勇者に負けた後の魔族たちの話
お読みになられている小説のタイトルは正常です。
フェイリス・ルル・ヴァルクーフェンは侯爵家で生まれ育ったどこに出しても恥ずかしくない貴族令嬢である。
幼い頃からの教育は彼女の中で根付き芽吹いて、そうしてまだまだ小さな頃から既に素敵な淑女の片鱗を周囲に感じさせていた。
あどけなさたっぷりな幼い頃から充分に愛らしかったけれど、成長とともに可愛いから綺麗だと言われる事だって増えていた。
そんな周囲から大層愛されて育ったフェイリスには、婚約者がいた。
アーノルド・フォン・ティエンシオ公爵令息である。
まだ恋も愛もろくに把握できていないような幼い頃に決められたものであったけれど。
それでも、二人は少しずつ歩み寄っていた……はずだった。
成長するにつれ美しくなるフェイリスと同じく、アーノルドもまた周囲からは絶世の美男子だと囁かれるような成長を遂げた。
幼い頃はさておき、貴族が通う事を定められている学院では彼の人気は圧倒的だった。
文武両道を地でいく彼の優秀さは、学院にいる者であれば誰でも知っていた。
そんなアーノルドに恥じないようにと、フェイリスもまた研鑽を重ね淑女の鑑と言われるようになっていた。
そのまま学院を何事もなく卒業すれば、その後はアーノルドの家にフェイリスは嫁入りするはずだったのである。
……そう、何事もなければ。
だがしかし、困った事に何事かが起きてしまったのだ。
フェイリスとは毛色の違う愛らしさを前面に押し出したような男爵家の令嬢にアーノルドは恋をして、そうしてあっさりとフェイリスの事を捨てたのだ。
それも、よりにもよって大勢の前で婚約破棄を突きつけて。
誰の目から見ても不貞をやらかしたのはアーノルドであるけれど、それでも周囲は美男美女の真実の愛、という表面上はキラキラとした装飾に浮かれたのか、まるでそんな二人を引き裂く悪役のような立場を勝手に当てはめられてフェイリスの立場は転落したのだ。
これがきちんとした社交の場であったなら、冷静に物事を見る者たちももっと大勢いた事だろう。
けれども学院と言うある種閉鎖的な空間で、同年代が揃った環境では、困った事にそうならなかったのである。
真実の恋、なんて言葉にまんまと騙されている令嬢たち。他人事だからこそ、夢を見て楽しんでいたのだろう。
やってることは不貞だとわかっていながらも、周囲の反応から面白そうな方に味方してしまった令息たち。
そもそも身分だってアーノルドの方がフェイリスよりも上なのだ。
あえて公爵家を敵に回すよりは、フェイリスを見捨てる方が余程簡単だった。
それにアーノルドが真実の愛だと宣言した男爵家の令嬢――ルルアンナは身分こそ確かに男爵令嬢であるけれど、しかし彼女の家はいくつもの事業を立ち上げそれらいずれも成功させた、国内でもトップクラスの資産家である。
その有り余る財力で、ルルアンナの親は彼女が幼い頃に家庭教師を雇い、高位身分の貴族でも通用するような教育を施したのだ。
ルルアンナの名も身分も知らないまま彼女を見れば、誰もが高位貴族の令嬢だと信じて疑わない程。
市井に出回っている娯楽小説の中には、外見の愛らしさだけで周囲の高位貴族の令息たちを篭絡するような男爵令嬢も登場していたのだが、ルルアンナは見た目だけではなく中身もきちんと貴族らしかった。
それに、ルルアンナは自分からアーノルドに近づいたわけではない。
たまたま学院内を移動している時にアーノルドが見初め、そうして彼自ら近づいたのである。
ルルアンナの身分は男爵令嬢ではあるけれど、ルルアンナの両親は何が何でも学院で結婚相手を見つけてこいだとか、なるべく身分の高い相手に見初められてこいなんて一言も言わなかった。
好きな人と結婚すればいいし、したくないならしなくてもいい。ルルアンナに決定権を持たせていたのだ。
ルルアンナ自身も、だからこそ一緒にいてお互いに愛し愛されて尊重しあえる人がいれば……くらいの認識だったのだ。ところがアーノルドに熱烈な告白をされて、その後も様々なアプローチをされて、そうなれば恋愛経験豊富とも言えないようなルルアンナが絆されるのは時間の問題であった。
だがアーノルドには婚約者がいる。
それもあってルルアンナは自分からアーノルドに近づく真似はしなかった。
いずれ婚約をなかった事にさせるから、どうか、自分を選んで欲しい。
そう言われて、駄目だとわかっていながらも人目を忍んだ逢瀬を繰り返していた。
あくまでも学院の中だけだ。外だと誰の目があるかもわかったものではない。学院の中なら、まだ誤魔化しがきく、と思ってしまったのもついずるずるとその関係を続けてしまう原因だったのだろう。
そうして大っぴらに言えない関係は、しかしそれでも肉体関係までには至っていなかった。
あくまでも、お互い愛し合っているが婚約者がいるので一線を越えてはならないと理解した上でのもので。
そして人目を避けたとしても、絶対ではない。
そういった密やかな関係は、時間の経過とともに少しずつ周囲に知られる形となってしまっていた。
いずれ婚約をなかった事にする、とアーノルドは言っていたが、まさかこんな大勢の前でやるとは思わなかった、というのがルルアンナの正直な感想である。
いくらなんでも、流石にそれは……と思ったがそれでも。
ルルアンナは突然自分の身に降りかかった非日常的な――それこそ市井に出回っている恋愛小説の主人公にでもなったような気がして、アーノルドを止めるタイミングを完全に逃してしまった。
その、どこかちょっと信じられないといった感情が浮かんだ表情は、傍から見ればようやく自分を選んでくれたのだと思わせるようなものだった、というのをルルアンナは知らない。
感極まっていると思われているのだが、生憎ルルアンナは人の心を見透かせるようなスキルは持ち合わせていない。会話の端々で機微を察する事はできるけれど、それは日常的な状況下においての話であり、こういった場で何もかもを察して的確な判断を下すには少々難しかったのである。
フェイリスに非はない。
あるとすればアーノルドとルルアンナだ。許されない恋という意味で。
それでも無理にフェイリスの悪い所をあげろと言われるのであれば。
アーノルドの心を自分に留めておけなかった事だろうか。
けれども、そんな言いがかりのような非だとしても。
大勢の前で婚約破棄をされる令嬢、というのは少々やりすぎである。
大勢の前で、というのがもうどうしようもない。
人の口に戸は立てられないのだ。この出来事は間違いなくあっという間に広まるだろう。
勿論、真っ当な大人がいるのであればアーノルドも叱責されるだろうし、止めることができなかったルルアンナもお叱りを受けるかもしれない。
けれど、とても酷い考えだけれど。
ルルアンナは最悪学院にいる間だけの戯れだと思っていた、という言葉で逃げられない事もない。
近づいてきたのは相手から。身分はあちらが圧倒的に上。そんな相手を失礼な態度で接するわけにはいかない。今はともかく、公爵家を敵に回すような事になれば我が家に何の利もないのだから。
確かにルルアンナ自身、アーノルドに恋をしていたが、しかしそれも最悪学院にいる間だけのものだと主張するつもりであった。
男爵家など、身分だなんだと拘るものではない。だからこそ結婚相手に平民を選ぶ事も考慮してはいた。
故に、学院で若干悪評が流れたとしても、学院の間だけの火遊びのつもりであったと自分の立場を弁えているように見せれば、ルルアンナ自身はそこまでの事にはならないだろうとも思っていた。
いざとなったら親に泣きついて大量の資金と共に他の国へ行けばいいだけの話だ。
ルルアンナは見た目は確かに愛らしい女性であるけれど、中身まで愛らしいかと問われるとそうではなかった。存外に強かである。
なので、自分の評判が地の底に落ちようともどうにかなるだろうとルルアンナは思っていたけれど、しかしそうはいかないのがフェイリスである。
彼女は侯爵家の生まれだ。いざとなったら平民に紛れて何食わぬ顔で生活するなんて芸当、とてもじゃないができやしないだろう。
