第7話 シリアルキラー
柑奈は屋敷を出た後、よく使う喫茶店でシュリと少し遅い昼食を取ることにした。
「今日は何食べるんですか?」
「サンドウィッチ」
適当な会話をしながら店に入り、自然な仕草で店内に視線を流す――。
時間帯を外したので、客はぽつぽつとしかいない。スーツを着た細身の男、お喋りをしている二十歳前後の女性が三人、そして母と幼い息子という三つのグループだけ。
(注意すべき奴はいない、か)
件の仕事から日が経つ。それでも警戒するに越したことはない。
いつもの席に座り注文を終えたところで、シュリが電話で席を立ったので、柑奈は一人しばらく物思いに耽った。
――この店もロストフファミリーの傘下にある。余程の馬鹿か無知でない限りは、店内で面倒を犯さない。つまり、こうして外でのんびり食事をできるのは、マフィアの庇護下にあってその恩恵を享受しているからだ。
あれから一週間、仮にマフィアを抜けた後、どう生きていこうかずっと考えていた。
森の隠れ家のような場所は他にもある。仕事で稼いだ金も年齢不相応に貯まっている。悪漢を叩きのめす力もある。殺し屋として、どこでだって一人で生きていくことはできるだろう。
問題は、自分がヴィクトルの養子であった過去は変わらないことだ。
この街を離れ、遠い地に移る案も初めに考えた。
しかし、いざロストフファミリーがどこかと抗争を始めれば、自分が何と言おうと巻き込まれる事態は避けられない。つまりは敵対組織が拉致しに来るのが先か、ロストフファミリーの者が保護しに来るのが先かだ。
そうでなくともだ。ロストフファミリーの力の及ばない地域では、目先の利益しか考えられないクズ共が蛆虫のように湧いてたかって来るのも、また想像に容易かった。
そんな奴らを蹴散らすのも容易いが、問題は膨らむばかりだろう。それに、罪のない人々に悲劇を感染させることだけは避けたかった。
そうして出た答えは『この街に留まる』だった。
(……やっぱり、どうしたって過去が付き纏う)
運ばれてきたサンドウィッチと紅茶を睨む自分のマヌケ姿に気付き、天井を仰いで長い息を吐く。
別に街を離れたいわけじゃない。どこにいようが、やることはきっと変わらない。ただ、何となくやるせなさがあるだけ――そんな気持ちを飲み込むように熱い紅茶をひと口飲んでから、やや乾き始めたサンドウィッチを食べ始めた。
そして食べ終わろうかという時、新たに客が一人やってきた。
見知った顔だ。こっちに来る――馬鹿なのか?
「よぉ! ここ、いいか?」
その一言は、魔法のように響き渡って店内の空気を凍り付かせた。
柑奈は知る人ぞ知るマフィアの御令嬢。気安く相席願う愚か者など、この街にはまずいない。
反応が恐ろしいことはもちろん、もし親しい仲だと知られれば、どこぞの犯罪組織に目を付けられる可能性だってある。だから、客たちはこう思った。
『やばい奴だ。覚えておこう』
全員が不穏なテーブルをちらりと窺い、すぐに目を逸らした。
悪目立ちしたジャージ女は気にも留めず、親しげに話し掛けてくる。
「偶然だなぁ。一週間ぶりか?」
まるで旧友に会ったかのような振る舞いに、柑奈は苛立ちの鋭い視線を浴びせて訝しむ。
新しく買ったらしい穴のないジャージにキャップ、背中には大きなバックパックという格好は変わっていない。以前と違うのは、左頬のガーゼだけだった。
そしてジャージ女が無遠慮に正面の椅子に座ったところで、店の空気を感じ取ったのかシュリが戻ってきた。
「どうした、モスカーリ。売りがしたいなら歓楽街にでも行きな」
既に察したらしいシュリは、ロシア人に対する蔑称で挑発した。
しかしジャージ女は意に介さず、近くから持ってきた椅子に座るシュリを観察する。
「……ああ、一人だけヤられ方が違うの、アレはあんたか。二人いたなら、なんでも運び出せただろうな」
「約束」
「ん?」
ぽかんとするジャージ女。まったく思い掛けない言葉だったらしい。
しばらく「ヤクソク、ヤクソク、ヤクソク……」と呟いて、ようやく思い出したのか、ぱっと顔を上げた。
「会わなかったことにするってやつか? 誰にも会わなかったって。あれはあんたがそうするって話だろ? で、あたしはブツの手掛かりは無しって報告する。もちろん、あんたのことは言ってない。けど、あんたに絡むなとは言ってなかったじゃん」
下らない屁理屈。腹立たしいが、今ここで声を荒げて目立ちたくはない。
一番近くにいた女性三人が席を立った。余計な話を聞いて巻き込まれたくないのだろう。
「――分かった。確かに言ってなかった。こっちのミスだ。だからどっか行って。もう話し掛けないで」
「なんだよ。仲良くしようぜ。歳も近いんだしさ。な、お嬢さま?」
ジャージ女が言い終わると同時に、三人が囲うテーブルの上を風が通り抜けた――シュリがナイフを振るった結果であった。
「殺すぞテメェ」
シュリが静かに凄み、ジャージ女のキャップのツバに深々と切れ目が入る。それでもジャージ女の態度は変わらない。
二人の様子を窺いつつ、柑奈はジャージ女の言葉を反芻する。
調べたのか――やはり偶然なんていうのは嘘で、ずっと自分を探していたのだ。
