浮気相手の令嬢が婚約破棄の宣言を阻止しようとするお話
「わあ、今度の新作はネコなんですね」
貴族の通う学園。放課後の校舎裏。この時間、滅多に通りかかる者もいないその場所に、二つの人影があった。
一人は男爵令嬢ヴァーディネシア・デミスバートル。
長くしっとりとした黒髪。涼やかな薄い銀色の瞳。可憐な顔立ちだったが、伏し目がちで陰のある表情は、どこか不吉さを感じさせる。
しかし、木彫り細工のネコを手の中でくるくるとまわしていろいろな角度から眺めるその姿は、無邪気な子供のようだった。
もう一人は子爵子息クレーヴェルト・ティムバラーク。
肩まで伸びるつややかな金の髪に碧の瞳の美青年だ。細く見えるが引き締まった身体をしており、その立ち姿は実にしっかりとしたものだ。
クレーヴェルトは木の彫刻を趣味としていた。この木彫り細工のネコも彼が作ったものだ。二頭身にデフォルメされた造形はユーモラスでかわいらしい。滑らかな表面の仕上がりも実に丁寧なものだ。確かな技術とセンスを感じさせる逸品だった。
手作りの木彫り細工を、想い人にプレゼントする。
それだけを見れば微笑ましい恋人同士の交流と言えるだろう。だが、二人の間にあるのは甘い空気だけではなかった。穏やかな中にも、どこか張りつめた緊張感があった。
子爵子息クレーヴェルトには正式な婚約者が他にいる。それなのに男爵令嬢ヴァーディネシアと会い、手ずから作った木彫り細工を贈っている。これはつまり、浮気をしているということなのである。
わざわざ放課後の校舎裏に来たのも、二人の時間を邪魔されたくないというだけではない。人目を避けなければないのだ。
プレゼントに喜ぶ想い人を目を細めて眺めていたクレーヴェルトだったが、不意に顔を引き締めると、意を決したように切り出した。
「ヴァーディネシア。大切な話があるんだ」
「なんでしょう、クレーヴェルト様」
ヴァーディネシアは木彫りのネコを眺めるのをやめて、クレーヴェルトの方に目を向けた。木彫りのネコは胸にしっかりと抱いている。気に入ったらしい。
「今度の夜会で婚約破棄を宣言しようと思うんだ。君の都合は大丈夫だろうか?」
「え、何を言っているんですか?」
ヴァーディネシアは曖昧な笑みを浮かべた。冗談を言われたのにうまい切り返しが思いつかないといった様子だった。
だがクレーヴェルトの目は真剣だった。ふざけている様子はなかった。
「だから婚約破棄を宣言するんだ。君との間に見つけた『真実の愛』を学園のみんなに知らしめるために、夜会にて大々的に宣言するんだ! そうすればこんな風に人目を気にしてコソコソ会う必要もなくなって……!」
「ク、クレーヴェルト様! ちょっと声を抑えてください! 人が来てしまいます……」
慌てて口を押さえる。辺りを見回すが、誰かが来る気配はない。ほっと一息ついてところで、ヴァーディネシアはじろりと彼を睨みつけた。
「クレーヴェルト様、わたしとのお付き合いで決めたルールをお忘れですか?」
「『会う時はなるべく人目を避ける。触れ合うのは軽いハグまで。キスは頬だけにして、相手の唇には絶対触れてはならない』。忘れたことなど一度もないよ」
「ええ、そうです。クレーヴェルト様はそれをずっと守ってくださり、実に清いお付き合いをしてきました。それでどうして、真実の愛だの婚約破棄だのという話になるのですか?」
「肉欲に惑わされず、ひそやかな恋を育む。それこそが真実の愛と言うものではないだろうか?」
クレーヴェルトはこの世の真実を語るかのように、恋する乙女のような言葉を述べた。
指摘したヴァーディネシアの方が恥ずかしくなってしまい、顔を赤らめながら、深々とため息を吐くのだった。
子爵家の次男として生まれたクレーヴェルトは、幼い頃から婚約者が決められていた。
伯爵令嬢ロフティアーナ・カムトーヴァル。眩いブロンドの髪と、やや吊り目がちな蒼い瞳の楚々とした令嬢である。
彼女は良くも悪くも典型的な貴族だった。生まれの身分こそが何よりも重要とする価値観の持ち主だった。
だから、子爵家から婿入りという形で婚約したクレーヴェルトのことを、完全に見下していた。
見下すと言っても、難癖をつけて意地悪なことをしたり、身分の低さをあげつらったりするわけではない。真に高貴な者はそんなことをしないと、ロフティアーナは心得ていたのである。
ただ、彼女は厳しかった。
上に立つ者は下に立つ者を導く責務がある……そんな使命感を持っていた。そしてクレーヴェルトの些細なミスを決して見逃さず、こと細かに叱責した。無知蒙昧な蛮族に神の教えを説くかのように、食事中の細かな仕草やちょっとした言葉遣いまで指導した。高貴な者の在るべき姿を、事あるごとに滔々と語って聞かせた。
ロフティアーナは常に上の立場として叱責した。その内容自体は常に正しかった。それはあるいは貴族としてはあるべき姿なのかもしれない。だが、人は誰でもいつしか失敗するという、当たり前のことを許容しなかった。正しさを振りかざす、狭量で頑迷な令嬢だった。
そんな彼女との婚約関係は、クレーヴェルトにとって息の詰まるものだった。彼は木彫りが何より好きだったが、ロフティアーナは認めなかった。貴族が職人のまねごとをするのは恥だと、頭ごなしに否定した。
それでもクレーヴェルトは木彫りを止めなかった。彼女から隠れて趣味を続けた。昼休みになると、人気のない場所で木彫りをするのが習慣になった。それが彼にとっての何よりの息抜きだったのだ。
ある日の昼休み。空き教室の中でこっそりとクレーヴェルトは木彫りに耽っていた。いつもは作業に集中できるのだが、その日はロフティアーナのことが心を占めていた。
先日、使用人の失敗を許したことがロフティアーナに知られてしまった。彼女は使用人の失敗は厳しく叱責すべきだと主張した。