そしてこの場において、フェイリスは真実の愛の相手を邪魔する悪者である。
別にルルアンナはフェイリスに虐められただとか、そういった事は一度だってない。フェイリスに虐められたとルルアンナ自身が訴えた事だってない。けれども周囲が勝手に思い込んだのである。
……まぁ、ルルアンナは周囲を敵に回さない程度に立ち回ったけれど。だが一度だってフェイリスの事を悪しざまに言った事はない。それだけは断言できる。
恐らくはそんなルルアンナの立ち回りによって、余計にフェイリスが悪役に思われてしまった可能性はあるのだけれど。
だがそれはつまり、フェイリスは立ち回り方を間違えたという事でもある。
高位貴族の令嬢が、まさかたかが男爵令嬢に、それもあからさまに攻撃をしようとしてしたわけでもない相手にしてやられるなどあるはずがない。
そう考えると、そういった部分もまたフェイリスの非に該当するのではないのかしら、とルルアンナは他人事のようにその光景を傍観していた。
あくまでもフェイリスを悪く言っているのはアーノルドであり、また周囲である。
ルルアンナが先導したわけではない。
大衆心理って怖……なんてそんな光景を見ながらルルアンナは思っていた。
結局のところ、婚約は解消扱いとなった。
破棄ではまるでフェイリスに瑕疵があると思われるが、解消なのでそういったものはない。だがしかし学院という限られた空間の中とはいえ、婚約破棄をされた場面を見ていた者は大勢いる。
解消だと言ったところで、それでも勘ぐる者は出るだろうし、そういった噂を面白可笑しく吹聴する者もいるだろう。
そうなると、結局のところ大差がないのである。
自分に責任が発生するとは思っていない者たちこそ、率先して誇張した噂を流す事だろう。
勿論そういった人間ばかりでない事をフェイリスだってわかってはいるのだけれど。
しかし好奇の目を向けられる事が平気なわけではない。聞こえるかどうかギリギリの距離で、こそこそ噂をする相手ばかりでないとはわかっているが、それでもそういった者がいるのは事実だ。
それらを考えると、フェイリスは今後についてとても憂鬱な気分だったのである。
自分に非はないけれど、それでも精神的な疲れが激しくて。
婚約破棄を告げられた事に関しては、早々に両親に伝えたし数日学院を休む羽目にもなった。
いくら自分に非はないといっても、それでもやはり周囲の目を気にしないでい続けるというのも中々にしんどいものがあるので。
両親も、ゆっくり休んでいいと言ってくれたからその言葉に甘える事にしたのだ。
まぁ、あまり長い事学院を休むとその間にどんな噂が広まるかわかったものではないのであまりゆっくりはしていられないとフェイリスだってわかっているのだが。
こういうのはいくら真実がどうであろうとも、声の大きい者が流した噂がさも真実のように受け取られるのである。
フェイリスが長い間休んでいるうちに、完全にフェイリスが物語の悪役令嬢みたいな扱いになっていたらそれはそれでまた面倒なので、休むにしても数日程度だろうか。
何も、あんな大勢の前で婚約破棄なんてしなくても。
どうしてもルルアンナが良いというのであれば、両家の話し合いで穏便に婚約を解消だってできたのに。
恋は盲目とはよくいったものね……とフェイリスは思う。
あれは完全にアーノルドの独断だろう。ルルアンナがそそのかしたわけではない。
両家の婚約をぶち壊す事になったルルアンナだが、しかし彼女自身が率先して何かをやらかしたわけではない。フェイリスに謝罪をしたとき、ルルアンナはアーノルドに婚約者がいたからこそ距離を取ろうとしたと言っていた。けれども、それでもアーノルドに熱烈に告白をされて、つい絆されてしまったとも。
そしてこの関係は学院にいる間だけのものだと思っていたのだ、とも言われて。
彼女は学院を卒業した後身を引く予定だったのだと、けれどもまさかこんな事になるなんてと、フェイリスに対して申し訳ないくらいに謝ってくれた。
両家の婚約を駄目にした慰謝料だって向こうから申し出ていた。
フェイリスにとって幸いだったのは、ルルアンナは別に友人でも何でもなかった事だろうか。
もし親友だったとして。
その上でアーノルドとあんな関係になっていたのであれば。
いくら謝罪されたって許せなかったに違いない。
けれども、ルルアンナはフェイリスの事を社交界での話題で知ってはいたかもしれないが、しかし直接の関わりはなかった。フェイリスもまたルルアンナの事は男爵家の事に関して大抵の貴族が知っているような情報しか持っていなかった。
お互い、直接どういった人物か、というのを知らなかったし関わる事もほとんどなかったからこそ、フェイリスがルルアンナを憎むというのは少しばかり難しかったのである。
確かに、アーノルドと良い仲になりつつあるという学院内での噂を聞いて、思う部分がなかったとは言わないが。
フェイリスとルルアンナに関しては家同士で和解が成立している、という話は既に流れているだろう。
であれば、学院にフェイリスが戻ったとして、その件であれこれ言ってくる者は少なくともフェイリスの周囲にはいないと思いたい。
それでも、気が重い事に変わりはないのだが。
フェイリスとアーノルドの婚約が解消され、その後ルルアンナとアーノルドの婚約が決まった、という話をフェイリスが耳にしたのは、フェイリスが学院を休んで五日目の事だった。
ちなみにルルアンナの家とフェイリスの家とが和解したのは、婚約破棄を突きつけられてその後解消となった直後の話だ。破棄を言いつけられて、その日のうちに両家での話し合いが行われ、その翌日にはルルアンナの両親がルルアンナを伴ってこれでもかという程に謝罪をしていった。
ルルアンナが謝罪に来た日が学院を休み始めた初日であり、二人の婚約が決まったとなったのがその四日後、となれば。
フェイリスはまるで最初から仕組まれていたのではないか……? と少しだけ疑ってしまったくらいである。
どうにも胸のもやもやが消えてくれなくて、つい父親に話を振ってみればあれだけ大勢の前でやらかした以上、あの二人の結婚相手はもうお互いがくっついた方がマシな結果になるからだと言われてしまった。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
アーノルドの家は公爵家で、彼は将来公爵を継ぐとはいえ、あんな風に大勢の前で特に落ち度のない婚約者へ破棄をつきつけるような人物である、と知らしめてしまった。
これがなければ優秀な、将来有望な男性のままだっただろうけれど、この一件で同年代以外の――それこそ婚約破棄の場にいなかった大人やこどもの貴族たちからすれば、場の状況を理解できない人なのだろうか、と思われる始末。
学院の中ではまるで悲劇的な恋愛の物語みたいな扱いを受けていたけれど、しかし学院の外に出てしまえばそんなものは単なる不貞のやらかしでしかない。
学院の生徒たちは身近にあった非日常的な恋物語を他人事として楽しんでいたし、そこに自分が登場人物として引きずり出される事はないと思っていたからこそ無責任に二人の仲を応援する者だっていたようだけれど。
学院の外に出てしまえば、そんな事をするような人物は自身もまた同じようなものだと言っているのだという事を理解している者たちの方が大半であった。
不貞を良しとするのなら、自らもそうなのだ、と暗に言っているようなもの。
家柄や本人がいくら優れていようとも、人間性の一部に汚点を残してしまったアーノルドとの結婚を望む女がいたとして、恐らくまともな相手ではない。
そしてルルアンナも。
彼女の家は男爵家で、下手をすれば家を潰される可能性もありえた。けれどもそうならなかったのは、有り余るほどの財力によるものだ。
早急にフェイリスの家へ謝罪へ向かい――当日ではなく翌日だったのは、婚約に関する話を両家で行うとわかっていたからだろうし、ましてやその後でとなれば精神的な疲労もあれど、時間的に果たしていつ終わるかも微妙なところであったがために、あえて翌日に約束を取り付けた――禍根を残さないようにしているのも大きかった。
