第38話 ひとりのために(3)
二三時〇二分。
ホテルの一室に男が二人、和やかな雰囲気で向き合って座っていた。一人は日本政府の裏切り者であるウキタ外相、もう一人はアジアのための犠牲に選ばれた中国のリ外相だ。
二人は簡単な会話の後に、上等なシャンパンが注がれたグラスを手に持った。そして視線を合わせて今一度笑みを作ると、控えめに乾杯をして二人はグラスをあおる――それら一挙手一投足までが計画されたものであり、生贄の儀式に等しかった。
「……」
ターゲットの頭部がスコープの中央、レティクルに収まった。
少女の白く擦り傷ひとつない指が、一つの装置のように動く――ガン、と横から銃身に衝撃。凶弾は、星のない夜空へ消えていった。
衝撃と発射の反動でアサルトライフルが手から離れ、床におもちゃのような音を立てて落ちる。少女はすぐに拾おうとしたが止めた。
「……敵」
衝撃が来た方向、二〇メートル先にある部屋の入り口に、武器を持った何者かの陰。
少女はナイフを抜いて、ただ見据えた。
どうにか間に合った――。
柑奈は階段を上がり、予想されたポイントに到着してすぐにチカを見つけた。
そこはレストランが入る予定の伽藍洞。光源はないが、街の明かりがいくつもの大きな窓枠から差し込んでいる――その内のひとつの窓辺に立つチカは、タポールが持っていた銃と同様のものを構えていた。
柑奈は瞬時に狙いを付けて矢を放つ――矢は銃身に命中し、チカはその衝撃で暴発させて銃を落とした。
こちらを向いたチカの服装は、白っぽいパーカーに黒いジーンズ。どこにでもいそうな女の子だ。しかし手にはナイフが握られ、その顔もあの日と同じく感情は感じられない。
「チカ。私だ。分かる?」
「……」
反応はない。予想していたことだ。覚悟はできている。
記憶を失っていても問題はない。あの三週間足らずの安穏とした日々が証明している。きっと何者でもない女の子に戻れるはずだ。
柑奈は矢を番え、人形のようなチカに狙いを定めた。出会った時のように、唐突に戦意を失くしてくれるならいい。しかしその可能性は既に捨てていた。
「……」
「……」
チカは重心を低くし、摺り足で少しずつ近づいてくる。距離はまだ一五メートルはあるが、矢を放った瞬間を狙っているのだろうと理解できた。そのうえで、柑奈は右腿を狙って矢を放った。
その右足に体重が乗った直後に射られた矢は、常人には回避不能――だが、チカは柑奈の指が動いた瞬間にナイフを射線に置き、矢を弾いてみせた。
矢は後方の壁に当たり、チカは一直線に襲い掛かってくる。
(速い――!)
柑奈は矢を捨ててナイフを抜く。そこにチカが地を這うようにして、柑奈の右脚を狙って一閃――柑奈は足を引いて避け、チカが追撃を繰り出し、そうして高速の攻防が始まった。
腕、腹、腿、脛――次々と柑奈に傷が刻まれ、チカの両手両足も切られていく。しかしチカの四肢からは血が流れず、柑奈だけが血に塗れていった。
ただ、それも想定の範囲内だった。チカの身体の大部分が人工のもの――生きたまま制圧する手段は限られている。
柑奈は体格差という利を捨て、チカの間合いに入った。
それを隙と見たチカは、胴体の中心へと突きを放つ――柑奈は背後に回るようにくるりと回避し、そのまま飛び退いて五メートルほど距離を取る。さらにナイフを納めつつクイーバーから矢を引き抜き、再び右腿を狙って矢を放った。だが、それを予測していたチカはなんなく避けた。
そうして開始時に戻ると、柑奈は内心で驚嘆する。
(これが本来のスペックか)
放浪生活で疲弊していたあの時とはまるで違う、恐ろしいまでの力だ。この子一人を生み出すまでに、いったいどれほどの犠牲を出したのか――滲み出す怒りを抑え、柑奈は目の前に集中する。
柑奈と位置が入れ替わったチカはその場に留まり、攻撃の意志を向け続けてきている。今のタイミングであれば、この場を脱出することができたにもかかわらず。
(目撃者は殺せとでも命じられたか――好都合だ)
柑奈は矢を一本引き抜き、チカの左肩に放った。
チカは簡単に避けて二歩で柑奈の目前に迫り、今度は左脚を狙ってナイフを振るう――柑奈はそれを弓のハンドガードで受け流すと、ラケタを右の中指と人差し指でつまむように持ち、それを開放させると同時に親指で弾いた。
至近距離から弾丸のように打ち出されたラケタは、チカの右肩を射貫いてよろめかせる。柑奈はその隙にクイーバーから一本引き抜き、さらに左膝を射貫いた。
それでもチカは動じない。だらりと下がった右手のナイフを左手に持ち替え、心臓目がけて突く――ナイフは柑奈の右の手の平を貫いて止まった。
「私を刺すならこれだろう」
柑奈は左手で腰の黒いナイフを抜き、チカの右膝に突き立てた。
両脚の力を失ったチカは、なおもナイフを引き抜こうと抵抗を試みる。しかし柑奈は刺されたままがちりと掴み、そのまま背中に捻り――そして、背後から抱きしめるように首を絞めた。
「眠れ――全部悪い夢だったんだ」
さらに力を込め、チカの足が床から離れていく。
しかし、片手では細い首をうまく絞められず、チカは右の肘から先だけで柑奈の脇腹を殴り始めた。
「……っ」
苦痛に呻き声が漏れ、柑奈の顔が歪む。
(落ちてくれ――)
これ以上、痛めつけたくない。そんな思いが力を振り絞らせ――やがて抵抗が弱まり、最後に全身の力が抜けた。
ほとんど同時に柑奈も膝をつき、チカを庇いながら倒れ込む。
「チカ……」
囁きながら見ると、その横顔は安らかなものだった。
あまりにも場違いで、思わず笑みが零れた。
「さて――」
まだ終わりではない。チカは数分もすれば自力で蘇生する。それまでに縛り上げないといけないし、銃声で通報を受けた警察が来る可能性もある。
身を起こそうとすると、聞き慣れた声が響いた。
「カンナ!」
駆け寄ってきたシュリの右手は、大きく切り裂かれている。
「酷いね、それ」
「お前も大概だろ! それよりチカはどうなってる?」
「落ちてるだけだから、今のうちに身動きできないようにしないと」
「よし……」
シュリはチカの服を脱がせると、それで縛り上げながら呆れたように言う。
「――まったく、世話が焼ける。右手もお揃いにしちゃって」
言われて見てみれば、手の平に穴が空いているだけでなく、ラケタを撃ち出した親指の先の方が潰れていた。
「名誉の負傷ってやつだね」
「見返りはチカの未来か」
そのためにやれることは全てやった。これで得られるのなら安い代償だ。あとはPPが約束を守るかどうかだが、おそらくは果たしてくれるだろう。
シュリはあっという間にすまきにして、最後にぺしっと叩いた。
「さあ、おうちに帰りましょうか。……撃たれたところも酷そうだ。気分は?」
確かに酷いだろう。でも死ぬほどじゃない。患部に手を当て、それからなんとなく外に目をやった――仕事はいつも夜にある。見慣れた都会の光がそこにはあった。
しかし今夜のそれは、いつもより少しきれいに思えた。
「悪くない、かな」