厳しくするばかりでは委縮してかえって働きが悪くなる――クレーヴェルトのそんな言葉は聞き入れてもらえず、一方的に長々と説教される羽目になった。
そうしたことはこれまで何度もあった。それでも、これが一生続くのかと思うと憂鬱だった。
そんなことに心を囚われていたせいか、手元を誤り木彫りを落としてしまった。
転がった木彫りは教室の扉にぶつかり、妙に大きな音を響かせた。拾いに行こうと立ち上がったところで、扉が開いた。たまたま通りがかった誰かが、妙な音に気付いて扉を開けたらしい。
クレーヴェルトは思わず身を引いてしまった。扉を開いたのは黒髪の令嬢だった。彼女は、まるで暗い夜道で出会った幽霊のような、不吉で薄暗い空気を纏っていたのだ。
彼女は足元に転がる木彫り細工を拾い、しげしげと眺めた。
やがて、その口元がほころんだ。不吉な雰囲気にはそぐわない無垢な子供のような笑みだった。
クレーヴェルトはその笑みに目を奪われた。自分の木彫りがそんな顔をさせたことが、ひどく胸に響いた。
やがて、その令嬢はクレーヴェルトの視線に気づいた。気まずげに視線を逸らすと、彼の下へ歩み寄り木彫りを差し出した。
「すみません、お返しします……」
「ああ、ありがとう……」
夢から覚めたような気分だった。だが手にした木彫りの手触りは、手になじんだものだった。すると、急に実感が湧いてきた。
「かわいらしい犬の木彫りですね」
令嬢は囁くような声で木彫りを褒めてくれた。しかしクレーヴェルトはその称賛を素直に受け取れなかった。どうしても譲れないこだわりがあったのだ。
「いや違う。これは犬じゃなくてフェンリルだ」
「フェンリル!?」
よほど驚いたのか、令嬢は大きな声を上げた。
フェンリルと言えば狼系の最上級の魔物だ。木彫りは実際のフェンリルの姿を形どったものではなく、二頭身にデフォルメされていた。わかりづらいのも無理はない。
あの厳しいロフティアーナなら、相手の心得違いを徹底的に叱責しそうな状況だ。そんなことを頭の片隅で考えながら、クレーヴェルトは解説を始めた。
「ほら、見てごらん。このたてがみが狼のものなんだ」
「あ、なるほど……言われてみればそうですね……あとは大きな牙があれば、フェンリルに見えると思います」
「なるほど。言われてみれば確かに……だがもう口元は彫ってしまったからな。これは犬の木彫りということにしよう」
令嬢はくすりと笑いを漏らした。
そんな彼女のことを、クレーヴェルトはじっと見つめた。
「な、なんでしょう?」
「この趣味は家ではよく思われていない。学園でも木彫りなど貴族に相応しくないという者ばかりだ。誰にも相談できず少し困っていたんだ。不躾なお願いで申し訳ないが……よければこれからも、私の木彫りの感想をもらえないだろうか?」
そう提案すると、令嬢は身を一歩退いた。
「わたしはデミスバートル男爵家の娘、ヴァーディネシアです。あまりわたしと親しくすると、よくないことが起こるかもしれません」
デミスバートル男爵家についてはクレーヴェルトも知っていた。
何百年も昔の事。この地には魔王と呼ばれる邪悪で強大な存在がいた。魔王は魔物の群れを率いて王国を脅かした。
王国存亡の危機の時、どこからともなく勇者が現れた。勇者は強大な力でもって魔王軍幹部を次々と撃破し、ついには魔王を討ち果たした。
しかし強大な魔王のことだ。いずれ復活するかもしれない。魔王終焉の地は見張る必要がある。
そこで土地の管理を任されたのが、初代デミスバートル男爵家当主だった。
数百年を経て、魔王の破壊の痕跡はもはやどこにも残っていない。残っていると言えば、勇者の活躍を称えるおとぎ話と、魔王終焉の地を治めるデミスバートル男爵家だけだ。
いつの間にか、魔王終焉の地を治めるデミスバートル男爵家は魔王に呪われているのではないかという噂が広まった。魔王は強大だった。痕跡はなくなっても、おとぎ話に語られるその恐怖が、人々の心に根付いていた。
デミスバートル男爵家の令嬢であるヴァーディネシアもまた、呪われていると噂されていた。入学以来、学園の生徒の誰からも滅多に話しかけず、教師すら最低限の会話しか交わさないと言われている。
だが、クレーヴェルトは、そんな噂におびえることはなかった。呪われた令嬢が、あんな無垢で可憐な笑みを浮かべるはずがない――そう思えたのだ。
「素晴らしい。君なら私の趣味をうっかり誰かにばらすことなどないだろう。ぜひ友達になってほしい」
そう言って屈託なく笑いながら、手を差し出した。
ヴァーディネシアは彼の態度に戸惑っているようだった。少し迷って、しかし結局、彼女はその手を取った。
こうして二人の付き合いは始まった。
付き合いを始めるにあたり、ヴァーディネシアはルールを作った。
『会う時はなるべく人目を避ける。触れ合うのは軽いハグまで。キスは頬だけにして、相手の唇には絶対触れてはならない』
まるで近づかれるのを恐れるかのようなルールだった。きっと呪われていると噂されるヴァーディネシアは、人との距離感がつかなくて、一定の距離を置きたいのだろう。
そう理解して、クレーヴェルトは承諾した。作った木彫りを見てくれて、笑顔を見せてくれるだけでいい。それ以上を求めるつもりはなかった。
だがその考えは甘かった。自覚すらしていなかったが、クレーヴェルトはこの時既に、恋に落ちていたのである。
ルールで制限された慎ましく清らかな二人の付き合いは、かえって彼の恋の炎を深く熱く燃やすことになってしまったのだった。
婚約破棄の宣言を持ちかけられて、ヴァーディネシアは困惑していた。
婚約者にいる子息との逢瀬。唇同士のキスもしない。火遊びとすら言えない軽い付き合い。それ以上関係が進むことなどないと思っていた。
しかし、クレーヴェルトは本気になってしまった。その決意は容易に翻りそうもない。