謝罪、と一言でいうけれどそこには迷惑料と言う名の慰謝料だって含まれていたし、そこまでされて尚怒りを持続させるとなるのは侯爵家にとってもあまり良い事ではなかった。
あまりにも莫大すぎる慰謝料をもらったとしても、そうなると今度は侯爵家に対しての悪評が流れかねない。
故に落としどころとしてここが適切だろう、というところでお互い話を終わらせるしかなかったとも言う。
ルルアンナの家は財力だけなら無駄に有り余っているので、今回の件で悪評が流れたとしても、それでも彼女を結婚相手にと望む相手はまだまだいただろう。
けれども、それは明らかに金目当てであるし、ましてや悪評が流れれば更に足元を見て軽んじるだろう相手が押し寄せてくる可能性すら発生してしまった。
この一件が起きる前までなら、男爵家であろうとも身綺麗な令嬢にそんな足元を見るような真似をする者など近寄る事はなかっただろうに。
事実、フェイリスの家との和解が済んだと周囲に知らせた直後から、瑕疵のついた令嬢だとルルアンナを見下し莫大な持参金を持たせるのならうちで嫁にしてやってもいい、という尊大な釣書だって届いたのだ。
ルルアンナの父は誰がそんなところに嫁にやるかと釣書を使用人に渡し盛大に燃やしておけと言いつけたけれど。
フェイリスが学院を休んだ二日目にしてこれだ。
三日目も、返事を急くような釣書が送られてきた。どれだけ金に困っているんだか知らないがとにかくお断りである。
四日目、このままではルルアンナが結婚を決めるまでひたすら金目当ての身持ちも悪く評判もよろしくない連中から付け狙われ続けるのではないか、と危機感を覚え始めた男爵家は、アーノルドの家で話し合いをすることとなった。
そもそも婚約者がいながらルルアンナに言い寄ったのはアーノルドである。
お前がそんな事をしなければ……という恨みの気持ちも父にはあったし、こうなったらルルアンナには好きな人との結婚をしなさいなんて悠長な事も言えなくなってしまったのである。
何せ今のルルアンナはまさしく評判のよろしくない貴族から見れば金の卵であり金のなる木である。
醜聞が流れる前までなら自分の手には届かない相手でもあったけれど、しかし瑕疵がついたように思える今はそうではない。
最悪強硬な態度に出て既成事実を作り無理矢理手籠めにするようなのが出たっておかしくはなかった。
アーノルドは両親からそれはもうこっ酷く叱られなんだったら父親には容赦なくぶん殴られたりもしたけれど。それでもルルアンナとの結婚を諦めてはいなかった。
男爵令嬢とはいえど、しかし彼女は幼い頃から様々な教育をされて伯爵家や侯爵家の令嬢とも変わらないくらいであったために、今から男爵家のご令嬢を高位貴族の令嬢と同じくらいに教育するのは……なんて理由で却下しようにもできないのも悪かった。
アーノルドの父はこれを後継者にしたならば、次はどんな理由でやらかして家に傷をつけるのかと思うと彼を後継者にすることはやめるべきだとも思いつつあったが、しかしそうなればこの愚息をどうするべきかに悩む事となる。
いっそ家から追い出してしまおうか、ととても安直に思ってしまったけれど、結果更なる厄介ごとを持ってこられてはたまったものではない。
どうにか落としどころを見つけなければならなかった。
何せ婚約は解消、となったけれど、それでも馬鹿息子のやらかしである事は確かだったので、侯爵家へ慰謝料を支払っていた。本来ならば支払う必要のないものだったのに。息子が婚約者を大事にして結婚していたならば、まず間違いなく払う必要のない出費であった。
アーノルドには弟がいるので、後継ぎに関しては今からでもそちらに教育をすればどうにかなるけれど。
アーノルド本人の処遇に公爵は頭を悩ませていたのである。
そこにやって来たのがルルアンナの父でもある男爵だ。
公爵からすればこいつの娘のせいで、という思いがなかったわけでもないが、しかしルルアンナが自分からアーノルドに言い寄ったわけではないというのも知っている。
八つ当たりであるのを理解した上で、それでも彼女がいなければ今頃こんなことには……と思う程度に公爵は精神的にお疲れであった。
けれども男爵からすれば、こちらがどう考えても悪いのは言うまでもない。
その気になれば圧倒的財力でもって公爵家に圧力をかける事も可能ではあった。
ただ、公爵家は身分と言う名の権力で、男爵家は圧倒的資金力でお互いをどうにかしようとすれば間違いなく泥沼になるのがわかっているからこそお互いにそれをしていないだけだ。
公爵と男爵の話し合いの結果、アーノルドをこのまま市井に放り出すわけにもいかず、かといって騎士団にぶち込んだところで下手に優秀なので自力で出世して返り咲かれても困る。
もしそうなれば、あのような優秀な人間を後継者にしないなんて公爵家も……なんてこっそりと噂にでもされてみろ。結局余計な火種しか生まれない。
アーノルドがルルアンナを愛しているのは周囲から見ても明らかで、そしてまたルルアンナもアーノルドの事を愛しているようだ。今から他の誰かと結婚をするか、と問えば間違いなく首を横に振って、ルルアンナはアーノルドを選ぶだろう。
身を引くつもりでいたけれど、それでもまだすぐには諦められそうにないのです。せめて、あと少しだけ……そんな風に言うだろうことは簡単に予想できてしまっていた。
だからこそ。
余っていた爵位から子爵をアーノルドに与え、ルルアンナを妻にする、という結論に落ち着いたのはある意味で当然の流れだったのかもしれない。
下手に市井に放り出したとしても、困った事に優秀であるのは確かなので立身出世で社交界にまでやってこられたらとても困る。
だが、それなら最初から貴族のままでいさせておけば。何もかもを失ったからこうなればこの身一つでのし上がってやろうじゃないか! なんてところまでは奮起しないはずだ。
それに、最愛の女性であるルルアンナが妻となれば、まぁ妻の生活に苦労を掛けたくない、で努力する可能性はあるけれどそれだってルルアンナの実家がそっと支援でもしておけば、最低限ルルアンナが不満を持たない生活をさせておけば、やはり出世して……などとはならないと思いたい。
どうにかルルアンナにアーノルドに下手に出世させてのし上がろうとさせないように言い含めておけば、周囲から多少見下される事があったとしてもあからさまにはならないはずで。
だが、あまり目立つ真似をされれば敵に回る家はあるかもしれない。ルルアンナはそこまで愚かな女でもないので、アーノルドを上手く手のひらで転がしつつそういった社交のあれこれを乗り切ってくれるだろう。
そう信じて。
二人を結婚させる事に決めたのである。
ある意味でアーノルドの願いが叶ったこの話は、あっという間に広まった。
学院の外、つまりは親や年の離れた兄弟姉妹からあの二人がくっついたのは別に真実の愛などではなく、他にマトモな相手がいないからであると知らされた学生たちは、あれを成功例と思うなと強く釘を刺される形となった。
そうでもしないと、自分も同じようにやらかそう、と思う者が現れないとも限らないからだ。
学院の中で大勢の意見が同調されて真実の愛を持て囃していた学生たちは、しかしその後現実を滾々と言い聞かせられ、時には直視させられる事となったのである。
その後、フェイリスが学院に復帰した後、周囲の反応はそこまで酷いものではなかったけれど、それでもどこか腫れ物を触るようなものであったのは否定しない。
フェイリスがルルアンナより立ち回りが下手くそだっただけ、と言ってしまえばそれまでだが、しかし彼女が悪く言われる原因は実のところもう一つあった。
それは彼女の友人である。
学院の中での友人は皆貴族なので何も問題はないけれど、しかし学院の外の友人に問題があった。
