第三話 湖
――暗き湖のほとり。濁りきった水面は、不吉な静寂を湛えていた。
「貴公は、何故ニルヴァニカを目指すのだ?」
カリアドの問いに、デミは一拍の沈黙の後、静かに答えた。
「…………ニルヴァニカの女王に用がある。」
カリアドは、驚き、声が大きくなる。
「なんと!貴公は、アナンダ様にご用があるのか!」
「………そうだ。」
「なるほど。アナンダ様にどの様なご用があるのだ?」
「………わからん。」
「……ふむ、それはどういうことだ?」
「アナンダに会えと言われた。ただそれだけだ。」
「……なるほど。アナンダ様がどの様な御方か、貴公は存じておるのか?」
「………知らない。」
カリアドは静かに息をついた。
「アナンダ様は、愛の神であると聞いている。彼女は、すべての者を愛し、愛される神。そのため、彼女が治めるニルヴァニカの民は、皆こぞって彼女を崇拝しておる、とな。」
「……そうなのか。」
デミとカリアドが歩を進める。やがて、巨大な湖へと辿り着いた。
水面は濁り、闇のように淀んでいた。周囲は異様なほど静まり返り、まるでこの場所だけが世界から切り離されたかのようだった。
カリアドが低く呟く。
「貴公、この辺り……何やら異様な気配が漂っておるな。何かが出るやもしれん。気を引き締めて参ろうぞ。」
そう言った瞬間だった。
──バッシャァァン!
水面が弾け飛ぶ。凄まじい水飛沫が宙を舞う。
「………。なんだあれ。」
湖から現れたのは、異形の魚だった。
巨大な顔。ぎょろりとした目。棘の生えた鰓。裂けた口から覗く鋭利な牙。
湖から姿を覗かせたのは、その頭部のみ。それだけでなお、デミの数十倍もの大きさであった。
カリアドが低く言う
「貴公…構えろ。」
デミは、錆びた短剣を構える。
魚は、こちらを見ている。
化け物は、ただこちらを見据えていた。
次の瞬間――
地面が裂け、無数の棘が飛び出す。
デミとカリアドは跳躍し、辛くも回避する。
「どうやら、あの魚……魔法を操るらしい。」
「魔法とは、なんだ?」
「貴公、まさか魔法を知らぬと申すか!」
化け物が動いた。
口が開く。
高圧力の奔流が解き放たれる。
「貴公避けろ!」
その高圧力の水は、デミへ向けてのものだった。
水が弾丸のごとく撃ち出される。
デミは回避しきれなかった。
轟音。
衝撃。
デミの身体が後方へと吹き飛ぶ。
「くッッ!!」
体が地面に打ち付けられる。衝撃が体を襲う。
魚は、一度湖の中に潜っていった。
デミは、すぐに立ち上がった。体を見ると防具が削られたように穴のようなものが空いていた。貫通はしていなかった。だが、また同じ場所に当たれば次こそは、ひとたまりもないだろう。
「貴公、大丈夫か!」
カリアドが駆け寄る
「……大丈夫だ。」
「そうか、そうか、それは、安心したぞ!」
「それより、魔法とは何だ?」
「貴公、何も知らぬようだな。よいか、
魔法とは、不思議なる術のこと。炎を生み、水を操り、風を纏う……その形は実に様々。魔法を使うには“魔力”が必要となる。魔力は、あらゆる生物に宿る。されど、魚までもが魔法を使うとは……。」
その時、湖が再び波立った。
化け物が飛び出す。
地面が裂け、棘が乱舞する。
デミとカリアドは跳ぶ。が、避ける先にも棘。
避ける事は、出来なかった。
鋭い棘が肉を裂き、血が流れ、地を染める。
化け物が口を開く。
再び放たれる高水圧の奔流。
標的は、カリアドだった。
「我こそはシャニャータの戦士、カリアド!これしきの攻撃、受けきってみせようぞ!」
轟音。
カリアドの身体が宙を舞う。
重く、鈍い音を立てて地面に叩きつけられた。
化け物は、静かに湖へと潜っていく。
闇の湖は、再び静寂に沈んだ。