえ。……すこし、はしゃぎ過ぎて、疲れてしまったのかもしれませんわね。お見苦しい顔を見せてしまいました」



と、誤魔化してしまった。


総督府に戻り、ふらりと気まぐれな雰囲気を装って、書庫に立ち寄る。


わたしとカリスの他には誰もいない書庫で、それでも気まぐれを装って、保管されている堤防修復工事の図面を開いた。



――やっぱり、間違ってる……。



わたしの見間違いではないかと、祈るような気持ちで開いた図面を確認し、絶望的な気持ちになった。


堤防自体は建つだろう。


けれど、欠陥を抱えた堤防は、大河が増水すれば耐えられない。決壊する。


エルヴェンの街は洪水に襲われ、水に浸かる。復興はやり直しになる。


洪水の思い出は、実はわたしにとって楽しいものだった。


6年前、100年に1度といわれる大雨で、大河は氾濫し、母国バーテルランド王国の王都も水に襲われた。


当然、わたしとお母様の暮らす別邸も水に浸かる。


キッチンに残るトウモロコシをお母様がつかみ取られ、一緒に2階に駆け上がった。



「あっ! お母様! 見て見て! また水が増えたみたいだわ!? あと3段で、ここまで水が来ちゃうわね!」



と、わたしは階段が水に沈んでいく様子を見て、はしゃいでいた。


変化のない13年間の軟禁生活。わたしにとって初めて訪れた、ビッグイベントだったのだ。


お母様とふたりで頬張ったトウモロコシの味を、わたしは忘れることが出来ない。


翌日、水が引き、1階に降りて被害の甚大さに愕然とした。


お気に入りだったソファは粉々に壊れ、クッションはどこかに流されていた。



「生活の手段をすべて流されてしまう、平民の方が、よほど大変なのよ?」



と、お母様は、優しく諭してくださった。


わたしが、修復中の堤防工事の根本的な欠陥を見過ごすことは、いつか遠い未来の平民たちの暮らしを奪うかもしれない。


いつも果物を握らせてくれるおかみさんの笑顔が、脳裏をよぎった。


翌日になっても、わたしはどうするべきか、決められずにいた。


こうしている間にも工事は進む。


復興のための限られた予算が、日一日と間違った工事のために費やされている。


総督府の書庫に収められた書物は、わたしにとって宝の山だった。目立たないように気を付けながら、ちょっと立ち寄っては、チラチラと本を開いていた。


お母様から教わった学問の方が間違いであることを、初めて祈った。


けれど、書物を確認すると、やはり〈学院創立以来の天才〉から教わった内容に、誤りはなかった。


あの工事は間違っている。


思い悩んだわたしは、夜中のテラスで、ついにカリスに打ち明けた。



「……わたし、お母様から学問を授けられて……、育ったのよ」



貴族でいる限り秘密にするという、お母様との約束を、わたしは破ってしまった。


星空の下、カリスはいつものように、優しく微笑んでくれた。



「私……、ネルが別邸を囲む高い壁をジッと見詰めてる姿に、いつも見惚れていたのよ?」


「……えっ?」


「お父君の侯爵閣下からは、あまり関わらないようにとキツく命じられていたし、声を掛けられなかったけど……、いつか壁の向こうを見せてあげたいって、強く願っていたわ」


「そうだったんだ……」


「ネルが辺境に輿入れするって聞いて、私、同行を志願したの。……あの瞳が輝くところを見逃したくないって」


「カリス……」


「ふふっ。……私はネルが選んだことに絶対、反対しないわ。もし、ネルがお母君のように幽閉されちゃっても、ずっと側でお世話をさせてね」



カリスはわたしを信じてくれていた。


どこか世界のすべてを疑っているわたしのことを、自分だけは信じてあげたいと。


わたしが誰かから信じられなくては、心から世界を信じられるようにはならないだろうと、忠誠と友情を捧げてくれていた。


翌朝。わたしはもう一度だけ、堤防の修復工事の現場を見てから決めようと、船着き場に向かった。


朝の陽光が照らし出す、白と水色で彩られた遊覧船『エイナル&コルネリア号』を見上げる。


わたしが、賢しらなことを言ってしまっても、エイナル様は奥さんにしてくれるだろうか?


父がお母様に向けたような、汚いものでも見るような視線を、わたしに突き刺してこないだろうか?


グレンスボーの地でエイナル様が向けてくださった優しい笑顔は、わたしの宝物になっている。


わたしを慈しんでくださる、優しげな眼差し。馬の前に乗せていただき、どこにでも連れて行ってくださった。思い返すだけでも、胸が温かいもので満たされる。


あの笑顔を手放すようなことに、なりはしないだろうか。


震える脚を励まして、試験運行に出る遊覧船のタラップに足をかけたときだった。


船着き場に、いかめしい軍船が一隻、入港してくるのが見えた。


あの様式は母国バーテルランド王国のものだと怪訝に思う。そして、軍船に掲げられていた旗は、宰相旗。


港を護る騎士が、わたしのもとに急報をもたらす。



「コルネリア総督代理閣下に申し上げます。バーテルランド王国の宰相閣下が、お目通りを願い出られております」


「宰相閣下が……、先触れもなく?」


「はっ。既に総督府にも報せを走らせました。……謁見は、総督府で行われるべきかと」



馬車に飛び乗り、宰相閣下より先に総督府へと戻る。


既に、政務総監のクラウス伯爵が、出迎えの準備を整えてくれていた。


カリスに正装のドレスを着せてもらい、息を整える。


宰相閣下は、母国バーテルランド王国で国王陛下に次ぐお立場。政務を担われる、王政のトップだ。


イヤな予感を抑えきれないまま、謁見の間へと向かう。


そこでは、母国で枢要な地位にあられる宰相閣下が、なぜか平伏して、わたしが現われるのをお待ちくださっていた。


その後ろで平伏する父。そして、義妹フランシスカが、わたしを睨んでいた。

本日の更新は以上になります。

お読みくださりありがとうございました!


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