この世界には人間以外の種族もいた。人間は大まかにわけて平民か貴族か、といったところだが、亜人と呼ばれる彼らは人に似てはいたけれど、しかし獣の耳や尻尾といったものが存在していたのである。
獣人。そう呼ばれる種族であった。他にもいくつかの種族はいるらしいが、しかしその大半は人が暮らす土地から離れ、ひっそりと隠れ住んでいるらしい。
獣人たちが人の暮らす土地に姿を見せるようになったのは、地上を制圧しようとした魔王軍のせいだ。
住処を追われ、故郷が滅ぼされた事で彼らは方々を流離った。そうして気付けば人間たちの生活圏に身を寄せるようになったのである。それ以前は獣人たちも人里から離れた場所で暮らしていた。
魔王が勇者に倒された後、世界は平和になったけれど。
そうなると人は自分たちと異なる姿の獣人たちを疎むようになってしまった。
そうでなくとも貴族は平民を同じ人間だと思っていない者だっているのだ。同種族の人間同士でそれなのに、獣人をヒトとして認める者ばかりでないのは言うまでもないだろう。
貴族から見下されていると思っている平民はその結果自分より下であると獣人を見下す傾向にあるのもよくある話だった。
勿論そういった者たちばかりではないのだけれど。
それでも、獣人という種族に対しての風当たりは強いものだった。
フェイリスの友人に、その獣人がいる、というのは実のところ学院に入学して早々に噂として流れていた。
フェイリス自身それを恥と思っていないのもあって、直接聞かれた時に答えてもいた。
中には密かに獣人と友人関係である貴族もいたかもしれないが、しかし大っぴらに言っていいものではない、と周囲の空気からそう思わせるだけのものがあったがために。
フェイリスはほんの少しだけ、浮いていたのである。
身分差など気にせず誰にでも優しい、と表向き言われていたが、しかしその裏であんな汚らわしい獣人を友とするなんて……と言われていたのも事実であった。
それさえなければ、フェイリスは淑女としてほぼ完璧であったと言えただろう。
ルルアンナが自らの立場を悪くしないように立ち回っていたのが思った以上に上手くいっていたのは、フェイリスのそういった裏での噂が足を引っ張っていたからかもしれない。
事実無根ではあるけれど、獣人を友として婚約者を蔑ろにしていたのではないか? などという噂も流れていたので。
フェイリスに非がなくとも、それでもあんな事があった以上、今までのように接するのは周囲の貴族たちからすると難しいものがあった。今までは感じる事なんてなかったが、ほんのりと壁があるように思えてきたのだ。
そういったものが積み重なって。
そして新しい婚約者が決まるでもなかったがために。
フェイリスは精神的にお疲れであった。
なので学院が長期休みに入った時に遊びにやってきた友人に、ついぽろりと愚痴をこぼしてしまったのだ。
フェイリスの友人は、ふわふわの白い髪に金色の目をした小柄な少年である。
だがしかし彼は獣人であるがゆえに。
その頭には人間の耳とは違うそれと、またくるりと渦巻くような形の角が生えていた。
人と異なる点は他にもある。
人間の瞳孔は丸いけれど、少年の瞳孔は横に三日月のような形をしていた。
人と似ていながら明らかに異なる部分。
そういった差異もまた、獣人が人として認められないと言われるのかもしれなかった。
少年の名はバルド。いかつい名前に似合わずおっとりのんびりした羊の獣人であった。
バルドはフェイリスが学院に通うようになったら今までのように会えないと聞いていたから、長期休みになるまではあまり人の多いところに出ないようにして仕事をしてくると言っていた。
そうして、長期休みに入ったなら遊びに来るねとも。
実際フェイリスが入学してから一年目、二年目と同じように長期休みになった時にバルドはひょっこりとフェイリスが暇をしてそうなタイミングを見計らって遊びに来ていた。
三年目である今回も、そうなるはずだった。
けれどもその少し前にあの婚約破棄事件だ。
しかもアーノルドとルルアンナは結局婚約して、学院を卒業後結婚することが決まったとの話も聞いている。
結局あの二人は、あれだけの事をしておきながら最終的に貴族の身分を剥奪されるでもなければ、愛する者同士での結婚が認められたのだ。
アーノルドは爵位が下がったが、ルルアンナからすれば爵位など飾りにも等しい。実家からの支援もあるという話だし、生活が困窮することもないのだろう。
もし、生活が困窮すれば精神的な余裕を失ってお互いがお互いを罵るような事になったかもしれない。お金で愛は買えなくとも、しかしお金がないと愛は育たないのだ。綺麗なドレスや宝石がなくたって平気、なんて言っていたとしても、食料をマトモに入手できないくらいに困窮すれば間違いなく愛は枯れていく。
けれどもそういった生活になる事はない、となれば。
間違いなくあの二人はこれから先も幸せに暮らしていくに違いないのだ。
最初、あの二人には他にマトモな結婚相手など見つかるはずがない、と父に言われて、そうよね、それじゃあ仕方ないのかもしれないわ、なんて思っていたけれど。
結局あの二人が幸せに生活できていくであろう事を知れば、泥をかぶったのはフェイリス一人だ。
せめて人の少ない所で婚約解消の話を持ちかけてくれれば良かったのに。
不貞をしておいて、そのくせ向こうは幸せになれる。対するこちらは大勢の前で婚約破棄を突きつけられた事もあって、未だに「あぁ、あの」といった反応をされる事だってあるのだ。
それが全ての原因とは言わないが、そのせいもあって次の婚約者が中々決まらない。
大体いい相手というのは既に他に相手が決まってしまっている。丁度いい年齢の、家柄も申し分のない相手など都合よく見つかるはずがないのだ。
考えれば考える程、フェイリス一人だけが貧乏くじを引いたような気分だった。
「ごめんなさいねバルド、折角遊びにきてくれたのに、こんなつまらない話をしてしまって」
「うぅん全然。知らないうちに大変な事になってたんだねフェイリス。ね、フェイリス、こんなことを言うのはなんだけど、国内でマトモな婚約者が見つからないなら他の国に目を向けてみたらどうかな?」
「他の国、ですか……そうですね、もうそれしか方法がないのかもしれません。けど、他国にそう交流があるような相手は……」
「ね、フェイリス、少しだけ待っててくれる? そしたら、きっと素敵な出会いがあるはずだから」
「え? えぇ、待つもなにもどうせすぐに相手が決まるわけではないので……」
「うん。果報は寝て待てだよ。きっとこれからフェイリスにとって良いようになるから。信じて待ってて」
遊びに来てくれた友人のためにと用意した菓子の半分ほどが残ってしまったが、バルドは用事を思い出したからもう行くね! なんて言って立ち去ってしまった。
「いっそ……相手が貴方なら良かったのにね」
見た目が幼く見えようとも、バルドはフェイリスより年上なのだと言っていた。正確な年齢は聞いていないけれど、そう離れていないようにも思える。
アーノルドと違って、少なくともバルドは自分の事を蔑ろにするような真似はしないし、獣人だろうとなんだろうとフェイリスにとっては些細な問題でしかなかったのだ。
ただ、貴族令嬢が獣人を伴侶にするとなれば社交界は荒れるだろうし、それをわかっていながらフェイリスは貴族令嬢でいる事をやめるだけの覚悟もなかった。
貴族でなくなった自分が、平民と同じように生活できるか、となると想像しただけでも難しかったのだ。
いっそ開き直って堂々と獣人を伴侶にするだけの覚悟もなければ、貴族をやめるだけの度胸もない。
淑女として素晴らしいだなんていくら言われたところで、こんな中途半端な気持ちの自分をフェイリスはとてもじゃないが誇らしくなんて思えなかったし、自分を置いて幸せになろうとしているあの二人の事も祝福なんてとてもじゃないができそうになくて。
うじうじとした気持ちばかりが積もっていく今の自分を、フェイリスは一等嫌っていた。
早く立ち直って、ちゃんとしなきゃ。
そう思っても中々気持ちは切り替えられなかったのである。