どうにかしなければならない。そして、ふっと思いついた。
「わかりました。そんなに婚約破棄を宣言したいと言うのなら、参考のために演劇を観に行きませんか? ちょうど婚約破棄をテーマにした演劇があるのです」
「おお、それはいいな! ぜひ観に行こう!」
そして次の週末。二人は街へ繰り出した。魔道具で髪の色を変え、髪型も替えた。ヴァーディネシアは髪を三つ編みにし、クレーヴェルトは髪を縛ってまとめた。身に纏うのはありふれた平民の服だ。
貴族がお忍びで街にいく時は珍しくない事だが、それに加えて秘密の付き合いである。こうした変装はいつも入念にしていた。
演劇のタイトルは「婚約破棄された子爵令嬢は文官として成り上がりその手に幸せをつかむ!」。
婚約破棄を告げられたヒロインは、一度は打ちひしがれ悲しみに沈む。しかし一念発起して王宮付きの文官となってその才能を開花させる。同僚の伯爵子息の文官と競い合ううちに、お互いの力を認め合い大恋愛を繰り広げるという筋立てである。
婚約破棄を宣言した貴族子息は、真実の愛を誓った相手に逃げられ、家からは勘当され、鉱山で過酷な労働に就くことになる。
ドラマティックかつコミカルに彩られた物語は王国でも大好評だった。
「面白かったですね」
「ああ、最後のキスシーン! 実に感動的だった」
「わたしは告白シーンが気に入りました。令嬢の方からきっぱりと気持ちを告げるのが、かっこよかったです」
上演が終ったあと。二人は喫茶店に入ると、演劇の感想を言い合った。
ひとしきり演劇のよかったところを言い合った後。話題の落ち着いたところを見計らい、ヴァーディネシアは切り出した。
「……それで、婚約破棄を思いとどまっていただけましたか?」
「なぜだ? むしろ気分が高まった感じなのだが」
「冷静に考えてください。婚約破棄した者はあんな風に不幸になるんですよ。演劇ではコミカルに描かれていましたが、鉱山での労働は大変なものですよ。あなたも知っているでしょう?」
魔法の発展している王国だが、鉱山での採掘は未だ人力に頼る部分が大きい。魔法を扱える者は限られており、大規模な鉱山開発にはとても手が足りない。
つるはしによる採掘。トロッコによる鉱石の運搬。鉱石の加工。どれも大変な肉体労働だ。
もっとも現在の王国において、演劇で描かれるほど酷い労働環境の鉱山というのは少ない。鉱山を安定して運営するには、熟練した労働者を確保することが重要なのだ。それでもきつい肉体労働であることには変わりはないし、落盤やガスの発生など、鉱山には危険がつきものだ。
貴族は領内の管理が仕事である。鉱山の実態は学園の授業でも教えられることであり、まともな貴族なら誰でもよく知っていることだった。
「貴族が鉱山送りにされたらとても耐えられるわけがありません」
「いや、なんとかなるかもしれない。これでも身体は鍛えているんだ」
そう言ってクレーヴェルトは腕まくりして力こぶを作って見せた。それほど太くはないが、しっかりと筋肉のついた腕だ。力こぶも意外と大きい。
クレーヴェルトは休みになると、斧を担いで木を伐りに行くという。自分で選び自分で伐った木で木彫りをするのが楽しみだそうだ。
婚約者には休み中は山籠もりして剣の修行をしているとか言っているらしい。興味がないのか、あまり追及されたことはないそうだ。
「それでも鉱山で働くのは、慣れるまでは相当大変だろうけどね。でもヴァーディネシア。私はあんなことにはならないよ」
「なんでそう言い切れるんですか?」
「婚約破棄の宣言をして、もし鉱山送りになったとしても……君は私から離れたりはしないだろう?」
「そんなこと……」
そう言われて、ふとそんな行く先を想像した。
坑道の奥深くつるはしを振るうクレーヴェルト。
その顔は婚約破棄を宣言してしまった後悔に染まっている。趣味の木彫りをする時間はない。その気力すらない。そんな絶望に満ちた姿が、ヴァーディネシアの脳裏に浮かんだ。
「わ、わたしがそんなことに、つ、付き合うわけがないでしょう? あなたが鉱山送りになったら、み、み……見捨てるに、決まってます!」
「……すまなかった。どうか泣かないでおくれ」
「泣いてません! これは演劇に感動して、ちょっと涙腺が緩んでいただけです! 泣いたうちには入りません!」
本当は演劇をきっかけに婚約破棄の不幸な結末について話し、クレーヴェルトに諦めさせるばかりだった。だからわざわざ婚約破棄した貴族子息がひどい目に遭う演劇を選んだのだ。
しかしうっかり泣いてしまったばっかりに、うやむやになってしまった。すっかり目論見が外れてしまったヴァーディネシアだった。
「わざわざこんなところに呼び出して、どうしたんだい?」
一緒に演劇を観に行ってから二週間ばかり過ぎた、放課後のこと。
ヴァーディネシアは、学園内の会議室にクレーヴェルトを呼び出した。
部屋の中央には10名までが席に着けるテーブルとイスがある。生徒の自主的な学習を促すため、学園にはこうした会議室がいくつもあるのだ。
今日は資料を見せる必要があったため、わざわざ教師に申請してこの会議室を借りたのだ。
テーブルに着くと、ヴァーディネシアは用意していた資料を取り出した。
「この資料を見て欲しかったのです」
「なになに、『学園における婚姻関係の影響に関する考察』……? 妙なお題目の資料だな」
「とにかく、まずは資料に目を通してください」
「ああ、わかった」
言われるままに、クレーヴェルトは資料に目を通し始めた。初めは訝し気な様子だったが、資料を読み進めるうちに、その顔はみるみる驚愕に染まっていった。
その資料には20組ほどの婚約者について記されている。在学中に婚約関係だった二人は、そろって退学している。そしてその二人のうちどちらかは、退学時に別な者との婚約を結んでいるのだ。おそらく在学中に、婚約破棄ないしは婚約解消をしたのだろう。
