第26話 力による平和
柑奈は安堵した。
シュリは助かる――しかし、一人になると再び怒りと憎悪の炎がぶり返した。それだけではない。胸の奥から自己嫌悪が溢れ出て、原油のように粘っこく柑奈の心を黒く覆った。
軽率だった。まだ外出を許すべきではなかった。陽だまりのような暖かさに包まれ、自分のいる世界を錯覚してしまった。
あの時、部屋の惨状を見て悪夢のようだと思った。全く愚かな勘違い。あれこそが自分のいる世界なのだ。
その世界が、どれほど陰惨で残酷かをよく理解しているからこそ、チカを平穏な生活に戻すのだと決めたのに――。
チカを真っ当な世界に戻すための方法は一つ――殺して殺して殺し尽くして、全て断ち切る他はない。
自分の脚の応急処置も終えた柑奈は、復讐者のような表情で地下から階段を上がる。
そして、廊下を進んだ先にオリガが佇んでいた。
「どうにかなったみたいだな?」
「命は」
柑奈は短く言って質問を加える。
「オリガ、お前は何者なんだ?」
オリガは柑奈の視線をしっかりと受け止め、はっきりと答える。
「あたしは殺し屋だ。工作員でもある。PP専属の、な」
「PP……パクス・ポテスターテムだって?」
あまりに大層な名前に、柑奈の眉間に皺が寄る。
本当だろうか。だが少なくとも、オリガは襲撃者側の人間ではないだろう。
あの時――ドアを強引に開けて入った瞬間、確かに驚いていた。だがそれは予想外の遭遇にだけではない。負傷しているシュリを見て、さらに反応していたのだ。
もし襲撃者側であれば、シュリの負傷の度合いに驚きはしない。あの作戦を知っていたなら、「何故生きている?」、「失敗した」そうした苦々しい顔をするはずだ。
だから、どこかの知らない犯罪組織か、近隣諸国の現地工作員の類だろうと見ていた。
柑奈が訝しんでいると、思考を読んだようにオリガが言う。
「PPが何であの子を狙うか、だろ?」
「……クーデターに関係が?」
「半分正解。PPってのは、どこかの国の政権が大きく変わろうが、通常は干渉しない。問題は、クーデターを起こした先の話だ。当然、政権取ってはしゃいで終わりじゃない」
「戦争を始めるとでも?」
無茶だ。アメリカとロシアが手を組み、新たな力の秩序が構築されたこの時代、極東の島国など火を起こす前に吹き飛ばされる。
「上の連中はそう見てる。中国、ベトナム、インドネシアと協調を企む動きがあるんだとか。太平洋の玄関になるこの島国が重要なんだろ。昔っから、中国にとっては目の上のタンコブだったからな。それが味方になったら、マイナスがゼロどころじゃない」
オリガは間をおいて続ける。
「――で、PPは不穏分子を潰して阻止したいわけだけど、証拠も無しに軍隊を送り込んだりはできない。国際世論が傾くからな。正義はそれらしくないといけない。つまりは大義が欲しいってわけだ――そこで調査を進めて手に入れた情報が、例の施設のウワサ。その非人道的な行いをやり玉に挙げて、強引に監査委員を送り込む。そして首輪を嵌めてやろう、ってな」
内情をぺらぺらと話すオリガの意を汲み取り、柑奈が後を引き継いだ。
「でも施設の所在は分からず、今日になってチカが軍に攫われた。しかもクーデターも間近で時間に余裕がない。だからオデルを知る私に協力しろって?」
「へへ。話しが早くて助かる。利害は一致してるだろ。施設の情報を手に入れたら、すぐにこっちにくれ――おそらくまともな軍の部隊が相手だ、あんた一人じゃ荷が重い。施設の方はPPが処理をする。どうだ?」
「私の最優先はチカ。その施設とかいうのは、潰してくれるなら勝手にすればいい。でも、チカはどうするつもり?」
「施設を押さえられるならそれで十分。物的証拠だらけだろ」
もっともらしいことを並べ立てたが、信頼するには不十分だった。
とは言え、仮にチカが施設にいるとして、軍が警備しているであろう施設に殺し屋一人で挑むのは自殺行為――それは確かに正しい。
柑奈は考え、やがて答えを出した。
「交換条件がある」
「いいぞ。言ってみ」
軽い調子で言うオリガを、柑奈は射抜くように見る。
「協力しろ。さっき言った通り、施設は好きにすればいい。ただし、その前にチカを私たちで救出する」
「はあ? 矛盾してないか?」
「もう一度言う。もし施設にチカがいるなら、私たちで先に襲撃する。他にいる場合でもお前はこっちを優先しろ」
オリガは黒塗りの天井を見上げて長く息を吐く。
吐き切ると今度は吸いながら下を向き、最後にどっと肺の空気を吐き出した。
「――分かった。それでいこう。情報を手に入れたら必ず連絡してくれ。番号は前に渡したやつでいい」
「約束は守る」
二人は握手の代わりに軽く頷いた。
「で、オデルの居所はボスから聞き出すのか?」
「いや。私はまだ完全には信じてない。だから別の知ってそうな奴に聞いてみる。丁寧にね」
「ふうん。ま、しっかりやってくれんなら何でもいいわ」
「許可なんて取るつもりはない――話が終わりならもう行く」
柑奈はそう言って奥へ戻ろうと振り返ると、そこに用があったダニールがいた。
「お前ら、仕事の話はよそでやれ」
「あたしの正体、知っちゃったか?」
「聞いてねぇし、興味もないから安心しろ――ああ、お前の武器はそこにあるから持っていけ」
ダニールが顎で指した方をオリガが見ると、カウンターの横に台車に乗せられた自分の武器があった。
オリガがクリスマスプレゼントに飛びつく子供のように駆け出す――柑奈はそれを横目に見つつ、ダニールに用件を言う。
「注文がある。今すぐ足が欲しいんだ。なるべく静かなバイクがいい」
「そんなのはいくらでも地下のガレージにある。適当に乗っていけ」
「助かる。あとガスマスクも」
「もちろんある。どっちもタダじゃねぇぞ」
会話を聞いていたオリガが、相棒の具合を確かめながらまた口を挟む。
「ホント、何でもあるのな」
「俺たちは悪の組織、その開発部みたいなもんだからな。軍が驚くようなもんだってある」
柑奈は二人のやり取りをよそに、シュリの携帯端末にメッセージを送った。
一言――行ってくる。
そして、再び廊下へ消えていった。