長期休みの間にせめてもうちょっとだけ、心が強くなれたなら。
休みが終わった後の学院でまた頑張らなくては。
だからせめて、休みの間だけはもう少しだけ。
少しの間だけ、泣くのを許して欲しかった。
泣いて泣いて泣いてすっきりできればよかったのだけれど。
生憎とそこまですっきりした気持ちにはなれないまま長期休みが終わり、再び学院生活が始まろうとしていた。
きっと、長期休みの間にアーノルドとルルアンナはもう邪魔者はいないのだし、堂々とデートだなんだと盛り上がったに違いない。
考えないようにしようとしても、学院に通うようになれば嫌でも二人の姿を見る事になるのだろうなと思うだけで陰鬱な気分になってくる。
折角休みの間中引きこもって思い切り泣いて吹っ切ろうと思っていたのに。
けれども表面上は何事もなかったかのように振舞うつもりでフェイリスは教室へと向かって。
そこで、知ったのだ。
二人が死んでいた事を。
しかもルルアンナはアーノルドによって殺されたらしく、ティエンシオ公爵家はルルアンナの両親に当然のごとく恨まれ、恐らくは男爵家が雇っただろう暗殺者によってアーノルドもその両親も、家族も屋敷の人間は皆殺されていたらしい。
とんでもない大ニュースである。
下手に外に出て知り合いに会うのも気まずいし、部屋に引きこもってひたすらめそめそしている間に、そんなとんでもない事件が起きていようとは。
アーノルドが何故ルルアンナを殺したのか、というのは、どうやらルルアンナが心変わりをしたかららしい。
そうしてカッとなって凶行に及んだのだとか。
これがアーノルドかルルアンナの自宅だとかであればまだしも、往来の場だったので目撃者が多数いたらしく、そこは間違いないらしい。
ルルアンナが心変わりをした相手はどうやら旅の吟遊詩人だったらしく、開けた場所で竪琴を奏で歌う姿に一目惚れをしたのだとか。
そうして、頬を上気させてあの人と結婚したい、などと呟いたそうだ。
それを聞いたアーノルドは最初冗談だと思ったようだが、しかしルルアンナは本気だったらしく、今すぐ家に帰ってお父様に頼まなくちゃ、なんて言い出した事で。
冗談どころか本気であると知ったアーノルドがどういう事だと詰め寄ったのだ。
突然始まった修羅場に周囲の目は釘付けだったし、目撃者の中には学院の生徒もいた。
引き裂かれつつあった真実の愛のお相手が晴れて堂々と外でもデートができるようになったのだな、と思っていたというのに、ルルアンナがアーノルドを捨てようとしている場面を目撃する形となったのだ。そりゃあ噂は爆速で広まろうというものである。
吟遊詩人というのは高確率で楽器や歌のスキルは勿論だが、見た目も割と整っている者が多い。すべてがそうというわけではないが、中にはその美貌と演奏の技術をどこぞの貴族に買われやしないだろうかとパトロンを探している者もいるし、王宮での仕事にあわよくばありつけないかと狙う者もいるらしい。
その吟遊詩人がどうだったかは知らないが、己の見た目にきゃあきゃあ言われる事は慣れていたのだろう。
少し離れた場所で起きた修羅場はいつもの事と見なして、適当なところで演奏を切り上げて彼はさっさと立ち去ったのだ。ルルアンナに目を向ける事など当然なかった。
ルルアンナが見初めた相手がいなくなった事にも気づかずアーノルドとルルアンナは言い合っていたが、結局のところアーノルドがいなくたってルルアンナはそれこそ父に頼んで金を積んでもらえば、身持ちの悪い貴族からの求婚避けの男性を用意するのなんて簡単だし、何だったら他の国に行く事だって考えていた。
父はずっと以前からルルアンナには好きな人と結婚すればいいと言っていたのもあって、だからこそ、ルルアンナは悪びれる事もなく一目惚れをした吟遊詩人を婿にしようと考えたのだ。
確かにアーノルドの事は嫌いではなかったけれど。
しかし、本当の意味で好きだったのか? と聞かれるとルルアンナはきっとそうではなかったのだと自覚したのだ。
アーノルドがルルアンナに情熱的に告白しアプローチを重ねてきたから絆されたのもあって、彼を好きだという気持ちが芽生えたけれど。
しかし婚約者がいる状態でそれをしてきたのも、婚約者がいたからこそ大っぴらに二人でいちゃつくことができなかったのも、ましてや婚約を解消に持ち込む以前に大勢の前で婚約破棄を突きつけたのも。
ルルアンナにとってはマイナス面でしかなかった。
せめて、婚約を解消してから告白なりしてくれれば。
そうしたら最初から人目を忍ぶような事なんてしなくて済んだ。
大勢の前であんな事をしたせいで、無駄に大きな事になったから、アーノルドは後継ぎから外されて子爵になる事が決まってしまった。
ルルアンナの事を愛しているのは事実だろうけれど、しかしその方向性がルルアンナにとって全てを受け入れるには難しくて。
そんな所に、自分の好みを具現化させたような男性が現れたのだ。
旅をしているというのであれば、各地で人間関係に軋轢を生じさせるような事はそれこそ最初の慣れないうちくらいなものだろう。旅慣れた様子の彼は、きっと立ち回り方を間違えたりもしないに違いない。
いえ、そんな事はどうでもよくて。
彼の見た目も彼の声も、彼が奏でる竪琴の音も。
何もかもが、愛おしくて仕方がなかったのに。
アーノルドが喚き散らした事で彼はさっさと演奏を終えて立ち去ってしまった。追いかけたいと思っても、アーノルドが邪魔をする。
私の事を好きって言ってたくせに、どうして私の邪魔をするの?
そんな風に言ってしまって。
ますますアーノルドは怒って。
いやだわ怒りっぽい人って。やっぱりああいう大人な雰囲気の人が素敵よね。なんてつい口から出たに過ぎない。
結果としてアーノルドはルルアンナの首に手をかけて、ぐっと一切の加減なく圧迫してきたのだ。
苦しい、と思ったのは一瞬だった。その手を外そうと自分の手をどうにかそこへ動かそうとしたけれど、そうなる前にルルアンナの意識は薄れていった。そうしてルルアンナの命の灯は呆気なく消えたのである。
目撃者たちが止める間もなかった。
ルルアンナの持ち上がりかけていた腕が力なく下がった事で、そこでようやくマズイと思った者たちがアーノルドを引き剥がしたけれど、その頃にはもうルルアンナは息をしていなかった。
大勢の前での殺人。
警邏がすっ飛んできて、アーノルドは罪人として捕らえられた。
とはいえ、今はまだ公爵家の人間であるために、長い期間牢に入れられているのも公爵家にとって醜聞であるがゆえに。
しぶしぶアーノルドの父が保釈金を支払って屋敷に連れ戻したのだ。
可愛い一人娘が死んだという報せを聞いた男爵がすっ飛んできたのも丁度それくらいの時だった。
なぜ殺したという言葉に、アーノルドが一部始終を話す。
夫になる相手の目の前で堂々と不貞をしようとしていた、なんて言ったけれど。
男爵がそれで納得するはずもなく。
ふざけるなと激昂したものの、公爵家の屋敷という相手のホームで男爵が何をできるはずもなく。
覚えていろ! と言い捨てて立ち去った後、どうやら男爵は持てる伝手の限りを使って暗殺者を雇ったのだとか。
公爵家の屋敷で働く者たちまで皆殺しにされたのは、その直後だ。圧倒的行動力。
けれども、その後男爵家も屋敷に火をつけられたらしく、男爵とその妻、そして屋敷で働く者たちのほとんどが焼け死んだのだとか。
噂も含まれていて全てが真実ではないだろうけれど、それでも話を聞いた者や目撃した者たちの証言から、恐らくこうではないのか、という風に推測された話がこれだ。
男爵家が燃えたのは、男爵家が行動に移る前に公爵家が何かを仕掛けたからか、はたまた雇った暗殺者が男爵家を殺せば財産のほとんどを奪えると考えたからなのか、正直そこら辺はわかっていない。
ただ、こんな短期間で公爵家の人間を皆殺しにしたのだ。大勢を雇ったのか、相当の腕利きを少数雇ったのか……どちらにしても莫大な財を持つ相手を侮ってはいけなかった。
前代未聞といってもいいくらいのニュースである。
