最終話 矢の向かう先
世界が新年を迎え、七〇時間が過ぎた三日目の夜。
多くの国で未だ浮かれた空気が残り、夜の街では若者が馬鹿騒ぎに興じている――それは正月真っただ中の日本でも、もちろん例外ではない。
関東地方南部では元旦から雪が降りしきり、二日目の時点で都市部でも四〇センチメートルの積雪となって世間を騒がせていた。
そうした賑やかな喧騒と混乱から離れた都市郊外――自由が丘に坐するとある邸宅では、新年を祝う会食が開かれていた。
そう、既に過去のことだ。
そこにいたのは財界の大物や政治家、そして軍の将校。
邸宅の主でもある主催者の名はタイハラ・ムネシゲ。彼は改革派――クーデターを画策する人物の一人だった。
一時間前――自慢の庭園に出て雪見酒と洒落込んでいた時、突如飛来した矢がタイハラの頭を貫いた。そして雪の上に静かに倒れ、一拍遅れて場は混乱の渦に陥った。
ほどなくして憲兵が押し寄せたが、現在は警備の数人がいるだけ。邸宅には朱く染められた雪だけが残っている。
それを演出した女は、雪降る街を人目から逃れるように街明かりの影を歩いていた。
女は黒のブルゾンを羽織り、フードを目深に被っている。背中には楽器ケース。いつものスタイル――しかし、雇い主に大きな違いがあった。
今夜はその雇い主に変わってから三度目の仕事。
雪の中での距離一五〇メートルの狙撃は、女にとって障害とならなかった。
そして、やはり特別な感慨も湧かなかった。
女は雪を踏みしめながら考える。
私情が絡まなければ、殺しに意味などはない。タイハラが殺されたように、今日もどこかで大勢が死んだことだろう。悪人も善人も、男も女も年齢も立場も関係なく。
それでも世界は変わらない。
あれから二ヵ月ほどが経った。相変わらずクズ共は蔓延っているし、警察は腐敗したまま市民を苦しめている。昼も夜も弱者が泣いている世の中だ。
復讐心から始まったこの道は、いったいどこに行き着くのか。
いつかPPとの契約を終えた時、その後はどうする? 弓を置く? 世のクズ共を放って、それができるのか――悪の存在を、あまりにも知り過ぎたのだ。知らなければ穏やかに生きていけただろう。しかしそれは、幸福と言えるのだろうか。
すると、その問いに反応するように携帯端末が震えた。
『無事に終えたみたいですね。ま、敵なんていやしませんけど』
「そっちこそ、暖かい部屋でご苦労さま」
『はは。寄り道しないで早く帰って暖まるといいですよ。そうだ、近いうちに前に約束したパスタ食いましょう』
「任せるよ」
短い通話を切った後も、まとまらない思考を抱いたまま二時間のSDRを遂行し、ようやく住処のアパートに辿り着いた。
入口で雪を払い、静かに階段を上がる。
階段は古く安っぽい造りで、一段ごとに軋んだ。
部屋のある階に着いてすぐ廊下を見渡す――侵入者がいれば床が濡れているはずだが、そうした痕跡は見当たらなかった。
部屋の前に立つとアナログな鍵を差し込み、静かにドアを開ける。
すると、暖かい空気が冷えた身体を包んだ。
それだけではない。空気には濃厚な、チーズと卵の香りが混じっていた。
幻ではない確かな感覚に、あたたかな記憶が呼び起こされる――明かりが点いている異常など、一瞬で吹き飛んだ。
心臓が胸を叩くように跳ね上がる。
どうして?
いや、とにかく立ち去らなければいけない――しかし、柑奈の脚はなかなか言うことを聞かなかった。
下がろうとしているのに、同時に前に進もうとしている、そんな奇妙な感覚。
まごついている間に、廊下の先から懐かしい小さな横顔が現れた。
そして――。
「あっ」
視線がぶつかり固まった。
長かった髪は肩で揃えている。変化はそれくらい。快活そうな姿は、あの頃そのままだ。
どれくらいそうしていただろうか――ふと少女の目に涙が浮かんでいることに気付いた。
感情の塊はみるみるうちに溜まり、暖色の照明にきらりと輝く。そしてまばたきした拍子に、ぽたりと零れ落ちた。
「チカ――」
少女の、体当たりのようなハグを身体で受け止める。
その温もりに、すこしの狼狽を覚えた。
「全部、シュリとジャージの人から聞いたよ」
余計なことを。
宙をうろつく自分の手を見ながら思った。
フォークが皿を鳴らし、クリーム色のソースが絡んだパスタを巻き取っていく――。
まるであの日の続き。
何事も起こらずただ続いていたら、こんな時間があったのだろう。
「おいしい?」
「おいしいよ」
一言。感想としては素っ気なかったが、素直な感想にチカは微笑んだ。
時間が過ぎるほどに、柑奈の思考も感情も混迷の渦に囚われていった。
記憶はどうなっている? 玄関を開けて気付いた時、すぐに踵を返すべきだった。いや、今からでも遅くない。
一緒にいることはできない、これでお別れ――そう伝えて去るべきだ。
しかし、この顔を見たら声にすることも難しかった。
「驚いた?」
「え?」
「私がカンナのこと覚えてるの。なんかね、フカンゼンだったとかで、二週間くらい前に思い出したんだ。でも思い出せた最後の記憶はあいつらが来たとこで、何があったかは誰も教えてくれないんだけど」
