第6話 ロストフファミリー
一週間後の昼過ぎ、横浜市内のとある屋敷――柑奈は、ロストフファミリーのボスであるヴィクトル・リヴォヴィチ・ロストフのもとを訪れていた。
今年で齢四八になるヴィクトルは、ステレオタイプなマフィアのスタイルを好む。
今も、いかにもそれらしく書斎で革張りの椅子に座り、イタリアのブランド物のスーツに身を包み、そしてキューバ産の葉巻を咥えている。外出時にはソフト帽を被るのが常だ。
服装だけは古風な紳士だが、そのスーツの下はよく鍛え上げられている。
何せヴィクトルはロシアの元軍人。かつては陸軍に所属し、若い頃には中東から北アフリカ、東アジアと多くの戦場を経験したものだった。
やがて少佐にまでなったが、変わりゆく情勢の中で立場を悪くし、ついには追い出されるようにして退役する。
その後、社会に馴染めず職にもありつけなかったヴィクトルは、似た境遇の元軍人を囲って裏社会に進出――さらにストリートギャングを手懐けると、第三次世界大戦後にロシア領となった北海道へ渡り、そこで活動していたマフィアを乗っ取った。
そして、拠点を当時最も旬だった横浜に移し、謀略と暴力を駆使して混沌の時代を生き残り、着実に規模を拡大していったのだった。
「どうした? お前から話があるなんて珍しいじゃないか」
ヴィクトルが葉巻を灰皿に置き、柑奈に静かな眼差しを向ける。
二人の時はいつも落ち着いた様子で、そうした振る舞いが父親のようで柑奈はあまり好きではなかった。
「……抜けようと思ってる」
「そうか」
「止めないの?」
柑奈の問いに、ヴィクトルは軽く微笑む。
「簡単に言えることじゃないだろう。学校も出たんだ、勝手にすればいい」
柑奈は表情を変えず、小さく安堵の息を吐く。
すると、ヴィクトルは机の引き出しに手を伸ばした。
「――だが、その前にこれだ」
取り出したのは数枚の紙束。それを机の上に置いて柑奈に寄せた。
「物損の請求書なら経理部にでも送ってよ」
「はっ。そんなケチ臭いマフィアだったら、とっくに部下に殺されてるな」
「分かってる。仕事でしょう」
殺しの依頼は、こうしてボスか一部の幹部から直接受ける。串刺し公の正体が不明で、柑奈が令嬢としか思われていないのはこのためでもある。
手に取って見てみると、一枚目にはターゲットのマグショットとプロフィールがあった。
アルバニア系の新興マフィアのボスで、名をベサール・ターレという男。未婚の三五歳。身長は一七五センチメートル。とりわけ身体的特徴はない。他には住居やよく利用するレストランとクラブハウス、さらに愛人の名と写真まで載っている。
「以前から俺たちのシマに触れない程度に活動している奴らでな。地方で細々とせこい犯罪でもやっていればいいものを、ここのところ調子に乗って踏み込んできている。先日お前がやった仕事に、何かちょっかいを出してきたのもこいつららしい」
それは典型的な理由で、幾度となくこなしてきた仕事だった。大した案件ではない。注意すべきは、あのジャージ女だけだろう。
しかし――。
「ここまで細かく情報があるなら、どうして私に?」
ヴィクトルの配下には、ロシアから連れてきた元軍人に加え、彼らに訓練された戦闘部隊がある。それを動かせば、暗殺どころか小さなマフィアなど数日の内に壊滅させることもできる。
「無暗に目立つわけにはいかないからな。今は」
「どういうこと?」
ヴィクトルは答える前に葉巻を吸い、ゆっくりと紫煙を吐いた。
「軍がきな臭い動きを見せている。……まだ分からないが、また戦争になるかもしれん」
軍とはかつての自衛隊のことだ。第三次世界大戦勃発により必要に迫られて拡大していき、今では政治にも影響力のある組織になった。
「動き、ね」
ヴィクトルは深く語らなかったが、十分に察しがついた。
数年前から政府内部がごたついていて、軍部の力が増しているというニュースが流れている。政権が変われば国とマフィアの関係も変わるだろう。振るえる武力を持っているなら尚更だ。
それに、マフィアはそれほど争いを好まない。手段として日常的に暴力を振るうが、それはビジネスのため。組織がどれほど好戦的で大きな戦力を所持しているとしても、存外、無意味に争いごとは起こさないのだ。
つまり、今は見、ということなのだろう。
「で、やってくれるな?」
「当然。善良な市民から死を望まれてるクソ野郎を消せるんだからね。喜んでやるよ」
ヴィクトルは肩を竦めてため息をつく。
「……殺し屋になるのを認めたこと、後悔してるの? あの日……私のすべてが壊されて、あなたに拾われた時に運命は決まった。私にはやれる力があったんだから」
「裏社会じゃ復讐がきっかけという奴なんて珍しくない。そして、復讐の相手と同じような人か獣か分からんクソ野郎になって、そこらへんでくたばる。その点、お前はまだマシだよ」
殺し――それ以上をしていないことを、ヴィクトルは知っている。
死体を弄び、殊更生者を挑発して高笑いするほど腐ってはいない。
「私はマフィアの犬。でも、マフィアになったつもりはない」
「ああ、それでいい。……シュリにはもう伝えたのか?」
「昨日話したよ。全然驚かなかった」
ヴィクトルは、その様子を頭に浮かべ薄く笑う。
「だろうな。あいつが一番お前といる時間が長いんだ」
「頼んでないけど」
ヴィクトルはもう一度味わうように葉巻を吸う。
「――抜けたらホテルからも出るのか?」
「出て行くよ。抜けるくせに甘えるなんて、虫が良すぎるでしょ」
「……気を付けろよ。顔は知られているんだからな。馬鹿に狙われることもあるかもしれない」
ヴィクトルは何か言葉を呑み込んで、そう言った。
「その時は街がまたすこし綺麗になるだけ」
「違いない」
用件を終えれば会話も終わる。いつものことだ。
昨日は何をした。夕飯は何を食べた。あのテレビドラマは見た――二人の間に、そんな友人や家族みたいな会話は存在しない。
「それじゃ、もう行くよ」
「何かあったら連絡を寄こせ。遠慮はするな」
「分かった」
書類を折り畳んでポケットに突っ込み部屋を出る。すると、向かいの壁に行儀悪く寄りかかるシュリがいた。
「行くよ」
「お疲れさま。抜けた祝いになんでもプレゼントしますよ。何か欲しいものあります?」
「欲しいもの……」
そんなものはない、と首を横に振って歩き出す。
今、一つの区切りを終えた。
そのはずだが、心の内に変化は訪れなかった。