貴族社会において、婚約の破棄や解消はそう珍しいことではない。貴族は栄枯盛衰の激しいものだ。家の力関係や状況の変化によって、婚約は反故にされるものなのだ。
婚約破棄しただけで退学になったとは考えづらい。これらの生徒たちは、おそらく在学中にひと騒動あったのだろう。それで退学せざるを得なくなったのだ。
クレーヴェルトは資料を前に唸った。
「ずいぶんとよくまとめられているが……そもそもなんでこんな資料があるんだ?」
「10年ほど前、当時の学生が貴族の文化研究のためと言ってまとめたそうです。図書館の司書に相談したらすぐにこの資料を出してくれました。人気のある資料のようです」
演劇でクレーヴェルトの決断を変えることはできなかった。
だからヴァーディネシアは、現実的な資料で彼を説得することを考えた。まずは学園のことを調べようと図書館に行くと、司書にこの資料を勧められた。
近年、王国では婚約破棄の恋愛小説や演劇が流行している。学園でもそれらを楽しむ者が多い。そうした物語を書こうと自ら筆を執る者もいる。こういう資料を求める者は少なくないのだろう。友達のいないヴァーディネシアは知らなかったが、令嬢の間では有名なのかもしれない。
「でもこれは、学生の作った資料なのだろう? 信憑性に欠けるのではないだろうか」
「資料の表紙をご覧下さい。学園長の署名があります。これは学園で正式に認められた資料なのです」
クレーヴェルトが資料を閉じて表紙を確認すると、確かに承認者欄に当時の校長の名前が記されていた。
「署名が偽造でないことは図書館の司書も保証してくれました。念のため、資料から無作為に3組の婚約者を選び、人を使って経歴を調べさせました。3組全て、この資料通りの経歴との調査報告を受けています」
「それにしても、こんな資料が許されるのだろうか。ここに記されているのは実名だろう? 関係する家が文句をつけてきそうなものだが……」
「どうもその資料は生徒に対する『戒め』として作られた物のようです。学園の図書館に保管され、問い合わせれば誰でも複写を簡単に借りられるようになっています。『戒め』と言うより『見せしめ』なのかもしれません」
恋に溺れた愚かな子息が、この資料を目にして現実を知り頭を冷やす。そんなことを想定して学園はこの資料を保管し、簡単に借りられるようにしているのかもしれない。
本当のところはわからない。とにかく、ヴァーディネシアにとっては都合のいい資料だった。
「とにかく、クレーヴェルト様に見ていただきたいのはこのページです」
目当てのページを開き、クレーヴェルトに見せる。
そこに記されているのは、婚約破棄をしたであろう子息たちの末路だった。
ほとんどの者が家督を継ぐ権利を失っている。勘当され平民となった者もいるし、過酷な僻地に送られた者も少なくない。
新しい婚約者となった令嬢はどうなったかと言うと、大半はそんな子息に見切りをつけてさっさと別れている。戒律の厳しい修道院に送られ強制的に別れさせられた者もいる。
彼らの扱いには慈悲も容赦もなく、その末路には夢も希望もなかった。
そんな結末の中で、ファーディネシアをひときわゾッとさせるものがあった。一人だけ、本当に鉱山送りになった子息がいたのだ。物語の中の絵空事と思い込んでいたことが、いきなり現実と地続きになる。それは背筋を凍らせる恐ろしさがあった。
さすがにこんな恐ろしいものを見せられれば、クレーヴェルトの頭も冷えたことだろう。
婚約破棄の宣言と言うのは、恋に溺れ、熱に浮かされ、勢いでするものだ。都合のいいことばかりに目を向け、未来を真剣に考えていないからこそできることなのだ。
その先に無残な結果が待っていることを知れば、誰だって躊躇う。足がすくむ。進めなくなる。そういうものなのだ。
資料を読み終え、クレーヴェルトが顔を上げた。神妙な顔をしていた。どうやら思いとどまってくれるようだ。ヴァーディネシアは心の中でほっと息をついた。
「婚約破棄のリスクは分かった。それでも、私は婚約破棄の宣言をしたい。コソコソ付き合うのはもう嫌だ。君と結婚したいんだ」
クレーヴェルトはヴァーディネシアのことをまっすぐ見て告げた。その声にはわずかなためらいも感じられない。
「どうして……どうしてそこまでして婚約破棄の宣言をしたいのですか……?」
「君のことを愛しているからだ」
真剣な目だった。熱のこもった声だった。
ヴァーディネシアは向けられる想いに、その熱に、耐えきれなかった。
「いい加減にしてください!」
叫びながら、ヴァーディネシアは席から立ち上がった。
「この資料を見てもまだわからないのですか!? 婚約破棄の宣言なんて不幸になるだけ! なんでそんなバカなことをしようとするんですか!?」
「そんなことはない。君のことは必ず幸せにして見せる!」
クレーヴェルトも席を立って言い返した。
「幸せ!? 魔王終焉の地を治めるデミスバートル男爵家の娘が、幸せになれるわけがないでしょう!?」
「家など関係ない! どんな生まれであろうとも、君への愛は変わらない!」
「ふざけないでください! まともにキスもしない、することと言えばちょっと手をつないだり、軽くハグするだけ! そんな付き合い方で、そこまで本気になれるはずがないでしょう!?」
「心を通じ合わせるのに、身体のつながりなど関係ない!」
クレーヴェルトはまるで引こうとしない。まっすぐに見つめてくる。
ヴァーディネシアはその視線から逃げるように顔を伏せた。前髪に阻まれて、その顔を見せないまま、沈んだ声で言葉を紡いだ。