ロクな用ではないだろう。ただ、こうして昼間に来ているのだから、命のやり取りよりは平和的な理由だと思われた。
柑奈はため息をついてシュリを手で制す。
「目的は?」
ジャージ女がにやりと笑う。
「その前に自己紹介しよう。あたしはオリガ・ロトキナ。フリーの殺し屋だけど、まあなんでもやる。依頼があったらいつでも贔屓にしてくれ」
「竜胆柑奈。マフィアの娘。まともな人間は話し掛けない」
「だろうな」
オリガは店を出ていく女性三人を見ながら言った。
「それで?」
「ああ。情報を共有したいと思ってね。例えば――あれだ」
オリガが視線で誘導したのは、カウンターの後ろに掛けてあるモニター。
映っているのは、昼らしく華やかなニュース番組。今は、ここのところ連日発見されているマフィアの死体について報じている。
そうした殺傷事件はない日のほうが珍しいが、犯罪組織絡みの殺人としては趣が異なる。
示威行為としては死体がきれい過ぎるし、そうでなければ隠蔽されて見つかることはない。そもそも警察が握り潰したり、メディアが何かを察して報道しないこともある。
しかし、この短期間で報道されたクズの他殺体は既に一五人に上る。それらはどれもが裏路地や公園に雑に放置され、新鮮な状態で衆人の目に付くところとなっていた。
そうした理由で、現在は暫定的にこう呼ばれている。
「マフィア狙いのシリアルキラー」
「ああ。そのうち名前も付くだろうな。串刺し公みたいな」
「そのキャップ、固定してあげようか」
言いながら、フォークをオリガの頭部に向けた。
「冗談だって。そんなことよりマフィア殺しだ。何か知らないか?」
オリガの薄緑色の瞳が、柑奈をじっと見つめる。
「あたしはまだこっちには疎いんだ。あんたのことも知らなかったくらいだからな」
「知らない。……でも、この件でやられたマフィアが殺気立ってるのは知ってる」
「それはあたしも知ってる。無差別的で関係性が見えないけど、奴らが狙われてんのは確かだからな。次は誰だ、どこの仕業だ、次の動きがあるんじゃないかって騒がしくなってるな」
もっと言えば殺し方も様々だ。撲殺、刺殺、絞殺。全てが素手か、その場にあった物を使用して殺害しているらしい。
そして、語るべき情報として「犯人は少女ではないか?」という説がある。
何しろ、現場には最新技術による捜査など必要ないくらい、はっきりと証拠が残されている。毛髪、血の足跡、喉に刺さったままの鉄パイプや割れた酒瓶……そうした様々なものが十代か、せいぜい成人して間もない女性であることを明確に示していた。
オリガは、あえてそれを言っていない。
「私を疑ってるなら見当違いだ」
――私は、もっと上手くやっている。
「そうかもな。串刺し公ならもっとスマートにやるだろうさ。でも、それがフェイクかもしれない」
「警察ごっこがしたいわけ? 悪いけど、札束とコカインの持ち合わせはなくてね」
「ハハッ。そういう冗談も言えんだな。……ま、せいぜい気を付けな。あんたも立派なマフィアの娘なんだからよ」
続く軽口にシュリの眼が一段と鋭くなる。
「ご忠告どうも。用件は終わり? なら、首が付いている間に帰ったほうがいい」
「怖い怖い……もう一つ。軍の動きが怪しいってのはどうだ?」
「それも詳しくは知らない」
「……ふむ。それは本当みたいだな。それじゃ、あたしはもう行くよ」
「さっさと消えて」
「へへっ……おっと、そうだ。さっきも言ったけど、こっちは今暇してるから、依頼があったら連絡してくれ」
オリガはポケットから連絡先の記された紙切れを出し、投げるようにしてテーブルに置いて席を立った。そして紅茶のカップに手を伸ばし、そのまま一気に飲み干す――あまりに自然だったので、柑奈は見過ごしてしまった。
「ごちそうさま。またなー」
颯爽と去っていくオリガの背を、柑奈は苛立ち半分、呆れ半分の目で見送る。
「まったく、やりたい放題ですね」
シュリの言う通りだ。一方的に質問ばかりして、最後には紅茶を盗んでいった。
こちらが手に入れた情報といえば、オリガがベサールとの契約を終えているらしいということだけ。仕事を考えれば収穫と言える。とは言え、気分はあまり良くない。
それにだ。フリーだと言うのなら、オリガは今、誰の依頼であれこれ嗅ぎ回っているのか。例のマフィア殺しに賞金でも掛かっているのだろうか――柑奈は静かな店内で考えを巡らせたが、無駄なことだとすぐに止めた。
(今は仕事に集中しよう)
とりあえずは、脅威が一つ減ったことを前向きに捉えればいい。
「あ、さっきの電話ですけど、ボスから引き続き付いてやれ、とのことでした」
「……そんなところだろうと思った」
過保護なあの男が、完全に手放しにするわけがなかった。殺し屋業は許しているくせに、まったく――。
「それが条件ってことなんでしょう?」
「まだしばらくは姉離れできませんね」
ため息混じりに頭を振り、気持ちを切り替えカップに手を伸ばす。しかし、口に運ぼうとしたところで飲まれたことを思い出した。同時にカップの底の異物に気が付く。
命の源を吸われたような、白い無形の塊。ガムだ。
――あのクソ女。