だがフェイリスは引きこもっていたのでさっぱりだった。
使用人とか両親とか、絶対知っていたであろうはずだが、あえて気を使って教えなかったのだろう。
いや、教えてもらえなかったからここでこんなにも驚く形になってしまったのですが!? と言いたい気持ちもあるのだが。
もしかしてご存じなかったのですか? とギリギリで友人と言えなくもない令嬢から言われて、フェイリスは「お恥ずかしい話なのですが」と前置いて長期休みの間ずっと部屋に引きこもっていた事を正直に打ち明けた。
あんなことになったとはいえ、それでも婚約者を慕っていなかったわけではないのです、なんて殊勝な態度で言えば、今まで散々真実の愛を応援していた周囲もちょっとだけ同情めいた雰囲気になっていた。
ですから、気持ちの整理をつけるためにも、と部屋の中でそりゃあもうたくさん泣いて過ごしていたので外で何が起きていたのかをこれっぽっちも知らなくて……なんて言えば。
既にアーノルドもルルアンナも死んでいるので。
死者を悪しざまに言うのはどうかと思われるが、しかし話題にしたい者はまだまだいる。だからこそ、フェイリスのそんな言葉に、周囲は様々な言葉をかけた。主に同情成分多めだが、フェイリスがアーノルドの事を婚約者としてきちんと慕っていた、という事に驚いていた者もいた。
幼い頃から婚約してそうして歩み寄って、二人で築いてきた関係は確かにあったというのに周囲は一体なんだと思っていたのだろう。
そうでなくともそのちょろさはどうにかならないのだろうか、とも思った。
その周囲の雰囲気にころっと流された事で、あの婚約破棄の一件から親族にしこたま叱られた者だってそれなりにいるだろうに。
今更のように、真実の愛なんて言ってたけどでもあれ不貞だったよなぁ、とかさも自分はまともな常識を持ち合わせていますよ、と言わんばかりに言われてもフェイリスからすれば本当に「何を今更」としか言えないので口を噤むしかない。
今までは真実の愛で結ばれた相手の間に空気も読まずに存在し続けた邪魔な存在みたいな扱いだったくせに、その真実の愛で結ばれたはずの二人が死んだとなれば、婚約破棄をされた哀れで惨めな令嬢、というようなどこか壁を感じるような扱いすらなくなって、今では不貞していた婚約者をそれでも健気に愛していた令嬢、という空気すら流れていた。身勝手という言葉で終わらせるにはフェイリスの気持ちが追い付かない。
(反吐が出る、とはこういう時に使う言葉だったかしら……)
とさえ思った程だ。
きっと、学院を卒業した後、彼ら・彼女らと付き合う事はないだろう。たとえどのような立場になっていたとしても、フェイリス自身が関わりたくないと思ってしまったので。
もっとも、関わりたくなくたって関わるしかない状況は存在する。
それを思うと憂鬱ではあった。
ところが更に事態は変わっていく。
フェイリスの評価が少なくともアーノルドとルルアンナが真実の愛で結ばれただとか言われる以前、まだアーノルドと仲睦まじい婚約者として見られていた頃のような空気すら流れつつある頃。
学院を卒業するまであと少し、となったところで。
他国から見聞を広めに、なんて名目でやって来た貴族にフェイリスは求婚されたのである。
この時点になってもまだマトモな婚約者など見つからなかったフェイリスにとって、他国の貴族に見初められるなんて考えた事もなかった。しかもこの国よりもずっと大きな――帝国の貴族である。
家格としては離れているわけではないけれど、それでもまさか、といった思いがあった。
家格が同等であってもしかし実際に権力的な意味ではあちらの方が上である。王位継承権も下から数えた方が早いかもしれないが持っているのだ。そういった相手なら、とっくに結婚相手が決まっていたって何もおかしくはないはずなのに。
そんな疑問が思わず顔に出てしまったのか、フェイリスに結婚を申し込んだ令息はここだけの話ですが、と声を潜めた。
「貴方の友人に紹介されたのです。二人はとてもお似合いになれると思うから、と。
その言葉を信じるつもりはなかったのですが、お恥ずかしながら一目見た瞬間貴方こそが自分の求めていた存在なのだ、と思ってしまいまして」
どこか照れ臭そうに言う令息に、友人? と聞き返せば彼は自分の友人でもあるのですが、とその友人の特徴を口にしていく。
バルドだ。
どう聞いてもバルドだった。
きっと、あの時フェイリスの愚痴を聞いて、そうして彼は恐らく彼の知る友人の中でお似合いだと思った相手を思い浮かべたのかもしれない。
そうして、用事を思い出したなんていって即行動に移ったのだろう。
この国から帝国までの距離を移動するとなると、決して楽な話でもないはずなのに。
「あの、彼は、元気でしたか?」
「えぇ、いっぱい歩いたら疲れたと言っていましたが、それでも元気なものですよ。それから、こちらを預かっています」
そう言って差し出したのは貴族が使うような物とは異なる、平民の間で出回っているタイプの封筒だった。
今読んでも? と聞けば令息は勿論と頷く。
はやる気持ちを抑えて封を切って中の手紙を取り出せば。
中身は最初から最後までフェイリスの幸せを祈るものだった。
本当は自分が幸せにできれば良かったのだけれど、という少しの懺悔。人と獣人は似ているけれど、しかし根本的な部分が異なるらしい。そんな事フェイリスは知らなかった。
けれども、動物の耳や尻尾、ツノといったものがくっついているのだから、似て非なるものであるのは間違いない。
獣人同士なら子供もできるけれど、人と獣人だと滅多に子もできないらしい。
犬同士なら種類が違っても子が生まれる事はあるけれど、犬と猫で子どもが生まれるケースはほとんどないのと同じようなもの、と書かれていて、フェイリスは心のどこかで納得してしまった。
別に、バルドとなら子ができなくたって幸せに暮らしていけるかもしれない。けれど、バルドはそれを望んでいなかった。フェイリスには貴族令嬢として生きていくしか道はないと彼もわかっていたのだろう。
だからこそ、そうして生きてその上で幸せになれそうな相手を紹介した。
会う機会は少なくなるだろうけれど、それでもずっとフェイリスの幸せを願っているし祈っている、なんて言葉で締めくくられて。
そんな彼が紹介してきた令息と、フェイリスは添い遂げる事を決めたのだ。
帝国へ嫁ぐことが決まった事で、学院で関わりのあった者たちとの関係もほぼなくなるだろう。
そう考えると、幸せを願っている、なんて言っているバルドこそがフェイリスに幸せを運んでくれたようなものだ。
令息の為人はまだそこまでわかっていなかったけれど、それでもバルドが紹介してきた相手なら。
フェイリスにとって一番の親友ともいえる相手が勧めてきた相手だ。
それだけで、信用に足るものだったのである。
実際学院を卒業してすぐに嫁いだ先で、フェイリスは慣れない生活に戸惑う事はあっても夫になった相手とその家族からも大切にされて、終生を幸せに過ごしたのである。
その間にバルドと出会う事はほとんどなくなってしまったけれど。
それでも。
彼女の幸せは確かに心優しい穏やかな友人がくれたものだった。
――ところでこの世界の獣人は実はとっくの昔に滅んでいる。
魔王軍が侵攻を開始した時点で早々に滅ぼされている。
では、バルドを始めとする世界各地にみられるようになった獣人の存在はなんなのか、と問われると。
彼らは魔王軍の敗残兵であった。
勇者と直接戦う事を免れたものの、魔王が倒され行き場を失った者たちであった。どうにか方々に逃げて散って、隠れ住んでいたのだけれどそれだって限度がある。
だからこそ、彼らはまず自らの容姿を偽った。
いかにも魔族ですという見た目を変えて、人とそう変わらず、しかし人と明らかに異なる見た目を選んだ。
いくら負けたとはいえ、魔族としてのプライドから人そのものの姿になって人の中に紛れて暮らすのだけはごめんだったのである。だからこそ、人と似ていても異なる見た目を選んだ。
それに、獣人が滅んだという事実を人間たちは知らない。