「心……心を通じ合わせるですって? クレーヴェルト様は勘違いしているんです。わたしはただ、軽いロマンスを味わいたかっただけ。学園で一人でいるのは辛くて、その寂しさを埋めるためにあなたを利用していただけなんです。本気の恋をするつもりなんて無くて、だから必要以上に触れ合わないようにルールを作ったんです……」
そう言うと、ヴァーディネシアは黙ってしまった。伏せた顔を上げようともしない。
クレーヴェルトが心配して手を伸ばすと、触れそうになる直前にヴァーディネシアは顔を跳ね上げた。
その瞳は怒りに燃えていた。
「このわからずや! あなたのことなんてもう知りません!」
そう叫ぶと、会議室から出ていった。
会議室での一件から一か月ほど過ぎた。
ヴァーディネシアはあれから学園に通っていない。学園には休学届を出していた。貴族の学園では家の都合で休学する者が多い。理由を問われることもなく受理された。
彼女は以前から休学を準備していた。婚約破棄の宣言を阻止する最大の策。それは「浮気相手の令嬢が学園にいないこと」だった。真実の愛を誓った相手がいなければ婚約破棄の宣言は成り立たない。
「私は『真実の愛』を見つけた! 君との婚約は破棄させてもらう!」
「そんな!? それで、『真実の愛』を見つけたというお相手は誰なんです? お姿が見えないようですが……」
「彼女は……ちょっと実家に帰っている!」
「えっ」
まったく格好がつかない。笑い話にすらならないだろう。
もっとも、そんな策はもう必要なくなってしまった。熱心に愛を訴えるクレーヴェルトのことを拒絶した。自分の気持ちをばらしてしまった。さすがのクレーヴェルトも愛想が尽きたことだろう。二人の間にあった恋のようなものは、もう終わってしまったのだ。
それでも学園に戻る気にはなれなかった。クレーヴェルトを見た時、どうすればいいかわからない。
頭ではわかっている。何事もなかったかのように、他人の振りをするだけでいい。簡単なことだ。
そんな簡単なことを、うまくやれる気がしない。
もう少し時間が必要なのだと思った。そこでヴァーディネシアが逃げ込んだのが、彼女の家、デミスバートル男爵家の「名目上の本邸」だった。
デミスバートル男爵家は魔王終焉の地を見張る家である。だから本邸も終焉の地と言われる区域の端に建てられている。
しかし、魔王が勇者に討伐されて数百年経って、復活の兆候はまるでない。街に近いもっと便利な場所に別邸を建て、男爵家の人間は普段はそこで暮らしている。この本邸には、家を維持するための使用人しかいない。
だからここは、男爵家の人間から「名目上の本邸」と言われていた。実質的には別荘のようなものである。
「名目上の本邸」は限られた使用人しかおらず、周囲に住んでいる者もいない。今のヴァーディネシアにとって都合のいい場所だった。
本邸に設えられたテラス。ヴァーディネシアは物憂げに、あたりの景色を眺めていた。周囲には家屋のひとつもない。広がる草原。遠く離れた先にはうっそうとした森が見える。今日は天気も良く、実にのどかな光景だった。
あの森が勇者と魔王の決戦の場だったと言われている。
かつてこの地には魔王城があった。おとぎ話によれば、勇者と魔王の戦いは天が裂け地が割れるほど凄まじかったという。その戦いによって魔王城は跡形もなく破壊された。
勇者の最後の一撃はひときわ強烈なもので、それを受けた魔王は「消滅した」と言われている。骨どころかチリすら残らなかったらしい。
その言い伝えがどこまで本当かわからないが、魔王終焉の地では魔物がまるで現れない。勇者の最後の一撃を恐れて魔物が寄りつかないとも言われている。森の中にいるのはキツネやウサギといった普通の獣ぐらいだ。
魔王の纏う瘴気によって、かつてこの場所は草一本は得ない荒廃した土地だったと言う。今はそんなことが信じられないくらい豊かな緑に覆われている。
年に一回、教会から聖騎士と神官たちがやってきてこの地を調査する。これまで魔王復活の兆候はおろか、魔物の一匹見つかったことさえない。
魔王の復活など、もうありえない。魔王終焉の地に関わる者は、そのことをわかっている。それなのにこの場所で形だけの監視を続けている。噂は独り歩きして、デミスバートル男爵家は呪われていると言われている。
噂が収まらないのは、王家もデミスバートル男爵家も積極的に否定しないためだ。
勇者に守られた王国という伝説は治世の安定をもたらす。魔王終焉の地の恐怖が残るということは、勇者の伝説が色あせずに残るということだ。だから王家は噂を否定しない。
デミスバートル男爵家は、魔王終焉の地を治めることで王家から支援金を支給される。目立った産業のない男爵領では無視できない収入だ。だから噂を否定しない。
呪われているという風評を受け入れるだけで家を存続できる。デミスバートル男爵家とは、そんなあさましい家なのだ。
男爵家の娘として教育されたヴァーディネシアは、物心ついたころにはそのことを受け入れていた。
それなのに、ぬくもりを求めてしまった。クレーヴェルトと出会い、彼との触れ合いを楽しんでしまった。恋にならないようにルールを作ったのに、彼は本気になってしまった。
でもそれは、きっと時間が解決してくれる。クレーヴェルトは元通り、伯爵令嬢ロフティアーナと婚約関係を続けることになるだろう。ヴァーディネシアはまた、一人で過ごすことになる。
全て、元に戻るだけのことだ。それなのに、そのことを考えると胸が苦しくなる。泣きたくなる。この気持ちが無くなるまでは学園に戻れないと思った。
テラスで考え事をしていると、ついつい暗い考えに陥ってしまう。
休憩は十分に取った。再び勉強に戻ろう。復学しても困らないように勉強しなくてはならない。男爵家の令嬢として、落第は許されない。
部屋に戻り教科書を開くと、使用人が知らせを持ってきた。一週間後にクレーヴェルトがやってくるという知らせだった。
