第32話 ひとつの決着
その地下施設は階段を十メートル下り、さらに細い廊下を抜けた先にある。
バスケットコート程度の広間にいくつもの部屋が隣接され、そこで人体の機械化と洗脳、そして戦闘訓練が行われてきた。
この仄暗い空間こそが、日本のサイバネティックスの最先端である――そう関係者は自負する。
しかし、それも今夜で終焉を迎えることとなった。
通常よりも深いところに設計された地下では、地上の喧騒は遠い。それでも北西で響いた二度の衝撃と、今しがた響いた銃声は確かに届いた。
警護のリーダーは、上の部隊から応答がないことを確認すると、部下三名を廊下へ走らせた。
細い廊下で待ち受ければ、生物兵器でも持ち出されなければしばらくは防衛できる。隙の無い判断だった。
そして残る警護のリーダーとミヤマ・ナガヒサは、廊下とは反対側にある部屋で向かい合っていた。
「まだ来ないのか!」
芳しくない状況にミヤマが怒鳴った。
黒々した髪を後ろに撫で付け、体躯は軍人というより政治家か官僚といったふう。その肉体を、しっかりとした濃紺の軍服が包んでいる。
軍服には階級章や勲章の類が一切ない。それは暗殺を恐れ、身分を隠しているためだった。
「混乱しているようで、基地から出られていないようです」
「具体的に言え」
「輸送ヘリが遠距離から攻撃を受け、陸軍横浜基地に配備されている二機ともがローターを破壊され飛行不能。基地周辺は市民の大規模なデモ隊に囲まれ、完全に麻痺状態に陥っているとのことです」
「馬鹿な……」
ミヤマは、その端的な報告で状況を察した。
このタイミング、間違いなくここと基地の混乱は連動している。
装甲車なりで民衆を蹴散らせば、二〇分程度で応援は到着するだろう。しかし、クーデター前に市民を敵に回すことはできない。
さらに、すぐに部隊を動かせるのは横浜基地だけ。座間も久里浜も駄目だ。もはや孤立無援と言っていい。殺し屋一人と侮って、おびき出すつもりが裏目に出たのだ。
ミヤマは壁に固定された八〇インチのモニターを殴りつけ、激昂しかけた感情を鎮める。
「……上の状況は?」
「西側で交戦中です。侵入者の人数及び武装は不明で、少なくとも六名が死亡。東側からの報告はありません」
自らが対処のしようがない事態に、ミヤマは押し黙る。
「戦闘になる可能性があります。ここで待機を――」
不審な物音。何かが床に落下した音だ。それが三度連続した。異常があったのは間違いない。
警護のリーダーは、無線機に手を伸ばしたが止めた。
「確認してきます」
アサルトライフルを構えながらドアを開ける――刹那、警護のリーダーの後頭部から細い棒状の物体が突き出て、警護のリーダーはそのまま前のめりに倒れた。
ミヤマは見た。
黒い月を携えた死神の姿を。
警護の兵士たちが行動を開始した頃、柑奈は既に地下の廊下に降り立っていた。
二〇メートルほど続く廊下の照明は消え、非常灯の薄い緑だけになっている。敵は廊下の出口を防衛線にするだろうと予測し、柑奈が先んじてスイッチをオフにしたからだ。
柑奈は闇に溶け込み、彼らが暗い地獄の蓋を開けるのを待った。そして、その時が訪れた瞬間――三人は敵の姿を視認する間もなく、柑奈が殺してきた多くの小悪党と同じような死を迎えた。
(上の連中と装備が違う。警護の奴らか?)
