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第8話 潜む者

 柑奈がヴィクトルから依頼を受けた五日後の夜。

 メディアはマフィア殺しを「ピクシー」と名付けた。悪戯好きで神出鬼没。時に貧しい者に施しを与える神秘――イングランドの有名な伝承からだ。

 ピクシーによる被害者は連日のものとなり、今朝にはついに、二五人目となる惨殺体発見のニュースが流れた。

 殺害現場は北上を続け、最新は川崎駅近辺のビルの谷間。殺された男の顔は潰れ、頭部は背中に項垂れていたという。

 物騒な報せだが、日頃から強請りや強盗、誘拐などに脅かされている善良な市民は、にわかに活気づいていた。

 もちろん、街中ではそんな様子は見られない。あくまで陰で――ネット上で盛り上がり、彼らはピクシーのことを「掃除屋」や「切り裂きジャクリーン」、ついには「神の代行者」などと呼び称え、崇拝に近い状態になりつつあった。

 しかし、この街に暮らす全ての人が理解していた。心躍る正義の凶行が、そう長くは続かないことを。

 何せマフィアは警察や自治体を手懐けているだけでなく、政府や軍部にまで浸食しているのだ。そのような国の腐った街で、支配者たるマフィアに害をなせばどうなるかなど明白だった。

 それでも世間の予想を裏切り、ロストフファミリーの動きは鈍かった。対して、川崎を支配するフィリピン系ギャング「サングレ・イ・カデナス」の動きは早かった。

 殺された組織の人間が三人目となった翌日、幹部による緊急の会合が開かれると結論はすぐに出た。

 見つけ次第殺せ――。

 これまで殺害された人間は、殺す価値もない末端のチンピラもどき。加えて、現場の状況も殺しの手際の良さ以外はまるで雑だった。また、死体には無為に痛めつけられたり、死後弄ばれた形跡もなく、脅しのようなメッセージ性は見られなかった。

 それらが示すのは、工作員や雇われた殺し屋の仕業ではないということ。

 つまり、これは「殺し」に殺す以上の目的が無い馬鹿の蛮行であり、犯人はどこの誰でもない何者か――ならば、遠慮することなどない、と。

 そうしてサングレ・イ・カデナスは構成員に殺害命令を出し、さらに今日は息のかかった警察も夕方から巡回させていた。

 それだけ警戒していれば、誰であっても街中で隠密に殺人を犯すのは難しい――しかし、その少女にはむしろ僥倖だった。

 今夜の街には特別物々しい空気が漂っている。だが、こうして警察が目を光らせていることで、後ろ盾のない犯罪者は鳴りを潜めていた。

 だからその少女は、今日は厄介な人間に遭わずに済むだろう、こうして誰も来ない暗がりで静かにしていれば、すぐに朝が来るだろう――と、そう思っていた。

「お嬢ちゃん、生きてるか」

 上辺だけの優しい声。

 男の視線には、下衆な悪意が見え隠れしている。

「金が欲しいなら、いい仕事があるぜ」

 娼婦か人身売買か臓器を抜かれるか――身寄りのない子供を攫って金にする、そういった世界があることを、まだ十歳ほどという少女は十分に理解していた。

 男が少女に手を伸ばす。

 少女は長い黒髪をかき上げ、ゆっくりと顔を上げた。


 午前二時過ぎ。既に街は寝静まっている。

 空は厚い雲に蓋をされ、月明りさえないので今日の夜はいつもより闇が深い。

 その闇の中で、柑奈は川崎市の多摩川沿いにある、とあるマンションの屋上でその時を待っていた。

 柑奈の眼下――四階建てのマンションの南側五〇メートル先には、四〇メートル四方という広い敷地に建てられた三階建ての邸宅がある。

 かつては幼稚園で朝から昼にかけて活気に溢れていたが、現在はマフィアの根城となっている。つまり、今回のターゲットであるベサール・ターレの住処だ。

 幼稚園を改装した邸宅は敷地の北東にあり、その敷地は三メートルの高い塀に囲まれている。さらに塀の上には、カミソリが付けられたコイル状の鉄条網が設置されている。

 また、南西にも安アパートのような建物がある。ベサールは、そこに手懐けた街の不良共十人程度を住まわせ、邸宅の警備をさせていた。

 そして、現在は邸宅の玄関と南東にある門に、それぞれガラの悪い若い男二人がクロスボウを片手にやる気なさげに突っ立っている――という具合だ。

 ベサールは、別に命を狙われていることを知っていたわけではない。ただ単に警戒心が強いだけだった。

 その警戒心は徹底されており、柑奈に行動は筒抜けではあったが、どこであっても仕事をやるには面倒が多いことが予想された。

 そうした中で警戒が最も薄れるのが、この自身の家にいる時だった。

 ロストフファミリーが潜り込ませている(スパイ)によれば、ベサールがここに帰った際には、必ず二時を過ぎた頃に、三階にある書斎に籠るのだという。

 何をしているのかは不明。しかしその時だけは警戒を解き、常に周囲を警護させている手下も遠ざけるとのことだった。

 柑奈はその情報を確かめるために数日通い、同時に殺しの計画を練っていった。

 そして仕事の開始場所に選んだのが、このマンションの屋上だった。

 準備は既に整っている――。

 左手にはいつもの弓。右手にはワイヤーロープが付けられた特殊な矢――この矢は矢尻に衝撃が加わると、返しが開く仕組みになっている。これを向こうの屋上に撃ち込み、鉄柵に引っ掛けて屋上と屋上を結ぶ。それでアスレティックの定番、ジップラインの完成となる。