一週間後の昼下がり。時間通りにクレーヴェルトはやって来た。
準備に抜かりはない。クレーヴェルトの好みの茶葉は取り寄せてあるし、高級な茶菓子も用意してある。夕飯をいっしょに摂ることを想定して食材は取り寄せ、別邸から料理人を呼び寄せてある。
それらの準備に苦労はなかった。一番苦労したのは、ヴァーディネシア自身が覚悟を固めることだった。
わざわざクレーヴェルトがやってくる理由など一つしかない。別れを告げに来たのだ。伯爵令嬢を婚約者に持つ彼にとって、ヴァーディネシアとの逢瀬を知られることは汚点となる。
おそらく、これまでの付き合いについて口外しないよう、契約書にサインすることになるだろう。謝礼という名目で手切れ金を渡されるかもしれない。そのことを考えるとひどく気分が沈みこんだ。
だが、ヴァーディネシアも貴族の令嬢だ。爵位が上の貴族子息を迎えるのに粗相があってはならないことくらいわかっていた。
クレーヴェルトを応接室に案内した。使用人は紅茶と茶菓子を出すと退室した。これからする会話は使用人に聞かせられない内容になる。人払いは欠かせない。
テーブルを挟んでクレーヴェルトと向き合った。学生服ではなく外出用の服に身を包んだ彼は、普段よりよそよそしく見えた。もう隠れて付き合っていたころの彼ではないのだと思った。
「まずはこれを見てほしい」
そう言って、クレーヴェルトは書状を取り出し、テーブルに広げた。
ヴァーディネシアは胸が苦しくなった。見たくないと思った。だが貴族令嬢として、きちんと内容を検めなければならない。不利な契約を結んで家に不利益をもたらすことなど許されないのだ。
書状に目を通すと、すぐにその内容が想像していたものと違うことがわかった。
『婚約解消の契約書』と書いてある。
「これはいったい、何なのですか……?」
「婚約解消の契約書の写しだ」
「それはつまり、伯爵令嬢との婚約を……解消したということなのですか?」
「ああ、その通りだ」
ヴァーディネシアは目を瞬かせた。
なぜ婚約を解消したのか。わざわざ自分のところに報告に来たのか。まるで理解が追いつかなかった。
そして、ふっと思いつくことがあった。
「まさか……ロフティアーナ嬢から婚約解消を申し込まれたのですか?」
もし伯爵令嬢ロフティアーナが、クレーヴェルトとヴァーディネシアとの付き合いを知ったとしたら……それを理由にクレーヴェルトに理不尽な婚約解消を言い渡すに違いない。それでこれからどうするべきか、ヴァーディネシアのところに相談に来たのなら、彼がここに来たことも納得できる。
でも、まさか。そこまで酷いことになってしまったのだろうか。ヴァーディネシアは恐ろしさに身を震わせた。
「いや、私から婚約解消を申し込んだ」
「え? 爵位が上の相手に婚約解消を申し込むなんて、大丈夫なんですか?」
「その爵位が上というのが問題だった。彼女は伯爵令嬢と言う立場で私のことを下の者として扱った。このまま結婚しては一生頭が上がらない。だからずっと弱みを探して伯爵家の事業に注目していたんだ。伯爵家は権力を笠に着て手広くやりすぎて、いくつかの事業で失敗していた。父にそのことを話し、婚約者との不仲も打ち明けて説得した。そうして無事、婚約は解消となったわけだ」
クレーヴェルトは実にしっかりとした口調で理路整然と理由を語った。
ヴァーディネシアにもようやく事情が分かった。結局のところクレーヴェルトは婚約者のことが気に入らなかったのだ。だから婚約を解消するに足りる条件を整え、そしてついに反旗を翻し、勝利したのだ。
事情は分かった。でもどうしてもわからないことがあった。
「今日は何のためにこちらに来られたのですか? わたしとの関係は、その……終わったはずでしょう?」
会議室での一件で、ヴァーディネシアは自分の心情をぶちまけた。あれで完全に縁は切れたはずだ。クレーヴェルトはどうしてわざわざ、婚約解消などという不名誉なことを話しに来たのだろう。
ヴァーディネシアの問いかけに、クレーヴェルトは泣きそうな顔になった。そしてガバリと頭を下げた。
「ヴァーディネシア、すまなかった!」
「な、何を謝るのですか!? 頭を上げてください!」
ヴァーディネシアは慌てた。自分より高位の貴族に頭を下げさせるなど、通常ならありえないことだ。
慌てるヴァーディネシアをよそに、クレーヴェルトは頭を下げたまま言葉を続けた。
「夜会で婚約破棄を宣言しようなどとは、愚かで浅はかな考えだった! 恋の熱に浮かされていた! そのために君を傷つけてしまって、本当に申し訳ない!」
そこまで言うと、クレーヴェルトはようやく頭を上げた。
澄んだ瞳でヴァーディネシアのことを見つめ、彼女の手をぎゅっと握った。
「君を本気で娶ろうと言うのなら、きちんと関係を清算してから結婚を申し込むべきだった。だから婚約を解消した。ヴァーディネシア、君のことを愛している。どうか私の生涯の伴侶となってほしい」
そこまで言われてようやくヴァーディネシアも全てを理解した。
クレーヴェルトは彼女のことを嫌いになってなどいなかった。その愛を成就するために行動してきたのだ。
ヴァーディネシアの瞳が潤み、涙がこぼれた。一粒涙が落ちると、止まらなくなった。
「あなたは……恋のために高位貴族との婚約を解消したというのですか……?」
「ああ、そうだ。君と添い遂げるために婚約を解消したんだ」
「なんてことを……! あなたは貴族としてのお立場を忘れてしまったのですか?」
「そう言われると耳が痛い。でもそれは、君も同じことだろう?」
「なんの、ことですか……?」
「貴族たちから疎まれるデミスバートル男爵家。その令嬢が子爵子息とつながりができたのなら、逃してはならないはずだ。君はそうしなかった。私を不幸にしないために、ルールを作って関係を深めないようにした……そうなのだろう?」