ミヤマは段階的な施術によって、と言っていた。あの期間ではそれを行えなかったのかもしれない。
全て忘れてくれていれば、と思うのは我儘だろうか――柑奈はより複雑な表情になる。
「身体ね、普通の義手とかにするんだって」
「そう……」
伝え聞いていたが、あっけらかんと言うチカの様子からようやく人心地が付けた。
不安がないわけではないだろう。それでも、この子が進む先はきっと明るい――そう思えばこそ。
「来週から学校行くんだ。学校なんて行かなくたって生きていけるのにね」
「行かないと。ちゃんと生きるんだよ。チカは」
「……わかってるよ」
するとチカはフォークを置き、抜き身のナイフをテーブルに差し出した。
膝に突き刺しそのままだった黒いナイフだが、チカには貸したままになっている。
「私にはもう必要ない。そういうことでしょ?」
柑奈はナイフに視線を落としたまま、一度だけ静かに頷いて言う。
「チカには暴力から遠い世界で生きて欲しい」
遠回しながら明確な意味を持った言葉は、チカの視線を寂し気に下げさせた。
その先にあるのは、やはり黒いナイフ。単なる凶器ではない。チカにとっては二人を結ぶ特別な証。幼い子が親からプレゼントされたぬいぐるみを抱くように、ずっと大事にしていた。
柑奈にとっても同様で、かつて多くの血を吸ったナイフは、あの日以来ひとつの決意の証となっていた。
そうして二人の視線を集めたナイフは、重力を持っているかのように離さない――すると沈黙が流れ、部屋には古臭い時計の針の音だけが耳障りに響き続けた。
少しして、チカがすうっと息を吸って顔を上げた。
「黙って行っちゃうなんてずるいよ」
「悪かった」
「でもね、さよならをしに来たんじゃないんだ」
柑奈がナイフから顔を上げて、チカの目を静かに見据える。
「まさか、手伝うなんて言い出すつもり?」
するとチカは、「言わないよ」と言って小さく笑う。しかし楽しげではなく、むしろ不安が窺えた。
「カンナがたくさんしくれたってこと、私だってもうわかってる。だから、そんなワガママは言わない」
「なら何を?」
「……あのね、ケイヤクっていうのがいつか終わったときの話」
「それは」
PPの下での仕事を終えたら――また殺し屋としての日々が続くだろう。食べて殺して寝る。その繰り返し。それだけだ。これまでとそう変わらない。
そうして、いつか自動機械のようになるかもしれない。その時が私の死なのだろう。恐ろしいとは思わない。殺し屋に身をやつした自分に相応しい末路だ。
「――ねえ、なんにもすることがなくなったら戻って来てよ。私は待ってるから……こうやってごはん作って、待っててあげるから」
「私は……」
「悪いヤツらが許せない?」
ぽつりと、しかし意思のこもった口調で言った言葉はシュリと同じものだった。
「いいよ。気が済むまでやったらいいよ。でも疲れちゃったら止まってよ。そういう時、私やシュリのことを思い出してよ。どんなに暗いところにいても、手を伸ばしてくれれば今度は私が掴むから。絶対に。だから――」
より強い意志がこもった声に、柑奈は口をつぐむ。
「――私の、家族になってよ」
震える声が胸の奥底へと深く響く――そして視界が滲んだ。
温かいものが頬を伝い、ようやく自分が泣いていると気が付いた。
どうしたらいい。
私はどうしたい?
「おっと、いいところに来たみたいだ」
「シュリ……」
振り向くと、ワインを片手に持つシュリがいた。
「カンナ、嘘をつくのはやめろ。マフィアを抜けた祝いに何が欲しいか聞いたよな。お前がいつも欲していたのはそれだろ」
そうだ。分かり切っていた。
家族といる、そんな何でもない時間を取り戻したかった。
それこそが私の願い。心の根底にあった、復讐よりもずっと大事なもの――けれど、失ったものは永遠に取り戻せない。
理解していた。だからこそ、終わりなき手を血に染める道を選んだ。
それでも――もし、今からでも遅くないのなら。
手に取る資格があるのなら。
「……いつか、ね」
曖昧な誓いの言葉。
それでも、チカの顔をくしゃくしゃにさせるのには十分だった。そして、柑奈の心に火を灯し、変化を与えるのも――。
チカが席を飛び出し柑奈の胸に飛び込んだ。柑奈は腕を回し、今度はしっかりと抱きとめる。
そんな二人を、やれやれと笑いながらシュリがそっと抱く――孤独だった三人は、熱を分かち合うようにしばらくそのままでいた。
その後、他愛のない話で笑い合い、将来の夢を語り、そして小さなベッドで三人一緒に眠りに落ちた。
幻想のようだった日々――柑奈は一時の間だけ、確かに取り戻したのだった。
殺しに喜びを感じたことはない。
それがどれほどの悪だとしても、自分の復讐の相手だとしても変わらなかった。
それは、きっとこれからも変わらない。
けれど、今は道の先が見えている。
穏やかで、何も特別ではない場所。ひとつの幸せがある場所。
そこへ向け、進むために今日も弓を引く。