 誰に見つかることもなく侵入し、ベサールの息の根を止め、その後はまたワイヤーロープを辿って戻るだけだ。

 まるで怪盗ごっこだ――と柑奈は自嘲的に鼻を鳴らす。

「……」

 ベサールが帰宅してから三時間が経つ。しかし、廊下を覗ける窓には、未だベサールの姿を確認できていない。

 帰宅したのは間違いなく確認したし、鼠の情報も確かなものだった。

 取引の話をしているのか、それとも部下を叱責でもしているのか。クズの事情は分からないが、もし今日が例外となれば、また別の日に決行するだけ――とは言え、天候は常に気まぐれであり、こちらの都合に合わせてくれるわけではない。

 それに、現在の状況が続くとも限らない。オリガのような手練れを雇われたら面倒だし、殺せない事情が発生するかもしれないのだ。

 だから柑奈は、できれば今日この仕事を終わらせたかった。

 ハーネスやワイヤーロープのチェックをしながら待つこと三〇分――双眼鏡を覗いていると、明るい廊下にひとり苛立たちげに歩く男の姿があった。

 身長、体格、髪を確認――間違いなくベサール・ターレだ。

 柑奈はさらに十分ほど待った後、自宅で待機しているシュリに作戦決行のメッセージを送り、静かに行動を開始した。

 五〇メートル先の屋上に向けて弓を構える。風はない。状況にも変化はない――澱みない動作で弓を引き絞り、迷うことなく矢を放った。

 矢はほぼ一直線に屋上へと奔り、鉄柵の間を抜けて屋上のコンクリートの床に当たった。矢尻は音が出にくい合成樹脂でできているので、気付かれた心配はないだろう。

 次にワイヤーロープを手繰り寄せ、鉄柵に引っ掛かった手応えを確かめ、そしてマンション側の鉄柵にしっかりと結び付けた。

 それからワイヤーロープにセットした滑車にカラビナを取り付け、耐熱耐摩耗に優れたアラミド繊維のグローブを装着し、最後に弓を肩に掛ける――そして鉄柵を跨ぎ、柑奈は躊躇なく暗闇の空中に身を投げた。

 夜の冷たい空気が頬を強張らせる――傾斜は一〇度ほどだが、短距離の陸上選手以上の速度があった。

 鉄柵まであと二〇メートルというところで減速し始め、屋上の縁に両足をついて静かに勢いを殺す。素早く鉄柵を乗り越えてカラビナを外し、装備を整えながら歩き出した。

 屋上の出入り口へ行こうとすると、下方から男たちの下卑た笑い声が聞こえてきた。

 柑奈は念のため、周囲の状況を確認することにした。

 閉ざされた門には、クロスボウをストラップベルトで肩に担いだ男が四人。通常より多い。しかし、馬鹿に高揚した様子と、缶ビールや酒瓶を片手に持っている姿は事前調査と変わらない。

 邸宅の玄関を屋上から窺うには、柵から身を乗り出さなければいけない。しかし、聞こえてくる声から少なくとも三人いることが分かった。

 いつものように質の悪いドラッグと酒を一緒にやっているのだろう――と門の男たちを冷たく睨みつけ、今度は屋上の西へ移動した。

 邸宅の西側は暗く、警備の巡回はない。西側の高い塀の向こうはさらに暗い。そこには棄てられた墓地と寺がある。西が手薄となっているのは、そこから不届き者が侵入することはないだろうと考えているのかもしれない。

 実際、柑奈はそのルートを除外した。塀を越えることは難しくない。しかし、地上からの侵入は見つかるリスクが高く、最悪ターゲットに逃げられる可能性は無視できなかった。

 ともかく侵入は成功した。選択は正しかった。この様子では、まったく気付かれていないだろう。あとは書斎へ向かって片付けるだけだ。

 ドアを開け、暗い階段を音もなく下りる――三階の廊下に誰もいないことを確認し、目標へ向かう前に二階の様子を確認することにした。

 二階はホテルの廊下のように静か。しかし、さらに下の一階からは、重低音が胸に響くダンスミュージックが漏れ聞こえてくる。

 時折あがるイカれた歓声から、十人以上いるのが分かった。いつもより多いが、これも下見に来た時に確認できた光景だった。

 ターレファミリーの末端の人員は、街のゴミを集めて構成されている。そのためか、マフィアとしての組織犯罪だけでなく、普段から素行の悪い者が多い。

 いっそ一人残らず殺してやりたいが、残念ながら構っている余裕はない。

 三階に戻ると、柑奈は階段の横にあった廊下の明かりのスイッチをオフにした。さらに、すぐに点けられないようナイフで破壊する。

 そうすると、光源は階段の踊り場にある非常灯だけになった。

 もう一度だけ人の気配がないことを確認し、それからターゲットの元へと進んだ。

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