それはヴァーディネシアが目をそらし続けてきたことだった。
デミスバートル男爵家は魔王終焉の地を領地にしている不吉な家だ。目立った産業も特産物もなく、収入の頼りは王家からの支援金。そんな男爵家と関係を結ぼうという奇特な貴族はいない。そのため男爵家は領内の平民から結婚相手を迎えてきた。
そんな男爵家の令嬢が、子爵家の子息と知り合った。本来なら逃してはならないはずだった。相手に婚約者がいても関係ない。
伯爵家の恨みを買うことになる。だが、王家から支援金を供される男爵家は、伯爵であっても迂闊には手出しできない特殊な立ち位置にある。伯爵家に睨まれるデメリットより、子爵家と関係を持つメリットが勝る。
家のために、身体を許してでもクレーヴェルトのことを篭絡する――それは貴族令嬢の責務とも言えることだった。
それなのに、ヴァーディネシアはわざわざルールを作ってまで、クレーヴェルトと深い関係になることを避けた。
デミスバートル男爵家の噂に囚われない人に初めて出会った。なんの気負いもなく、笑顔で手を差し伸べてくれた。ヴァーディネシアは出会ったときから、彼に恋心を抱いてしまっていたのだ。
好きになったからこそ、結ばれてはいけないと思った。不吉な男爵家との婚姻は、きっと彼のことを不幸にしてしまう。だから近づきすぎないためにルールを作った。
そんな半端なことをせず、最初からきっぱり断るべきだった。それができなくても、もっと早く別れるべきだった。わかっていた。わかっていたのに、できなかった。
報われない恋心だとわかっていた。多くの時間を過ごせば、それだけ別れがつらくなることもわかっていた。それでも少しでも長く、そばにいたいと思ってしまったのだ。
「君はいつも私のことを案じてくれた。不幸になるかもしれないと想像しただけで涙を流してくれた。だから婚約破棄の宣言を止めようとしていたのだろう? そんな君のことが好きなんだ。愛しているんだ」
ヴァーディネシアは彼の言葉を受け止めきれず、顔をそむけた。
「あなたはバカです。大バカです……」
「……ああ、そうだな。そうかもしれない」
クレーヴェルトは苦笑する。
ヴァーディネシアは背けていた顔を彼に向けた。その目は未だに涙を零していたが、口元には微笑みを浮かべていた。
「でも、わたしはもっとバカなんです……だってそんなあなたのことが、大好きなんですから……」
「それじゃあ……! 私と結婚してくれるかい?」
「はい……!」
ヴァーディネシアは泣きながらこっくりとうなずいた。
自分の気持ちを知られて。婚約解消するという誠意を見せられて。まっすぐに愛を告げられて。
もうヴァーディネシアは抗う術などなかった。自分の気持ちから目をそらすこともできなくなった。
だって彼女は、目の前のこの人のことを、愛しているのだ。
クレーヴェルトはテーブルに身を乗り出し、彼女のことをぎゅっと抱きしめた。
ヴァーディネシアは愛しい人の胸に顔をうずめ泣き続けた。
だが彼女の泣く声は、やがて悲しい響きを帯びていった。
「ヴァーディネシア。何がそんなに悲しいんだ?」
「あなたのことが好きです、愛しています……でも、わたしはデミスバートル男爵家の娘。あなたを不幸にすることしかできないのです……!」
「それについては考えがある。どうか私に任せてくれないか?」
妙に自信の感じられる声だった。ヴァーディネシアが顔を上げると、クレーヴェルトの笑顔があった。その顔を見ていると、不思議と全てがうまくいくように思えた。
ヴァーディネシアとクレーヴェルトは正式に婚約関係を結んだ。
婚約者となったクレーヴェルトが最初に手をつけたのは林業だった。彼はなんと、魔王終焉の地に拡がる森の木々を伐り出すと言い出したのだ。
当然、ヴァーディネシアの父、デミスバートル男爵は反対した。そこで彼は、魔王終焉の地にギリギリ含まれない森から、まずは試験的に伐り出そうと提案した。時間をかけて説得し、どうにか男爵を説き伏せた。
「こういうことは最初に小さい要求を呑ませることが大事なんだ。きっかけさえ作ればあとはずるずると行けるものさ」
クレーヴェルトはそう言って、いたずらっ子のように笑った。
木材を伐り出すにあたっては、事前に教会に依頼して呪いや邪悪なものがないかをきちんと調べてもらった。これまでの調査と変わらず、異常が見つかることはなかった。
彼は木彫りの趣味を通じて多くの職人の伝手があった。木材の安全性を教会に保証してもらった上で職人たちを説き伏せ、木材の活用に当たった。
最初に売り出したのは棍棒や槍といった、木材を使った武器だった。採算は度外視して質の高い武器を作り出した。
魔王終焉の地で得た木材を使ったことは隠さず、むしろ宣伝に利用することにした。それらの武器を『終焉武器』と名付け、低価格で冒険者向けに売り出した。
冒険者は験を担ぐものだ。最初は『終焉武器』を手に取る冒険者はなかなかいなかった。だが徐々に、駆け出し冒険者が買うようになった。彼らの多くは十分な装備を整えるだけの金がない。少々イメージが悪くても、低価格な『終焉武器』を無視することなどできなかったのだ。
するとその質の高さが評判となり、徐々に広まっていった。初心者向けの高品質な武器として、だんだんと売り上げを伸ばすようになった。
それと並行して、貴族向けに高級家具を作り、『終焉家具』と名付けて売り出した。貴族には珍品を求める好事家が多い。『終焉家具』もまた、少しずつ確実に売れるようになってきた。
大きな転機となったのは、家の建築だった。ドラゴンを討伐した冒険者が、その報奨金を使って家を建てることにしたのだ。建築には全て魔王終焉の地原産の『終焉木材』を使うと申し出てきた。