獣人たちは魔王軍が侵攻を開始する前も、それよりももっとずっと昔から人里を避けるようにして暮らしていたので。
一応そういう種族がいる、というくらいには知っていたかもしれないが、しかし獣人たちがどこで生活をしていたかを知る人間はほぼいなかった。
それ故に、偽装しやすいというのもあった。
獣人として、人から見下される立場になるのは少々腹が立つ事もあったけれど。
だがしかし、彼らの目的からして、そうして軽んじてもらった方が都合が良かったのだ。
見下す程度で、率先して捕えて奴隷として使おうと思われていたのであれば話は違ったかもしれないが、まだ人間の多くはそこまでは考えていなかった。
一応見た目も人の暮らしの中で馴染みのある動物を選んだ者が多いので、獣人かと見下す気持ちと同時に、慣れ親しんだ動物であるという気持ちで差別をするにしても若干そこら辺で緩和されていたのだとバルドたちは思っている。
獣人の姿については変身魔法なので、本来の姿とは大きく異なる。
本来の姿に近いものだと、何かの拍子に術が解けた時に困る事になるだろうから、魔族のほとんどが獣人に変身する際、小柄で、比較的愛玩動物に近しい見た目を選択していた。
バルドもそうだ。
本来のバルドは、人よりもわずかに大きな体で、ちょっと腕を振れば簡単に人が作った家くらい壊せる程度の力がある。というかバルドは魔王軍の中でも比較的上の立場にいたので、実力だって相応にあるのだ。
ただ彼は、勇者と戦うようなところに配置されず別の場所で人間の兵士たちを相手にしていたので活躍の場がなかっただけで。
本来の姿で羊の獣人として振舞っていた時のような態度をとれば、間違いなく人間たちは「うわキモ」と言ったに違いない。それくらい見た目が異なっている。
何故魔族が獣人に扮しているか。
それは、種の存続のためだ。
魔王が倒されて、世界の脅威は消え去った。魔族が残っている時点で完全に脅威が消えたわけではないが、しかし再び魔王が復活するような事になれば、それと同じくして勇者も現れる。
勇者が現れる仕組みはそこまで詳しくないが、確か神が勇者を選出するのだ。神の力を与えて、魔法という力を行使できるだけの存在。
そこらの人では到底敵わない力を与えられた、人類に神からもたらされた最終兵器。
魔王が倒された時点で神の力は消えて、勇者はただの人間へ戻る。
だが、またもや魔王が復活すれば、新たな勇者が選ばれる。
そうなればまたあの理不尽なまでの力で魔族たちが倒されるのだ。
魔王が現れる条件を魔族たちは知っている。
魔王というのは人間にとっての勇者のようなものだ。
かつて魔王が現れた時、魔の者は不吉であるというだけで無意味に殺されることが多かった。勿論無抵抗で殺されたりはしなかったけれど、力を持っていたとしても数の暴力でどうにもならない事はいくらでもあった。数だけで見れば人間たちの方が圧倒的に多いのである。
そうして、魔族の数が一定数減らされた事で魔族の危機だとなったからか、魔王は現れたのだ。
そう考えると、勇者が現れる仕組みも魔王とそう変わらないのかもしれない。
魔王が現れ人類を滅亡させようと減らした事で、人類の危機だと勇者が神によって選出されるのであれば。
あえて実証した事がないので正確な事は言えないが、もしそうであると仮定して。
では、人間をむやみに殺さなければ何も問題はないのではないか。
魔族もまた、人間たちに迫害され意味もなく殺されたりしなければ、魔王だって現れないのではないか。
そういう仮説を組み立てた事で、今生き残っている魔族たちは新たな道を模索しはじめたのである。
魔王は圧倒的な力を持っているけれど、しかしその目的は人類の滅亡である。
そして勇者はその滅亡を防ぐために現れる。
逆に言うのなら、魔王がいなければ勇者は現れない。
勇者が現れると魔王だけならともかく他の魔族たちも戦いに駆り出されるし、人間たちも勇者がいない場所での魔族たちと戦わなければならないので戦火は広がる一方なのだ。
だからこそ、生き残り、方々に散る前に魔族たちは一つの検証をすることにしたのだ。
それが、姿を偽り他の種族として人の社会に紛れ込む事だ。
獣人として振舞い、結果多少見下される程度で済んではいるが今のところはまだ迫害を受けるほどまではいっていない。
それに見た目のほとんどを愛らしい姿にしてあるのもあって、露骨な暴力をふるおうとする者たちは第三者の目から見れば、あんな可愛らしいまだ小さな子供みたいな子を虐めるなんて……と同じ同胞である人間からひそひそされるので。
人目につくような場所で、あからさまに獣人たちを痛い目に遭わせてやろうなんていう人間はほぼいなかった。
これが魔族としての姿であったなら、何もしていなかったとしても人間たちはそのまま殺してしまえと声高に叫んだ事だろう。
種族存続の危機までいかないために、現状魔王が現れる兆しは一切ない。
人間たちとそうまでして共存する理由はただ魔王を出現させないため、というわけではない。
光と闇は表裏一体。
勇者がいて魔王がいる。
人がいて魔族がいる。
だが少しだけ違うのは、魔族は神としての側面を持ち得ているという事だった。
かつて、神として存在していた者たち、それらが魔に堕ちたのが魔族の始祖ともされている。
恐らくそれは事実なのだろう。神としての力があるが故に、魔王はただの人間では対処できない。故に神は勇者に力を与えるのだ。
単なる強大な力を持った種族が人間たちに敵意を持った程度では、そもそも勇者は現れない。
そう、まだ本来の獣人たちが人類と戦っていた時代、神は獣人を滅ぼせと言わんばかりに勇者を派遣――なんて事は一度だってなかった。
魔王が現れた時だけ、神は力を貸すのだ。
もしかしたら他にも何か、魔族たちが把握していない細かな条件があるのかもしれないが、長い年月をかけて調べたり体験した事から話し合った結果、これらの推測は概ね正解しているのではないか、という風に結論付けられている。
そして、神の力の一端を持ち得ているであろう魔族たちは。
神と名乗るには烏滸がましいが、それでも。
信仰を、力に変える事が可能であった。
魔族として振舞っていた頃、圧倒的な力にひれ伏す者もいた。そういった畏怖が彼らの力になっていたのも確かだ。恐怖という感情は引きだすだけなら手っ取り早い。故に魔族たちは力を得るのであれば人間たちを恐怖のどん底に叩き落すという手段を利用していた。
だが、それはやりすぎると人間たちも無抵抗なままでいられるか、とばかりに反旗を翻す事になるし、そうしてお互いが戦って数が減ってくれば魔王と勇者の登場である。
それは今の魔族たちにとって望むものではない。
力を得るために、人間たちを恐怖のどん底に落とす方法はそれ故に封印された。
ではどうするか。
獣人として振舞って、その見た目の愛らしさを活かし人々へちょっとした手助けをしていく事で、迫害までいかない程度に安全を確保しつつ、獣人という種族に対する人間たちの印象を良くすると、実際の獣人はいないので獣人たちへ向けられる感情というのは実際魔族たちへの感情となる。それを人間たちが知らなかろうとも。
見た目が小柄であっても、元は魔族だ。力は人間の倍以上ある。
故に、見た目が小さなお子様が重たい荷物を人間たちにまじってうんせうんせと運んでいる姿は周囲から見ると癒されたりするらしいし、力のない人間よりもよく働く事で感謝もされる。
まぁ根底にでも獣人風情が、みたいな感情があるのも否定できないのだが。
だが、露骨に獣人だからと差別してくる人間は、確かにいるがそう多くもない。
一部を除いて現在の獣人たちは、人の暮らしに欠かせない相手となりつつあるのだ。
そうして向けられる感情が魔族の新たな力となっている。
本来ならば嫌悪し、そして排除しようとしている種族に対してそうと知らず人々は徐々に好意的な感情を向けるようになっているのだ。
人知れず力をつけて、これから少しずつ魔族の数が増えていったとしても。