状況を考えつつ矢を番えて進むと、廊下の先にはやや広い空間。
飾り気のない無機質なそこには何も置かれていない。ドアが左右に三つずつと正面に一つ。情報通りだったが、ターゲットがどの部屋にいるのかは見当がつかない。
しかし、悩む必要はなかった。正面のドアから兵士が現れ、正解を明かしてくれた。
柑奈は早撃ちの如く弓を引く。
矢が兵士の顔面を穿ち、同時に銃声が響く――左腿に一瞬の激痛。
兵士はドアを押しながら倒れ、奥にいる男の姿を晒す――一瞬で全身が熱を持ち、殺意が奥底から溢れるのを感じた。
柑奈は躊躇なく矢を放つ――しかし、感情を押し殺した一射は男を生かした。
右肘に矢を受けた男は、苦悶の表情で後ろによろめく。
(間違いない。こいつだ)
殺すことは決まっている。しかし、命を懸けに来た目的を違えてはならない。
左腿を見ると、血が脚に線を引いてブーツへと流れていた。大腿骨は外れているようだが、事を済まして早く止血しなければいけない。
柑奈が言葉もなく近づいて行くと、男は並べられた折り畳みテーブルや椅子に当たりながら、じりじりと後退る――時間稼ぎにもならない行動を、ただ視界に入れて進む。
そして柑奈は死体を越えて部屋の入り口に立ち、男は壁に当たった。
男は顔を歪めながらも、まるで異常が無いような口調で話す。
「お前がヴィクトル・ロストフの娘、串刺し公と呼ばれる殺し屋か」
「ミヤマ・ナガヒサ、お前たちが攫った子はどこにいる?」
無視されたミヤマは、冷静を取り繕って答える。
「お前が匿っていた検体七八号のことだな。あれは既に私の手から離れた。諦め――」
左肩を射抜き、その矢で意を示した。
ミヤマは無様に叫ぶことはしなかったが、呼吸は荒くなり始めている。
「……私が、あの検体の居場所について口を割ることはないぞ。今日まで、私欲のために行なってきたのではないのだからな」
「言え。どこに……いや、まさか……」
ミヤマの薄笑いを見て、柑奈は確信した。
チカは、既に作戦のために動かされている。
拷問にかけて吐かせるか、それとも用を済ませ撤退するか――柑奈は逡巡し、後者を選択した。
もし上階の兵士をオリガが制圧していれば、撤退は楽に運ぶ。だが囮になっている分、こちらのように簡単にはいっていないだろう。
それに援軍が来ないとは限らない。対策は講じたが、全容の知れない相手だ。どのような手段を持っているか分からない。そして拷問に時間がかかる可能性と、正しい情報が得られない可能性を鑑みれば、この男をこれ以上生き長らえさせる必要性は、もう見当たらなかった。
「――二つ、質問に答えろ。まず、あの子の記憶はどうなっている? 戻るのか?」
「……検体の記憶は戻らない。前頭葉への薬物投与と段階的な施術によって完全に失われる。これまでの実験で実証済みだ」
「親族は?」
「死んでいる」
悪い予想ばかり当たる。
あの子は知らないうちに身体を弄られ、家族とその記憶を失い、またどこかで意志に関係なく凶行に及ぼうとしている。
胸に積もるのは怒り、憎しみ、嫌悪、やるせなさ、悲しみ、失望――柑奈は全て吞み込んで、両手に力を入れた。
弓の滑車がキリキリと微かに音を立て、強靭なリムがしなっていく――。
「復讐か。確かに、お前にはその権利があるだろう」
「そんなことはもういい。それに、正義感やらに突き動かされて来たわけでもない……お喋りは終わりだ」
指を離すと張り詰めた弦が空を切り、数多の死をもたらしてきた黒い矢を送り出す――が、ミヤマは紙一重で回避し、矢は背後の大きなモニターを貫通して壁に深々と突き刺さった。
(――こいつ!)
ミヤマは壁に固定された重さ五〇キロを超える矢の刺さったモニターを、左手一本で強引に引き剝がし、フリスビーのように軽々と柑奈へ投げつける。柑奈は横に飛んで避け、破壊的な速度で壁に当たったモニターは粉々に砕けた。
肉体が生身でないことは明らかだった。
(どこまで機械化している? 右手は動いていない……いや、何であれ――)
逡巡の隙にミヤマが肉薄する。そして迫る拳を、柑奈は義手で掴んで食い止めた。
「私を殺して何かが変わるとでも? この国の将来を思うのなら、我々に協力すべきだ」
「お前たちの愛国心なんてカルトと同じだ。ほとんどの人間は、普通に生きたいだけなんだ」
「普通にだと? 役人が犯罪組織の言いなりになっているこの国でか? 大国に媚びるしかできないこの国でか? 今のままでは、五〇年もすれば日本などという国家は消滅するぞ!」
言い切ると同時にミヤマは左手を引き、体勢を崩した柑奈を左へ蹴り飛ばす。
「ぐぅっ!」
柑奈は椅子やテーブルに激しく突っ込んで埋もれる。それでも脚の痛みに耐えつつ、すぐに起き上がった。そして目に映ったのは、死体に手を伸ばすミヤマの姿。
柑奈が弓を引き絞り、ミヤマは銃口を向ける――刹那、爆竹のような破裂音。それは矢と銃弾が衝突し、矢が破裂した音だった。
破片が舞い落ち、時間が止まったかのように二人の動きが止まる。しかし柑奈の弓には、既に次の矢が番えられていた。
ミヤマは咄嗟に左腕を上げた。直後、矢が機械の腕を貫通し、鈍色の矢尻は額の前で辛うじて止まった。
そして、ミヤマの胸に鋭く重い衝撃が走る――見れば、心臓にはナイフが刺さっており、それを握る柑奈がいた。
「……愚か者め。お前をそうしたのはこの国だろう。憎くないのか」
「大嫌いさ」
柑奈はナイフを引き抜き、さらに首を掻っ切った。
ミヤマから力が抜け、二つの死体が折り重なって血の池を作っていく。
柑奈は数秒の間だけそれを眺め、白い天井を見上げて呟くように言った。
「……チカ」