クレーヴェルトはこの機を逃さず、優秀や大工を集めて総力を挙げて家を建てた。
この家が実に立派なもので、大変な評判となった。
そのことをきっかけに、『終焉木材』は王国各地から求められるようになった。『終焉木材』は確かなブランドを確立したのだ。
この流れを受けて、これまで魔王の脅威を治世に利用していた王家も方針を変えた。「魔王を克服した王国」と喧伝するようになったのだ。それは王国の評判を高め、諸外国との関係を有利なものとした。
デミスバートル男爵家もこの流れに乗った。魔王終焉の地には広大な森が広がっている。それはつまり、手つかずの膨大な森林資源があることを意味していた。
これまで目立ったところのなかった男爵領が、初めて主産業になるものを得た。その促進のために総力を尽くした。
やがてデミスバートル男爵家が呪われていると噂する者はいなくなった。過去の因習に囚われず産業を伸ばした強かな貴族として知られるようになった。
「魔王終焉の地に、こんな綺麗な場所があるとは思いもしませんせんでした……」
ヴァーディネシアはしみじみと感想を漏らした。
ヴァーディネシアとクレーヴェルトが結婚してから10年の歳月が過ぎた。
ここはかつて魔王終焉の地と呼ばれていた場所の一角。そこには美しい湖があった。林業が始まるまでは、こんな湖があることなど誰も知らなかった。
そのほとりには立派なロッジが建てられている。クレーヴェルトが設計し、『終焉木材』でくみ上げた逸品だ。
今日は結婚10周年を記念して、新築したこのロッジに子供たちを連れてやってきた。
湖では二人の子供たちが遊んでいる。水際でぱちゃぱちゃと波を立てて楽しそうにしている。
湖には入らないように言い聞かせてはいるが、やんちゃざかりの7歳と5歳の幼子だ。まだまだ目が離せない。
しばらくすると、ロッジの中からクレーヴェルトが出てきた。
「ロッジを見るのはもういいのですか?」
「いやあ、まだまだ見たい。建物は木材で作る最大級のものだからな。自分が設計したものと思うと感慨はひとしおだ。何度見ても飽きない。だが、あちこち眺めることに没頭していたら、家族の姿が見えなくて、寂しくなって来てしまった」
「ごめんなさい、子供たちが湖で遊びたいというから……」
クレーヴェルトは目を細めて子供たちの遊ぶ様子を眺めた。
ついさっきまで、自分もこんな顔をしていたに違いない。そう思うとなんだかおかしくなり、ヴァーディネシアはくすりと笑みを漏らした。
つられたように、クレーヴェルトもニコリと笑った。
「学生の頃、君には小さな木彫り細工しか渡せないのが不満だったんだ。ようやくこんなに立派なロッジを君に贈ることができて、すごく嬉しいんだ」
「あら、あの木彫りは大好きですよ」
学生の頃にもらった木彫り細工は子爵邸の夫婦の部屋に飾っている。その日の気分によって木彫りの動物たちの配置を変えるのが、ヴァーディネシアにとって密かな楽しみだった。
子供たちのはしゃぐ声が響いている。陽の光がやわらかに降り注いでいる。最近暑くなってきたが、湖のほとりは涼やかだった。
この光景を見て、かつて勇者と魔王が戦う様を想像できる者はいないだろう。あまりにも穏やかな光景だった。
「……まさか何百年にもわたる因習が、林業で打ち破られるとは思いませんでした」
「魔王終焉の地が安全だということは知っていた。それを知ってもらうきっかけにでもなればと思って始めた林業だけど、正直ここまでうまくいくとは思わなかったよ」
「でも、魔王終焉の地から木を伐り出したりして、本当に魔王が復活したらどうなさるおつもりだったんです?」
この森の安全性は教会が保証してくれている。だが魔王というのは、どこからともなく現れて平穏を打ち破るものだ。
「それはあり得ないよ。君と出会う前、こっそりこの森を見に来たことがあったんだ。そのときから、いい森だと目をつけていたんだ。こんなにいい木が育つ場所で、魔王が復活するなんて考えられない」
ひどくまじめな顔で答えるものだから、ヴァーディネシアはなんだか可笑しくて笑いそうになってしまった。
王国に残り続けた魔王の脅威。男爵家に影を落としていた呪いの噂。それはもう、とっくに無くなっていた。でも誰も、それを信じることができなかった。
勇者が魔王を打ち倒し、平和を勝ち取った。おとぎ話の結末のように簡単なことを、みんな難しく考え過ぎていただけのことだったのだ。
「ヴァーディネシア、君は今、幸せかい」
「ええ、幸せです。愛しています、あなた」
「ああ、僕も愛しているよ、ヴァーディネシア」
クレーヴェルトがそっと肩を抱き、ヴァーディネシアは彼に身を預けた。すると、子供たちがこちらに駆けてきた。
「おとーさま、おかーさま、どうしてわらってるのー?」
「どうしてー?」
子供たちの無邪気な声に、ヴァーディネシアはとびっきりの笑顔で答えた。
「幸せだから、笑っているのですよ」
そして、愛する子供たちを抱きしめた。子供たちは無邪気に笑った。家族みんなで、笑いあった。
呪われていると噂され、影を纏っていた令嬢はもうどこにもいない。
ここにいるのは、愛する家族に囲まれた幸せな母親だった。
終わり
「婚約破棄の宣言をする前に、貴族子息と浮気相手の令嬢はどんな会話をするんだろう?」
そんなことを考えました。
常識があれば止めるような気がします。
浮気相手の令嬢と言うのは大抵その辺の感覚がマヒしていますが、止めたら面白そうな気がしました。
そこでそういう展開になるよう設定やキャラを詰めて言ったらこういう話になりました。
オチがなかなか決まらず苦労しましたが、なんとかまとまってよかったです。
2024/7/25
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。