それだけで勇者が現れる事はない。あくまでも人類が滅亡するかもしれない危機的な状況、魔王が現れた場合にのみ勇者はやってくる。
人類が魔族と敵対していなければ、勇者が現れたとしても倒すべき敵の姿などどこにもいないとなるわけで。
もし仮に神が勇者に今いる獣人を滅ぼせというような託宣を出したとして。
魔族としての真の姿が露呈しない限り、勇者は獣人を殺して回るだけの狂人となり果てる。
場所によっては既に人間と獣人が共存しているところもあるが、もしそんな所で獣人を殺せば。
生活の助けになっていた人間たちからすると勇者は自分たちの生活をぶち壊しに来た魔王みたいなものである。
そうなれば。
伝承にある勇者はあくまでも人類の危機に魔王と戦うための存在だと思っている普通の人間たちからすれば。
神は狂ってしまったのだと思うかもしれない。
平和をぶち壊しにきた神とその手先である勇者を良くは思わないだろう。
人からの信仰は絶え、神が力を失う可能性も出てくる。
万一そうなれば魔族たちからすれば旨い話だ。犠牲は出るかもしれないが、それでも勇者と神が人類の敵とみなされる可能性も高まる。世界の危機を救ってくれる、くらいでしか力を使わなかった神は、そうなれば名誉を挽回する機会も少なく、一度失った信仰を取り戻すのは難しい。
ましてや獣人を殺していけば、いずれは人間たちこそが獣人を守れと言いだして立ち上がり、勇者を敵とみなすだろう。
勇者はあくまでも人類を救うための存在であり、救うための人間たちを殺すような事をすれば更に力は衰える。
そうすれば魔族たちは労を要する事もなく、一番厄介な敵を排除できるのだ。
獣人が邪悪な存在だ、といくら言われたところで現在は家畜人みたいな認識であっても人の生活に密接して助け合っているのもまた事実。
そして、いずれも愛らしい見た目をしている者が一方的に虐げられていく様は、一部の人間からすれば悲惨な光景として映るだろう。
そうなれば今まで意識・無意識に関わらず内心で見下していた存在を、保護しようと動くだろう。
自分に関係のない生き物ならともかく、人間たちから見れば今の獣人たちは労動力でもあるのだ。それが減れば、自分たちに面倒な仕事が回ってくるかもしれない。楽を覚えた人間はそうなれば、貴重な労働力をあえて減らそうなど考えない。
獣人たちを保護しろという流れになれば、後はもっと簡単になる。
次は獣人たちの立場を向上させろだとか言い出す活動家が出てくるだろうし、そうしてある程度の社会的地位を得ても人間たちと友好的な関係を維持し続けていれば。
人と獣人は手を取り合って共存できる、なんていう風になれば。
もう人類は獣人を排除しようなどとは思わず、獣人は人にとっての良き隣人として次代を教育していくだろう。先の長い話ではあるけれど、それは人間から見ればの話で魔族からすればそう気の長い話でもない。
そして、もしそうなったなら。
獣人に扮した魔族たちはちょっと人間たちの手伝いをするだけで感謝され、その好意的な感情は信仰に近いものとして変換されて自らの力となる。じわじわと力を溜める事ができる。
更に人間たちはその事実に気付くことのないままに、魔族たちへ力を与える存在となる。
一時的な恐怖によって得られるものよりも、長期的に得られるのでこちらの方が効率が良い。
そうやってじわじわ囲っていけば、いつか。
勇者が選ばれるより先に人類を根絶やしにすることも可能になる。
といっても、今はまだ滅ぼす必要がないので当分はこのままだが。
バルドは魔族の中でもそこそこの実力者である。
適当に自分を差別しないで普通に接してくれる相手とちまちまと交流を重ねていたし、フェイリスもその中の一人だ。
彼女の身の回りの事情を聞かされて、バルドはまずアーノルドとルルアンナを調べてみた。
あんな失態をやらかした二人は、もう他にロクな結婚相手がいないだろうと噂されていたし、まぁそれは事実でもあったのだけれど。
実のところアーノルドの狙いはそこだった。
そうすれば、ルルアンナはもう自分と結婚するしかないと思い込んでいた。
もっと普通に穏便に婚約を解消したってルルアンナと結婚できる可能性はあったけれど、それでも他の男に目移りする可能性を考えたなら、お互いどこにも行き場がないと思わせた方が確実だと思っていたようだ。
バルドは相手の心を読む能力を持っていたので、アーノルドのそんな浅はかな考えを見て思わず笑ってしまったほどだ。あぁ、それならやりやすいなとも。
いくら周囲が真実の愛だなんて言ったところで、実際そんなものは滅多に存在しない。神が遣わす勇者くらいの確率であるかもしれないが、つまりそれってほぼ無いも同然だと思っている。
真実の愛よりは無償の愛の方がまだ存在するとすら思っている。
そしてルルアンナの心を覗けば、アーノルドの事は素敵だけどでもあんな場所であんなことをするなんて……と若干彼に対してマイナスな感情が芽生えつつあった。
情熱的にルルアンナを愛していたアーノルドではあるけれど、ルルアンナはそれに絆されただけで本当の意味で彼を愛していたとは言い切れない部分が確かにあったのだ。
だからこそ、二人の仲を破滅させるのはとても簡単だった。
フェイリスから話を聞いて、バルドは自分の知り合いの中でよさそうな相手を見繕った。
彼もまたバルドを無二の親友と呼んでいたお人好しで、フェイリスの事をバルドがちょっとお勧めしたら簡単に興味を持った。自分は他の国に行くのにそう時間はかからないけれど、彼はそうではない。彼はあくまでも普通の人間なので、帝国からフェイリスのいる国に来るまで時間がかかる。
その間に、バルドはフェイリスの心が憂えている原因である二人を排除する事に決めたのだ。
もうフェイリスに関係ないとしても、その存在がちらつく以上は引きずり続けるだろうと判断して。
獣人に変身できるのだから、他の姿に変身も勿論できる。
ルルアンナの心を読んで、彼女の思う最高に素敵な男性像を読み取って、理想通りの姿になった上で彼女の目に留まるよう注意を引けば簡単だった。
路上で吟遊詩人としてちょっと囀っていれば、ルルアンナは一瞬で恋に落ちたのだから。
まぁその場で修羅場が起きてルルアンナが殺されるのは少し予想外だったけれど。
てっきりお互い二人きりになれるような建物の中で争うものだと思っていたので。
その後は、アーノルドとルルアンナの家の家長の精神にちょっと憎悪を増幅させる精神操作系の術を軽くかけるだけだった。
そうすればお互い勝手に相手を亡き者にしようとして、驚くほどの行動力でもってお互いを消そうとしていたのだから。
魔族として若干関与してはいるけれど、ほとんど人間同士の争いなのでこの程度で神が勇者を寄越したりはしないだろうと思っていたし、実際その通りだった。もしバルドが直接手を下していたならば危うかったかもしれないが。あまり派手にやりすぎて自分が次の魔王になりました、なんていうのはバルドも望んでいないしそんな洒落にならない展開はごめんだった。
その後のフェイリスの人生は、バルドが勧めた相手と結婚しアーノルドもルルアンナの事も思い出すような事がほとんどないまま幸せに暮らしていたし、彼女は死ぬまでバルドに対して好意的な感情を持っていたのは言うまでもない。そしてそれらはまんまとバルドの力となった。
人間というのは面白いもので、あからさまな敵がいないと勝手に同族同士で争い始めるので。
これからもバルドは人間たちの良き隣人のような顔をして、そんな彼らにちょっとだけ手を貸していくつもりだ。他の同胞だってそう。
そうしていつか。
この世界の覇権を握る。本来魔王がやろうとしていた事を、魔王無しで。
それは少なくとも、そう遠くない未来の話であった。
どちゃくそ前置きが長い話を書こうと思った。タイトルを時々見返さなかったら自分ですら話の筋を見失うところだった、などと供述しており(略)
次回短編予告
王子、婚約者、身分の低い令嬢、真実の愛。
ありがちな、テンプレの話。ただし恋愛ジャンルにしていいものかとても悩んでいる。